はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

志太の微笑仏を訪ねて1

2012-09-25 10:41:26 | 寺社遍路
 志太地方に残されている木喰上人作の「微笑仏(ほほえみぶつ)」を訪ねて高草山の麓を散策してきました。

 微笑仏とは江戸時代中期の木喰上人が全国を行脚しながら彫った1000体の木彫りの仏像の事で、
普通木喰仏と呼ばれているが、その仏像が微笑んでいる事から微笑仏とも呼ばれているようです。

ここ志太地方には木喰上人は2ヶ月近く滞在して、13体の微笑仏が彫ったが、
現存しているのは12体だそうです。
そのうち5体は焼津、7体が藤枝市の残っており、焼津市の4体は寺には無く、
焼津市歴史民族資料館に保管されいるが、通常は展示されていないようです。

 大日堂/吉祥天像・不動明王像/資料館蔵
 宝積寺/地蔵菩薩像
 勢岩寺/弘法大師像/資料館蔵
 常楽寺/薬師如来像/資料館蔵
 十輪寺/虚空蔵菩薩像・子安地蔵菩薩像
 光泰寺/准胝観音菩薩像・聖徳太子像
 梅林院/薬師如来像・子安観音菩薩像
 常楽院/毘沙門天像

 以前駿河一国33観音の時、微笑仏を保管している藤枝の梅林院に寄ったが、
一人では参観を申し出る勇気もなく、また、許可されてもお布施(賽銭)を幾ら包めばよいのか
判断がつかず諦めてしまった事があった。
そこで墓参りの人が多いお彼岸に行けば、寺の本堂も解放されていて気楽に微笑仏を
参拝できるのではないかと皮算用をして彼岸の中日に出かけました。

     

 最初の大日堂は高草山の石脇登山口の近くにあり、焼津駅から歩き慣れた道を進み、
東益津小の信号を右折して、最初に見えだした山に向かって進む。
そして地図にも表示されている入口に道を探すのだが----無い!
付近を何度か確認するが地図に出るような太目な道は無い。あるのは畑の入口のような狭い道だけだった。

 付近には朝も早く歩いている人もいないので、思い切ってその狭い道に入る事に。
最近は歩いた人もいないのか、何重にも張られた蜘蛛の巣を枝先で払いながら進んで行く。
道が斜面になると簡単な階段にコンクリの擬木が使われていた。ウンこれなら間違いは無い。
この先には何かがあるはずだと安心をして先に進む。
低い丘のような山なので、すぐ地図の表示通りに城山八幡宮があり、その先に大日堂があった。

 
       大日堂              大日堂の縁起書

 大日堂の縁起書には
焼津市指定文化財 吉祥天像 木喰五行上人作
吉祥天は、正しくは大吉祥天女といい、福徳を司るといわれ、種々の善根を施したので
美しい顔になったといわれている。髪はふっさりと肩までかかり、親しみを感じる
にこやかな童顔をしている。高さは94cm」

「焼津市指定文化財 不動明王像 木喰五行上人作
この仏像は、 吉祥天像が完成した二日後に出来上がった。岸崖の上に踏ん張り、
渦巻きとなって燃え上がる火炎の中に立ち、不動の気魄を十分に表しながらも
木喰仏らしい人間味が出ている。高さは94cm」


 実物を見てないので何の観応も感じないが、記述に不動明王は二日間で作ったある。
そうなるとまさに粗製乱造のように感じてしまうが-------
その所為なのか文化財の指定は、県や国ではなく市指定に過ぎなかった。

 また、木喰上人の名前が「木喰五行上人」となっているのは何だろうと調べてみると
「kotobank」には「寛政5(1793)年から「天一自在法門 木食五行菩薩」と名を改める」とあった。
それはまさに縁起書の仏像の裏の墨書の「天一自在法門 木食五行菩薩」と一致していた。
しかし自分の名前を「菩薩」とするとは、この木喰さんは作品の穏やかな微笑仏と違い
自信過剰な性格だったのか、それとも菩薩の心境で仏像を彫っているという事なのか?

 更に案内板には、昨晩地図を調べていて気になった「城山」の説明もあった。
「石脇城跡 この城は「駿河記」によると文明年間に今川義忠が伊勢新九郎(後の北条早雲)を
住まわせたとある。
伊勢新九郎は応仁の乱の影響で今川の当主、義忠が遠江の塩買坂での戦死により、次代をめぐる
家督争いが起きた際、嫡子の竜王丸(後の氏親)を助け活躍した。伊勢新九郎はこの功績により
富士下方十二郷を与えられそれ以後伊豆平定にのりだし、やがて関東八国を治めた戦国大名北条家
(後北条)の基礎を築いた」

ここで書かれている今川の家督争いとは、以前紹介した花倉城が舞台となった今川義元の家督争い
ではなく、その一代前の義元の父親、氏親(竜王丸)の家督争いです。

 因みに伊勢新九郎の姉(妹)の北川殿が今川義忠の側室で竜王丸を生んでいるので、
新九郎は甥を助けた事になる。
また「Wikipedia」にはこんな事も書いてあった。
「伊勢新九郎は長享元年(1487年)、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。
同年11月、早雲は兵を起こし、敵の駿河館を襲撃して破り、龍王丸を駿河館に入れた」
とある。
そうして聞けば、この何でもない小山も何やら曰くのある城跡に思えてくる。

 
      六地蔵                石脇城跡入口

 大日堂のすぐ下に小さな墓地があり、何気なく見てみると海に関係ある名字に気が付いた。
「塩沢、塩原、海野」とある。矢張りここは海の近い影響なのだろうか。
帰りは海側の道を下ると、道は整備され蜘蛛の巣も無く、参道の入口には六地蔵が安置されていた。
更に車道の入口には「石脇城跡」の標識も建っている。そうしてみると私の登った道は裏道で
南側(海側)が表参道なのだろう。

 
     マムシ注意               旗掛岩

 よしそれなら次の目的の地宝積寺(ほうしゃくじ)も南側から行ってみようと東名の横の道を行く。
しかし残念ながら道は宝積寺までは延びていず、団地の中をグルリ回って戻ってしまった。
タイミングよく歩いていた人に確認すると「歩いているなら」と細い道を教えてくれた。
その道の入口には「マムシ注意」の看板が建っていたが、細いながらも舗装された道だった。
マムシならさっきの大日堂の方の道の方が、よっぽマムシが出てきそうだった。
 
 前方の道路に大きな石が見えてきた。若しかしてあれは旗掛石かと思い近づいて見ると
案の定「旗掛石」だった。旗掛石とは案内板によると
「浅間神社の登り口右側にある大きな岩が二つある。旗掛石、または鞍掛石という。
本来この二つの岩は、我国の古い信仰である神の依りつかれる磐座(いわくら)であった。
徳川家康が天下を取ってから、しばしばこの辺りで鷹狩を催し、その際家康の旗を立て掛け、
馬の鞍を置いたのでこの名がある」
のだそうです。

 今は舗装された道から大きいが余り高くない石がピョコッと出ているだけだが、昔はもっと高く
登るの大変だったと聞いた事がある。それが水害で道を嵩上げした結果今のようになったらしい。
確かにこんな状態ではとても磐座だったとは思えない。だが神代の時代はこの辺りは樹木が生茂り
鬱蒼としていたに違いない。そんな所に大岩が二つあれば注連縄を掛けてお詣りしたくなるのも道理だ。
 そうそうこの辺りの地名は「石脇」と呼ぶが、それはこの石に由来しているそうです。

     
   石脇浅間神社                 手水鉢

 旗掛石の横にある石脇浅間神社に気になる物があった。
それは「征露記念」と彫られた新しい手水鉢だが、これが古ければ気にもならないが、
余りに新しいので設置年を確認すると昭和55年だった。
この頃ロシアを相手に「征露」と言えるような何かあったのか? 当然何もない。
きっと日露戦争の戦勝記念に造った手水鉢が古くなり、新しいのに取り替えたのだろうが
少々違和感を感じた。

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1 コメント

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Unknown (しずおかk)
2012-09-25 23:39:14
袋井市の富士浅間宮には、凱旋紀念と刻まれた新しい燈籠があります。
日露戦争後に建立された燈籠を、昭和に再建したものでした。
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