はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

塩の道&秋葉道(相良-掛川4)

2012-10-29 15:21:26 | 塩の道
塩の道&秋葉道(相良~掛川4)                    歩行月日2012/10/2

歩行記

 
     応殸教院の山門                  山門の案内板

応殸教院の山門は国の重要文化財に指定されていた。案内を読みと
「この山門は、徳川三代将軍家光が生母追善供養のため静岡市宝台院の山門として
創建されたもので、八脚門の桃山時代の風格を持つ東海地方第一の山門であります。
大正7年宝台院より当山に移築され小笠郡下で最初に国の重要文化財として指定を受けました」

どうも私は野次馬根性が強いのか山門の八脚門より、国の重要文化財に指定されるような価値のある物を
何故宝台院では手放したが気になった。

宝台院は静岡市の駅の近くにあるある代表的な寺で、明治維新には徳川慶喜が謹慎していた寺でも知られている。
宝台院のHPを見ると宝台院は昭和15年の静岡火災で国宝の本堂などが焼失し、昭和20年には戦火にもあって
いたが、山門はそれ以前の大正時代に応殸教院に移築され無事だったようだ。しかしHPにはこの事は書いて無く、
ただ大正7年は「米騒動で境内に約1,200人の民衆が集まる」と記載されていた。
この米騒動が影響して山門を移築した?分からない 次回宝台院か応殸教院へ参拝したときは聞いてみよう。

それよりHPを見て気が付いたのだが応殸教院の案内板には山門について「徳川家光が生母追善供養のため
静岡市宝台院の山門として創建されたもの」
と説明している。
だが宝台院では「宝台院は、徳川家康公の側室お愛の方(西郷の局)の菩提寺です。西郷の局は、27歳より
家康公に仕え、家康公が最も苦難にあった時の浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった
糟糠の妻だった方です。また、二代将軍徳川秀忠公、尾張の松平忠吉公の生母でもあります」
とある。

ウー!これでは西郷の局は二代将軍秀忠と三代将軍家光を産んだことになってしまう。
これは調べるまでもなく、家光の生母は昨年大河ドラマの主人公だった「江」であって西郷の局ではない。
案内板を建てた菊川市の教育委員会は何か勘違いをしたのだろう。

  
 蛙の面に小便                 河童天国            のんべえ地蔵

それにしても応殸教院は面白い寺だった。参道には双体の道祖神が並び、山門の前には何故か巨大な蛙が
鎮座している(無事カエルを意味しているのかな)。境内に入るとあちこちに石仏があり中でも「蛙の面に小便」
とか小島功の「河童天国」にそっくりの河童たち。「のんべえ地蔵」の額のある樽の小屋もある。その中には
「松竹梅」
「花の舞」が置いてある。どうせ置くなら河童天国の「黄桜」を置けばよいのにと思ってしまった。

  
 お茶地蔵             観音像                 水子供養

まだまだある。なぜお茶地蔵なのか柿の実の表面に地蔵を彫ってある置物。これは茶壺?それとも茶の実?
小さな観音像を幾つも並べた棚の前には七福神や蛇の水石まで置いてある。これは水子供養かと思ったが
違った。水子供養は本堂の裏の大きな地蔵の下に小さな地蔵の置物が一杯置いてあった。
今までに色々な寺を廻ったが、これほど雑多な石仏を置いてある寺は初めてだった。
余程住職が石の置物が好きなのだろう。

   
     山門の標識                   裏参道の石碑

帰りがけに山門に掲げられている表示を眺めて見た。「皇円阿闍梨菩提所・遠州桜が池奥の院真跡・法然上人
番外霊場・皇円.法然.親鸞.熊ヶ谷各上人御旧跡・愛染明王尊霊場・遠州七不思議史蹟・のんべえ地蔵尊霊場・
遠江十二支霊場」
と簡単に書いてもこんなにある。沢山過ぎて有難味が薄れてしまう感じだ。

また裏参道も石碑には「櫻池真蹟」とか「さくらがいけ五里」とか彫ってある。どうやら桜が池と因縁があるようだが
何だろう? 桜が池とは塩の道より南の海寄りの所にある池で、近くには浜岡原子力発電所がある。
また、桜が池では赤飯の入ったお櫃を池に沈め、来年の豊作を占う行事がある事で知られているが、そのお櫃が
諏訪湖に浮かんだので、桜が池と諏訪湖は地中で結ばれているもといわれている。
でも奥の院の話は聞いた事はなかった。桜が池と応殸教院か、それに遠州七不思議など気になる事が幾つか
あるので、いつかここ応殸居員と桜が池を尋ねてみよう。


                          色々な鞘堂

途中にあった秋葉神社の常夜灯の鞘堂は古い物から新しい物まで色々ある。鞘堂とは建造物を守るため、
外側から覆うように建てた建物で中尊寺の金色堂の鞘堂が有名だ。
だが常夜灯を鞘堂で覆ったら常夜灯本来の照らす減少してしまし、しかも石でできた常夜灯より立派鞘堂もある。
中には瓦の屋根に留蓋までついていたり、透かし彫りのような彫刻を施した鞘堂まである。
鞘堂の中を覗き込むと、確かに石作りの常夜灯が入っている時もあるが、中には火を灯す設備だけの物、
秋葉山のお札を祀ってある物、小さな社が置いてある物など色々ある。
写真の左端の鞘堂は今にも崩壊してしまいそうだが、元は立派な鞘堂で屋根には留蓋まである。
しかし中を覗くと何も入っていなかった。


          留 蓋                                 鞘堂の中身

季節外れのお茶の香りがしてきた。そう言えば今日歩いている途中で何度となく乗用型茶刈機でお茶摘みを
している風景を見た。こんな時季なので春の新茶のため茶の木の整枝をしているのかと思ったら、茶刈機に
布袋を付けてお茶の葉を集めている。不思議に思って手伝いをしていた農家の人に尋ねると
「このお茶は秋番茶とか秋冬(しゅうとう)番茶と言って製茶します」と教えてもらった。
掛川茶はTVの「ためして合点」で紹介されたあと、深蒸し茶が有名になり売れ行きを伸ばしていると聞く。
そんな事もありこんな時期でも茶摘みをするようになったのだろうか?

今日の道は最初牧の原台地への登りの園坂があっただけで、あとは平坦な道だった。だがこれから掛川へ
入るには「陣場峠」を越さなければならない。と言っても海抜108m程度で、標高差は50mも無いので簡単に
峠に着く。
峠と言っても尾根の鞍部ではなく頂にある峠で、塩の道がわざわざ山頂まで登るのか理解できなかった。
峠には掛川市の案内板があり
「今川氏真が駿府を追われ掛川城に入ったので徳川家康は掛川城を攻めた。
その際この山上を陣地として6ヶ月にわたって掛川城を攻めたので陣場峠と呼ばれるようになった。

 
  陣場峠から掛川の街          陣場峠のモニュメント        峠からの下り道

峠から掛川市街が良く見えた。ただ今は樹木の影響で掛川城は見えなかったが、家康の時代なら当然
樹木を切り払っただろうから城内の様子は良く見えただろう。見張所を兼ねた陣地としては最適な
場所だと思った。だが案内板にあるように6か月もの間、塩の道の峠を陣地で占領し、通行止めにしたら
住民は困らなかっただろうか? 
住民は峠を通した? まさかナ それでは陣地の様子が敵の今川方に筒抜けになってしまう。
では真相は! 土台住民の生活道として使われていた道が、わざわざ山頂経由であるわけはない。
ガイドブックや道標はここを塩の道としているが、実際の塩の道は別にあったのではないか。
もっと楽な山の低い場所を通る道が。それが私の感想だ。

陣場峠から塩の道はガイドブックには西に延びているが、旧道は「通行可能・ただし草薮」となっている。
ブログなどを見ると、この峠から先の旧道が分かりずらいとか、藪漕ぎをするなどと不安を煽っている。
さてどうしようと旧道と思しき西に延びる踏み跡の先を見ると、草が生い茂り蜘蛛の巣が二重三重に。
これを見て急に気持ちが萎えてしまい旧道は諦めてしまった。でもそれに代わる道は------

今まであった塩の道のモニュメントは前後の行先を指す表示がされていたのに、ここの物は今まで歩いてきた
菊川への表示はあったが、これから行く掛川方面の行先表示が付いていない。
では研究会の道標はと探してみたが見当たらない。
アレー行けにという事なのか? でも峠の下の道標には峠への矢印が
有ったのに、ここまで誘い込んで後は無視なのか それは無いよなー で、頂の先の方に行ってみると--- 
有りました。結構急な斜面にコンクリの擬木を使った階段が残っていました。


                 手掘りのトンネル

陣場峠を越せば掛川の街は目の前だ。
ガイドブックに東名のガードを越した辺りに「素掘りのトンネル」があると書いてある。
このトンネルもブログには、蛇が居そうとか崩れそうとか書いてあったが、ともかく見るだけは見て、
通る通らないはそれから決めようと思っていた。
東名のガードを越した所の高台で畑仕事をしていた人にトンネルの場所を聞くと
「子供の時に通ったけど、今は通れるかなー」と言いながらも口で説明するではなく、先に立って歩き出した。
そして県道に下りてすぐの藪の中に入りだした
「エーこの先にあるのですか、それじゃ―止めますからいいですよ」
「なに ここがそうだよ。子供の頃はもっとデカかったと思ったが案外小っちゃいよな」
と葛の蔓が絡んだ先を指す。
そこにはポッカリ開いた穴があった。県道からほんの数mの所だが何故か静かな雰囲気を漂わせる場所だった。
蔓を掻き分けトンネルの入口に立ち中を覗き込むが短いせいか明るく底も平らで歩くには支障はなさそうだ。
トンネル自体はしっかりした岩なのか崩壊の痕跡は無い。これなら通っても大丈夫と判断し、案内をしてくれた人に
礼を言ってトンネルに入った。ペンライトを付けたが余り役には立たなかったが平らで草も生えてなく支障はない。
でトンネルを抜け出てみると、そちら側には「崩壊注意」の看板が建っていた。
そしてこちら側の方が草に覆われていて、如何にも蛇でも出そうな雰囲気がする。ブログの人はこちら側から
トンネルを見たのだろう。

掛川に入る前にもう一つ見ておきたい物がある。矢張りガイドブックに「キリシタン燈籠」と紹介されていて、
トンネルとは反対側の県道の西の大日寺の境内にあるようだ。
トンネルから県道に戻り再度東名まで戻って西の道に入り、挙張神社の横の細い道に入る。
左に寺の壁、右に石仏が並ぶ雰囲気に良い道を行くと、お坊さんが道の掃除をしていた。
挨拶をしてキリシタン燈籠の場所を確認すると
「この相良街道を少し戻った所から寺の入口に入り、境内の左側にあります」と教えてくれた。
成程この辺りでは秋葉道でも塩の道でもなく相良街道か。そして相良ではきっと掛川街道と言ったのだろう。
確かにその方が自然な感じがする。

    
   キリシタン燈籠                  塩町の交差点

「江戸時代中期の作と思われる。明治の初め、当寺の東側を通る旧相良街道の傍らに、半ば土に埋もれて
いた物を掘り出した。江戸時代徳川幕府がキリスト教禁止令を布告し、禁制が厳しくなったため土中に
埋めたと考えられる」
 確かにこれでは誰が見ても仏教や神道用とは思わないだろう。
燈籠下部に刻まれた人の姿は何となく聖母マリアに見えなくもないし、燈籠上部の刻印は漢字にも梵字も
みえず、これもアルファベットを図案化したようにも見える。
私は当初キリシタン燈籠とは、寺や神社の燈籠を模った物に、聖母マリアかキリシタンの呪文を隠して
彫ってあるのかと思っていた。
でもこの燈籠では人目に晒すことは出来なかったろう。土の中に埋めたのも頷ける。

案内板には「江戸中期の作」「禁制が厳しくなったので土中に埋めた」とあるがどうだろう。
徳川幕府がキリスト教の禁止令を出したのは2代将軍家忠で、島原の乱が起きたのも3代将軍家光の時代だ。
となるとこの時代は江戸時代中期ではなく初期の時代に当たる。
若しこの石灯篭が江戸中期の作なら禁制が厳しくなったから埋めたのでなく、当初から土の中に埋めて、
その上に何か神仏に関係する物を建てて、あたかもそれをお参りするようにして土中の灯篭をお参りしていた
のではないか。妄想的歴史観は今日も快調だ。

JRのガードを潜ると「塩町」に入る。
この辺りに昔は塩問屋が何軒もあったようだが今はその面影は無い。
さて今日はここまでとして掛川駅に向かおう。そして塩の道1回目の観歩の乾杯をしなければ。