3月26日の富山市射水病院の人工呼吸器取り外し報道に接して、医師としての人格はどのように教育、形成されてきただろうと自問しました。
1:人体、疾病に対する知識を正確に、豊富にし、時宜に応じて速やかに活用できるよう、常に努力する。
2:患者との関わり方は、医学は科学であるので”客観的に”かつ親和的に。
3:医療経済も、考慮すべき
に要約できるでしょう。
治癒を目指して、共に歩んできた患者が、治癒への努力も空しく、日々悪化し、展望が閉ざされてきたときの苦痛は、患者、家族に限ったものではなく、生への道を切り開く期待を感じ、背負ってきたのに期待に添えないという打ちひしがれた、締め付けられるような苦痛に医師はいるということは理解していただけるでしょうか?「こんなに苦しんでいるのに」とか、「死なせてくれ」とかいう一言に傷つき、戸惑う医師の内面に思いをいたしていただけるでしょうか?
”死”は大いなる力によってもたらされ、すべての生を与えられたものに等しく与えられる唯一のことで、大いなる力に身をゆだねるので、死sに向かう行為を”決定”してよいものなのでしょうか?
”尊厳死”は昔からあったのでしょうか?
”尊厳死”という概念が生まれざるをえない、死めぐる環境の変化が生み出したのでしょうか?