連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

ハンセン病隔離政策

2019-07-16 08:54:32 | 健康・病気

2019年7月9日ハンセン病家族に対する差別を認めた熊本訴訟に対する、政府が控訴を断念し、7月12日安部首相が反省と謝罪を表明。

国民一人一人が持つ差別と偏見を生み出した、自身の在り方を考えなければならないが、法律として、策定していった事実も、深く検証反省しなければ。https://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/01/h0131-5/histry.html

感染症の専門家は、頼病=ハンセン病は、感染力は強くないし、1943年には、治療薬が見つかったという事実にいち早く反応しなければならなかったと思う。差別の継続は、不治の病ではないと訴えた医師がいたにもかかわらず、学会は当時認めなかった。新しい情報について、自分が第一情報取得者でなかった場合に無視する学会の権威者は、多かったのかもしれません。

明確に、医療情報として報告されていたにも関わらずです。

医療者の一員として、感染症に対しては、

優先すべきは、感染の蔓延を防ぐ。隔離となります。

発症原因菌を特定し、

治療薬を見つけ出す。治療を施す。

感染症は、外来物ですので、良性、根治可能なので、

後遺症を残さないために、早期発見、早期治療をする。

ハンセン病は、頼病として、古くから隔離対象となった病気でした。

感染することで恐れられてはいたが、でもそれほどの感染力ともおもわれていなかったのではないでしょうか?

映画、ベンハーにも出ています。キリストが示す奇跡の対象としての疾患。頼病。

日本では、放浪頼として、古来認められていたようですが、

1907年(明治40年)外国からの要請で、”頼予防に関する件”として、療養所に入所させるようにし、その結果偏見が生み出された;政策の結果の偏見が始まる。

1929年(昭和4年)らい県運動”が全国で推進。

1931年(昭和6年)”頼予防法”の成立。 強制隔離ができるようになった。

1948年(昭和23年)には優生保護法にハンセン病が、対象疾患として明文化され、強制不妊手術も実施。

この法律に先立つ、1943年には、アメリカ合衆国の療養所あら有効薬が報告され、

日本人の医師小笠原は、ハンセン病は不治の病ではないと、優生保護法に明文化されることを小笠原医師は反対したが、学会ではうけいれられず受け入れられず、成立。(ここで、医療者は、医療の権威者は、法律の制定による差別、偏見という人権侵害に加担したという反省を強く持ってほしいと願うのです。炭疽病研究に従事した、高名な学者の多くが、戦後日本の感染症研究を土台にした多くの高等教育機関、研究所に君臨し、寿命を全うしたという事実がある。)

1953年(昭和28年)には、らい予防法が成立。

そして、治癒可能、感染力が低い疾患でもあるのに偏見差別を生み出し、

やっと、1996年(平成8年)に、”らい予防法は廃止。

 

1873年(明治6年)には、ノルウェーの、アルマウェル・ハンセンにより、らい菌が特定。

らい菌感染による発病、ハンセン病と呼ばれる。

1943年(昭和18年)アメリカ合衆国んカービル・ハンセン病療養所で”プロミン”の治療効果が報告された。

以後、新薬が開発され、不治の病ではなくなった。

70年以上も前の、1948年に、1943年の治療薬発見の情報が反映されていたならば、

国民の意識は!!!!!!

 

 

 

 

 

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生き延びている

2019-07-05 09:46:57 | 日記・エッセイ・コラム

7月7日、仙台は旧暦の七夕まつりが8月が盛大ですが、保育所、病院は新暦から飾り続けています。

短冊に願い事。

技芸の上達は、古希ともなれば望外に近いなと思いもすれど………。

逢瀬を望む人は、同じ世からは逝ってしまった。かといって、早くその世に行きたいわけでもなく、生き延びていることに、不思議な感慨が拡がります。

大学の学生時代半ばで発病したころ、同じテニス部に属していた二人も、発病。

三人も!お祓いでもしなければと気づかわれた、私以外の二人は、すでにこの世から去ってしまった。

結婚式に参加しては、病も癒えず一人でいる私をきづかってくれた二人は、家族を残し早世してしまった。

社会的つながりンおある知人の訃報を聞くことも増えてきた。

学生時代は、疾病関連悪の身体障碍などで、足でまといという感じの若者の持つ残酷な冷たさをヒシヒシと感じもしたが、

治療関連の副作用で、冥界寸前で連れ戻された経験もしたし、

病状の進行時には、死なないからと慰めてくれた、主治医も天国に逝ってしまわれた。

最近は、良性疾患は、悪性疾患と異なることを実感し始めている私。

自己免疫異常に伴う、全身にある関節、結合組織の変化は残っているものの、

正常残存の関節部位はわずかで、新病変発症の疼痛は軽微(くずぶり続けるのか!)。

外来診療で、生死の境を切り抜けてきた、高齢患者に接すると、その年齢に達するまでいかほどの年月を過ごさなければ達しないかと愕然とします。目下最高齢の方の年齢に達するまでは、誕生から大学までの年月があります。

今の体力、知力の減衰を想像だにできません。

105歳で死亡した伯父は、逝去の半年前までは、独居、食事を含め自分でしていました。

病を得て医療介入は受けた80台で亡くなった両親、105歳の伯父ともに記憶にぶれは無く、あやかりたいの願いを込め短冊を。

裏千家の月釜、7月7日で、席中の一人のみへのミニ七夕飾りがあたりました。

願いはかなうかもしれません。

 

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