連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

生前戒名

2015-09-27 15:53:55 | 日記・エッセイ・コラム
独身。きょうだいのいない一人っ子で、両親は他界。
死後の身の始末を考えて、生前戒名を取得を決心し、
両親の菩提を弔っている菩提寺にお願いしたのは、2~3か月ほど前のこと。
平均寿命までは、まだ30年ほどある人。
禅宗では、生前戒名は、≪安名≫というらしい。
検索では”安名”とは、禅宗で、新しく得度受戒した僧に、戒師が法名(ほうみょう)を与えること。また、そのときの文書。 と書いてある。
参列した≪安名式≫で、
お寺では、得度としての扱いだと思った。
お釈迦様から、101代目の弟子という、累代の弟子の名前を書いたけ系図を添えて、
”安名”の証を渡されていたから。

受戒式には、遅刻し、
後継ぎがいないから”生前戒名”をいただこうという気持ちだけだったのでは?なので、
寺院の対応と受戒者の温度差に釈然としない気持ちが湧き上がってきた。
庫裏から外に出て、無縁さんをまつっている”三回万霊塔”には、沢山の赤字の名が刻まれていた。
赤字の主は、手軽な得度の主なのか、受戒後は、寺院の対応に沿うような生き方を日々勤め、得度にふさわしくあれといふるまっていくことになるのでしょうか。そのきっかけとなった”安名”であれば、釈然としない私の思いは狭量になるのですが。

独身、兄も独身であるので、縁戚の手を煩わせないためにも”生前戒名”と、時折考えていた私は、寺の丁寧な対応に躊躇を覚えてしまった。
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敬老の日

2015-09-21 19:21:47 | 日記・エッセイ・コラム
敬老の日は、個人的、家族的ではなく、社会的に本当に”老”を”敬”う日だろうか?
始まりは、としよりが、人口比では5%ぐらいと、まだまだ少なかった昭和22年に兵庫県の村で始まり、その後全国に。昭和55年に人口比で10%を超え、その後右肩上がりに急増し、人口減、若年者人口減となり、今や、65歳以上は25%を超えてしまった。この数字は、老人は、年金をあてにした生活だけではなく、稼ぎ続ける体力、介護不要な生活を維持してくれなければ、やっていけないぞ、日本!という声に満ち溢れ、情報提供される日、と言い換えられる日?

後期高齢者の体力、筋力の低下は、生物学的にはやむを得ない。
知力は、新規知識の導入期待は、放棄してしかるべきと思うが、既に獲得し、習熟した知識の活用のレベルの低下は、軽度でしょう。若者の職場を占拠せず、仕事の継続の仕組みづくり。過去にはなかったか?過去に高齢者は活用されていた。知識を有用として。過去と違うのは、数の増加!
「船頭多くして船山に登る」の例もあるので、筋力提供者としての体の提供者とならなければ、需要に対応不可でしょう、今後は。

88歳まで支えた恩師は、77歳で脳幹部梗塞。不思議な後遺症で、じわりじわりともともとの視力障害が進行。
左右の下肢の感覚、運動傷害。それ以外の部位も感覚、運動障害。
手助けが必要になったのは、85歳の、酷暑の夏。
片側で支えてみたが、他の人が支えている状態を観察すると、
倒れないというだけで、よく歩いているとは表現できない状態。
前に立ち、両肩に先生の手を置いてもらい、先生の歩くリズムを感じ合わせると、
体調の良い日は、速歩。
「速かった!」と叫ぶ私に、晴れやかなうれしそうな顔で「速かったね!」
高齢者のペースに合わせて、達成できた時の喜び。代えがたい幸せな時間を生み出します。
二人三脚で、若者だけであれば、1倍の仕事を、1.5倍になれば良しと考える仕組みができると、
高齢者、若年者双方が、豊かな幸せな時間が流れるのではないでしょうか。
高齢化の流れは、当分は進行するのですから。
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食事をつくる、食事を食べる。

2015-09-01 16:57:47 | 日記・エッセイ・コラム
大学卒業後、仕事に就いてから、
2013年夏まで、食事をつくるということが有りませんでした。
料理が好きな、母と兄が、食事をつくってくれたためでした。
一人暮らしになり、外食の習慣はないので、食べるためには、自分でつくらなくてならなくなり、木が付いたことがあります。

毎日、毎日の食事つくりは、食べさせる人に対する、愛情が詰まっているのだと、あらためて実感しています。

決して同じものはない、変化する自然を相手にして得られた食材。
手をかけて、美味しくあれ、美味しくなれと手をかけて得られた食材。
変化を含んだ食材を、毎日同じように、時には体調に合わせ工夫で、おいしくたべてもらおうという調理技術。

『人間が、生きる基本は、食事』と教えている手前、人目が無いからと言って、食事作りをおろそかにするのは、私の信条としては、相容れません。
美味しいほうが良いけれど、料理が趣味でも、おいしいものが食べたいという欲はなく、
無計画に、食材を買い、
使いきれずに、かといって捨てるのも
”食べ物をを粗末にしてはいけません。罰が当たります”
自分で、野菜つくりをしてみると、生産者の苦労がしのばれ、
残り物を、いかにして使い切るかという思考で、食事をつくることになります。
似たような食事作りですが、
日々異なる、食材を使い切る工面するため、気分は新し実験をしているようで、似て非なる料理ばかりが出来上がります。食べさせなければいけに人がいなくて良かったと思う出来の連続です。

自分で作って、食べるというのは、期待感もなく楽しくないということにも気がつきました。

母の手作りで、市販品より数段勝っていた”いかの塩辛”。
塩がなれるまでねかした、うまみがしみでてくる、そしてねっとりした触感。
再び食べたいという意欲を持って努力中ですが、発酵食品の範疇に入るつくり方で、またいかの塩締めのタイミング、名により鮮度の良イカを手に入れなければいけないという、食材確保に対する不確かさ。

固定収入は確保されていない家庭での食事作り。
持続するモチベーションに敬意です。






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