連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

46年前の梅雨明けの日

2023-07-21 09:04:17 | しのぶ

沖縄、奄美に続いて、中国、近畿、四国に梅雨明けがだされました。東北仙台はまだですが、

梅雨明け

1977年、東北大学第3内科に入局した初めての年。

梅雨明け宣言が出された、当日、空には太陽がさんさんと輝き、気温は急上昇。

朝には、病棟の廊下を歩いて、HTさんが、急に呼吸苦を訴え、

心不全で急逝。病棟には、他に二人、今日か明日かと見守られていた方も、亡くなられました。

冷房装備のない時代の、梅雨明けは、体力の低下している患者にとって耐えがたい環境でした。

独歩、自力で身の回りを整えられる、20代の、急性白血病治療中の患者にとって、

急激な、気温上昇で、命を失うのを目の当たりにして、

急性白血病の治療、研究に邁進すべく、入局したばかりの新米医師であった私には、衝撃でした。

熱中症アラートなどまだまだ出されていない時代でした。

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今でいうブラック企業=第三内科血液グループ

2022-05-10 10:36:40 | しのぶ

宇塚先生の祥月命日が近いこともあり、友人は懐旧談で、研究真っ盛りにやっていたころは記憶にもないほどおもいだしたくないといっていた。

入局初日の血液外来、宇塚先生1人で外来診療にあたっていた。

当日の採血した血液を、Iさんが、血液像、網状赤血球、血小板の直接法計測用を塗抹標本にし、血球計数機で、白血球、赤血球関連を測定し、データが出ると、診察室に持って行き、そのデーターに基づき患者指示を出していた。

次々に骨髄穿刺の指示が出るようで、今までは、宇塚先生が穿刺していたようであったが、

”君骨髄穿刺できる?”と聞かれたので、私は”できます”と応じ、

当日から骨髄穿刺は、宇塚先生に変わり私が行うことになった。

初日の、骨髄穿刺は、16名の患者に実施。

今までの病院では、前日から準備にかかり、レントゲン撮影ができる手術場の実施であったのに、

外来で、流れ作業のように実施。看護師の手が空かないときには、私か、検査補助者Iさんが助け合って実施。

(のちに、第3内科で四面楚歌状態になったときは、私一人で、消毒、検査技師、医師役をやったときもあった)

外来終了後は、骨髄有核細胞数、網状赤血球のカウント、骨髄像の染色と続き、

定刻の退社時間になっても終了せず、超勤手当は出るはずもなく、

でも、薄給のIさんは、使命感に燃えてがんばってくれていました。

宇塚先生の名声は拡がり、新聞などでもとりあげられ、患者は増える一方。

しかし、急性白血病は診療は、

”絶壁の一本道を歩いている様なもので、踏み外したら、死にのみ来枯れてしまう。いつも、気を抜かず、見ていなければいけない!”を、実践していたので、休む暇、休日もないので、血液グループ人員は、リーダーの宇塚先生と私だけ。今でいうブラックで敬遠されていた!

急性白血病の治癒を目標に掲げ、意気軒高に邁進。

完全寛解に達成したときの、安堵感と高揚感はかえがたい。

毎日が、ゴールデンウィークみたいな毎日を過ごしていると、達成感のある、懐かしいときでした。

忙しくて、毎日の生活にぎゅうぎゅうとして体裁とか、人にどう思われるとか全く余裕がなく、目的にまい進できた時期でした。大学病院前に銀行があるのに、わずか3千円の、税金を振り込みに行けず、督促の赤紙も受け取りました。始めは青色の督促状が、差し押さえとか書かれた督促状は赤色で、その文面に驚愕、延滞料は、高額日歩で、あっという間に大金になるのも経験しました。

 

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託された原稿投了

2019-09-23 16:44:20 | しのぶ

宇塚善郎先生を師と仰ぎ東北大学第3内科血液で、仕事を始めたのは1977年。

1991年からは、仙台血液疾患センター。

負うた子に支えられと晩年は、恩師に言われながら二人三脚で、診療を継続し、2015年、逝去後は、先生方託された未完の原稿を、今も投稿する価値あるとの思いから、データーを再検討、文章の手直し、文献の追加などをして、本日最後となる共著論文を投了。

実際に、受理され公開までは、紆余曲折、ストレスが待ち構えてはいますが。

ぐずぐずと、投稿するのを先延ばしていた感があったのは、これから先の診療は、いよいよ独りを実感しはじめていたから。

化学療法の創成期から、今は、遺伝子変異を標的としたり、生体の免疫機序を調節する薬剤の時代。

診療を継続し、患者の希望に応えるべく、日進の医療に食らいついてはいるが、研究の第一線からは、スポイルされる年齢立場からは、最先端を歩むことのない傍観者的立場からの知識という、詳細把握をしているのかしていないかの不安がつきまとう。

古希となり、身体能力の反応性の低下を実感する身であればやむをえないが。

投稿し 彼岸と此岸 分かたれし 一人現身 戻り寂しき

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死後の世界

2018-02-22 09:25:59 | しのぶ
 世代交代というか、良き時代の終焉を実感する逝去に立ち会った。
 戦前も、戦後も富裕階層に属し、その維持に、渾身の労働を惜しまなかった。
”女傑”と言われていたらしいが、子の年代に当たり、仕事上の接触は皆無に近かった私には実感がない。
直来で、”わがまま”といわれていたが、許される範囲のわがままで、本人は、心の底から、変!とか、そうあってほしい!ということを口に出しただけだったでしょう。

変熱心なクリスチャンで、急な体調変化で、入院しても、必ずロザリオを枕もとに。
日本在住の、八百万の神々にも、お願いするのは、全くやぶさかではなく、不動産関係の職種だったので、地鎮祭はもちろん、方位を占ってもらったり、出かける時の、方角、出発時間の安全とかも気になり、まるで平安時代のようで。

夫唱婦随で、家業を盛りたてた夫君は、曹洞宗の仏教徒であり、今は、仏となられております。
宗派の違いは、死後の世界に関わります。
夫の死後、病を得たときに、しっかりと頼まれました。
≪仏門の徒として、夫の墓に入るのだと。神様は寛大だから。≫
体調不良で、覚悟を決めていたので、逝去の報を長男から受けたとき、葬儀の在り方を確認しました。
色々な神様を信じていたから、仏式でということで、安堵。
世間常識から、なかなか認めがたく、トラブルもあるのではとの老婆心から、多くの人が集まる通夜に出席。
ご住職の、クリスチャンであったことを配慮された、お通夜の説教でした。
出席されたクリスチャンにも配慮された、お祈りの時間があるお通夜が営まれ安堵しました。
3男一女の子供との行き来は頻繁でしたが、同居の長男は常日頃の関係もあり、仏教で葬儀を営むことは、当然であったのですが、
長男以外は、戸惑い、愛する母の意向であったのかしらと一抹の不安があったようで、
夫と来世もともにあることを望まれていた通りの、仏教徒としての旅立ち。生前から頼まれ、望んだ通りですと、
通夜に出席した甲斐がありました。

あくる日には、告別式での弔辞で、
寛大な神様を信じて仏教界に旅立ち、ご冥福、ご祝福を述べさせていただきました。

弔辞
早坂とし子様

 恩師宇塚善郎先生の縁で、なにくれとなく親しくし接していただいた齋藤淑子が謹んで弔辞を述べさせていただきます。

 戦前、戦後をチャーミングに、本人は男らしい性格なのと言いながら、かわいいもの、美しいものが好きで、それらを、身の回りにおける立ち位置を、家族から、またご本人の実力で維持されて生き抜かれました。
 嫁ぐ前の虎川姓時代には、戦後の混乱時の陳情に、お父君に同伴して東京まで出向かれたときの新しい息吹に振れたことを、生活の中で実現される努力を続けられてきました。
 また、宮城県女子専門大学での教育を、先に逝去された夫の孝夫様の健康維持に生かそうと努力されていました。
 
早坂家に嫁いでからは、お茶の水大学卒業で、凛として美しいお姑様、またご友人たちにふさわしい嫁であることにも心を砕いておられました。
 
夫孝夫様は、病弱な幼少時を過ごされて成人されたこともあり、大学病院に入院を繰り返され、その時の主治医であった恩師宇塚善郎は、子の手を握りながら、乳児を背負い一生懸命な美しい奥さんを悲しませてはいけないと、診療に努めたと度々話されておりました。また、夫、孝夫さん亡き後は、家を支えた母の努力を忘れずに、大事にしなければいけないと、とし子様の尽力を子供たちの前で称えられ程に、家の維持に努力を惜しまずに過ごされてきました。
 
夫を立て、夫唱婦随で、病弱の夫に代わって仕事をし、事務所を花で飾り、日本画にいそしみ、身近な花、景色を描き、またその絵を飾り、常にアクセサリーを身に着け、美しく装われておられました。 

ご夫妻ともどもグルメで、仙台ホテルでのローストビーフを食べる会食を催したり、感謝を込めた、おもてなしなど、気配りの効いた方でした。

おっかないことは避けたく、近寄らない性分であったようで、その極みは飛行機嫌いで、海外に興味があっても、飛行機に乗らなければならないことから、結局は出かけずじまいに終わったのではないでしょうか。海外の学会出張の折は、大丈夫かしらと気をもみ、他人事でも、我が身に降りかかる大事を避けるためのように、危険に合わないように、替わり身となり祈祷を受けて下さったりと、心を尽くす方でした。無事に帰ると、好奇心あふれるまなざし土産話を楽しんでいただきました。
 
晩年、夫の博識を誇りに思っておられたとし子様が、口にされたのは、≪昔人だから、夫唱婦随で、夫を立て、家業を盛り立て、病弱な夫に変わり仕事をしてきた。
子供たちには、最善をしてあげたいと思っても、多忙できなかったこともたくさんあったし、良かれと思ってしたことも、結果が、望ましくないこともあった。でも、子、孫の幸せを願って、精いっぱい頑張ってきました≫と。晩年は、私に同意を求められる機会が増え、頑張ってきたから、宇塚先生が、お母さんを大事にしなければ天罰が当たると子供たちに諭されたのではないのと応えたものでした。

夫、孝夫様逝去後、陰になり、また表に立って仕事をしてきた家業を子供たちにひきつがれ、安堵しながらも、面倒を見る夫亡き後の寂しさ、気がかりな子、孫たちの独り立ちの手のかからなくなった寂しさを噛みしめながら、家の精神的支柱としての、生きる価値を家族から称えられ、また応えようと前向きに過ごされた幸せな生涯をおくられました。カソリックとしてロザリオは傍らにあり、神様の寛大な心を信じて、いつも傍らで過ごすことを強く願っておられた夫孝夫様のもと、仏教界に旅立たれました。
これからは、お父ちゃんと呼びかけながら楽しい安らぎの時をすごされ、まだ、現世にとどまっている私たちを、次にお会いできる時まで、お見守りくださいますように願いつつ、ご冥福をお祈り申しあげます。

平成30年2月7日

齋藤淑子

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雪の朝

2018-01-23 09:03:23 | しのぶ
数日前から、大雪警戒をメディアが報道し続けた予想にたがわず、22日月曜日夕方から、首都圏の事故関連報道が増え、仙台でも夕刻から、絶えず雪が降り、積もってきた。
 翌日の出勤状況を想定しつつ就寝。

予想にたがわない積雪量。
予想外だったのは、玄関前が除雪されていたこと!
大震災後、引っ越してこられた家の若者のおかげです。

仙台血液疾患センターが、まだ存在していたときは、
雪の日は、院長を含め、総がかりで除雪しました。
玄関、玄関に通じる、車を降りて、歩くだろうと想定するあたりに範囲を拡げ、
広い駐車スペースだったので、太陽熱の恩恵をいただくための、ところどころのアスファルトの黒い地が見える除雪。

通勤距離も、徒歩15分圏だった!
今は、速足徒歩40分で、地下鉄の駅まで。それから約1時間。
診療受診に、必死な血液患者を見捨てるわけにはいかない。
後継者難で、仙台血液疾患センターは閉院止む無しとなったが、その系譜をつなぐ、私が存命中、気力、体力があるうちは、診療継続をして、見捨てるわけにはいかない。
いずれは、果てるとは思うが。
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年末年始

2017-12-31 12:01:47 | しのぶ
 

SBDCは 師走の闇に 溶け込みて あらたまりても あるじ忘れそ

戌年に あらたまりても 居ぬ人は せぜにあらわる 名取川
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小野 喬先生に哀悼を捧ぐ

2015-10-26 08:24:35 | しのぶ
平成27年10月24日 小野喬先生逝去の報に接し、寂しさがあふれています。
今年4月の、治療の際に、『先生にお世話になり始めて45年になります。』と歓談の折に、
『50年目には、長きにわたり診療を続けられたことに感謝してお祝いしようか』と、
先生が話されておりましたのに!

医学部に入学後、まもなくしてから、次々と体に支障が出始め、
いわゆる虫歯とはことなる、歯の根元がしみるという異変が、次々と広がり、東北大学歯学部病院を受診し、予診を経て、保存科にまわされ、担当医となった先生が、席を離れ、小野先生とともに、私の歯を診察。
『今。研究している素材にはうってつけ!』ということで、小野先生に、終生歯の診療をしていただくことになりました。
当時は、金属が主流で、根元に目立つ銀色が並ぶようになるという精神的打撃が、
小野先生の一声、『こういう病変の歯がほしかった!。僕の患者にくれるの?いい?』で決まり、
当時は、レジン充填は研究が始まったばかりで、
実用されていない時代に、まったく目立たない白い歯の処置をしていただきました。
歯科病変が、膠原病関連の一症状だとわかり始めたのは、ずいぶん時間がたってから。
学生時代の、レジン充填は、10年どころか、20年も持ちました。
宇塚先生が仙台血液疾患センターを開院した平成3年以後、私の歯の主治医の先生に、入院患者に歯科衛生歯磨き講習会を依頼してもらえない?ということからはじまり、歯科通院困難な血液疾患患者の往診を聞きうけてくださり、しかも、往診謝礼は受け取られず、誠心誠意対応していただきました。

今年は、恩師宇塚


善郎先生の逝去、今また小野喬先生の逝去と、長く見守っていただいた方、やっとここまで来れた!と報告できる方に去られ、年をとった悲しみを知ることになりました。

自分の歯で、咀嚼できることに、心から感謝して、ご冥福を祈ります。

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家長の有り様、ダンディズム

2015-07-05 01:48:45 | しのぶ
今の、日本の家では失われてしまった存在かもしれません。
恩師の納骨の儀に参列してきました。
今では、珍しい、一代づつの墓石が立ち並ぶ、宇塚家の墓地に、新
しく建立された、宝寿院無量医光善照清居士の、永久の住まいの新居の祝いともいうべき、魂入れ、納骨法要です。

40年におよぶつきあいから、されど”名を尊ぶ””義を尊ぶ”ことを第一義とする有り様を、不思議な気持ちで眺めていました。先生の同級生、私の主治医から、先生が名門の出であること、幼少時は、名家の常として、下男、下女月の環境で成長したことから、”家名を汚さない””一族郎党の長”としての判断、身の回りの世話してもらうのに慣れていることが、合点しました。損得勘定抜きには行動しないみみっちさがあるような気がする私の年代とは、違う気品があふれていた。疑い深さを感じさせない、確認する慎重さ、最終判断は、損得抜きで判断し、その後経済観念を入れて結論を下す。対外的には、身内をそしることをしない、見捨てない。

代々受け継いだ土地、家は、個人財産という考えは、まったくなく、しかも、不在地主であるための不利益に対しては、もともと、自分が利するためにあるという考えがないので、鷹揚でした。また、受け渡すのが、自分の責任というので、山林内の自分以外の所有となっていた部分を、臥龍点睛を欠くような、将来に家訓を残してはいけないと、他の理由のために屁理屈をつけ、極めて高額の相場を支払い一山一地主としました。

今回も先例にならっての墓石建立は、平成21年8月15日、深程の地で”家郷会”を開き、冊子作成に続いての一族のためのよりどころとしての意思表示であったかとおもいます。
次世代は、従来通りの維持は困難、何とか対策を立てて後、受け渡したいという思いは、時代の荒波にのまれて果たせませんでした。
木漏れ日あふれる中で、ハンモックに寝そべりながら読書にあけくるれた故地,深程の地に戻り、自由闊達に世界を駆け巡りはじめたのでしょうか。
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死の手続き

2015-06-24 23:04:17 | しのぶ
宇塚 善郎先生は、本日の手続きで、  

この世からの決別には、、本人に代わる人の手続きがなければ、実体のない存在が継続するので、
数種類の書類を提出してきました。
この世からの、決別

行政へ 死亡届に 始まりて 戸籍医籍と除籍手続き

逝去後、五七日(35日)閻魔様の判定日です。

閻魔様 地蔵菩薩の 化身なり 仏の道へ 守り届けよ  
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院長室の窓辺

2015-06-20 08:47:20 | しのぶ
診療所から病院開設許可後1995年に、移動した院長室。
南側に大きく広がる窓から、時の移り変わりを、故宇塚先生も,共に眺めてきました。
シルエットが辛うじてとなった視力の低下、日々の太陽、日照具合による認識力の変化も教えていただきました。
窓辺の飾り棚は、2013年2月に、病院の所有権移転後、院長室に隣接して有った応接室から、玄関脇の植物など、可能な限りのものを置いてあります。
二人で耐えた時間も詰まっています。
開院当時からのゼラニウムがいまだに健在ですが、元の株は花を咲かせません。院長室に引っ越してから、朝夕のブラインドの上げ下げの折に、折ってしまった枝を花瓶に挿し続けていると、根が出てきたので、鉢に植えた株は,次々と花を咲かせています。示唆的です

2013年2月末 常ならぬ 音のありかを 問いただす 窓を凝視し 手にぎりしめぬ
       足音も ざわめく外も 無縁なり ラジオ響かせ 耐え忍びし 
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はりあい

2015-06-15 09:31:48 | しのぶ
チョコレート 仙台牛に たらばがに 食べたさ満たす 喜びうせて

故宇塚善郎先生は健啖家でした。おいしいものをたべると、まわりにも食べさせたくて、うずうずし実行にうつします。
2012年、夏の”毛蟹”。
東日本大震災で、甚大な被害を受けて立ち直り始めましたというダイレクトメールが届いたときに、ただちに電話をかけて発注しました。
みみっちい私齋藤は、無報酬の先生の懐具合を勘案して躊躇(このころには、先生の視力は急激に悪化し、代理電話をしていたので)。
しかし、先生は、久しぶりに、患者に新鮮な食材での給食が提供できると、おおはしゃぎでした。
先生は、毎月の月給日がことのほか楽しみにしていらっしゃいました。
月給日に合わせて、大船渡の鈴木水産に、電話をかけて、季節の魚は何か? 入院患者分は確保でき、給食予定日に確実に配送してもらえるかなどなど。しけで漁に出られず、あてにしていた食材が手にはいらない場合も想定して、集団給食を提供する厨房担当者は、つけ合わせなどの変更をしたり、、采配を振るわなければならない機会も沢山ありました。
だらだらとした、日常からの逸脱は、臨機応変な対応の訓練にもなりました。

タラの焙烙蒸し   (たら、そして山芋)
北寄貝のすいもの  
牡蠣のフライ  (厨房では規定により調理提供できません!というわけで、給食外で、希望者に、職員休憩室で調理師免許を持っている事務長が揚げ別枠で)
あなごの天ぷら  (そば母里で食べたのがおいしくて、産直石巻)
患者の給食に関連した先生の思いでは尽きません。

食べたいし、食べさせたいしで、月給を待ち焦がれた先生が、何とか食べさせようと、買いに走ったかいもなく、”いらないよ”、というので一瞬のすきをついて、口に放り込んでも、ぷっ、ぷっと吐き出して、食べるのを拒否して、死期を悟って逝去され、張り合いがなくなりました。

父が、病を得て、母の手料理を、”うまい”とパクパク食べなくなった時の母の嘆き、
成長期のこの食欲が、外に目を向け始めて、自宅での食事が疎遠となり始めた時の親も、張り合いをなくすのだろうなと、食べ物の力を感じます。 
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中陰

2015-06-13 11:06:34 | しのぶ
40年弱、実験、データー整理、顕鏡中、国内外の学会参加と多くの時間をともに過ごした,宇塚先生の逝去は、残されたという孤独感が迫ってきています。
時間の経過と、制約故にあきらめていたことに向かっていくことで、解消できるでしょうか。



中陰の期間に、それまでの生涯を審判され、その後の住処、六道再生を決定されるのですね。
天界,人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界

審判する仏様の印象を良くするために、残された者が、期日前に法要を執り行う。これって!
人間界で,今様の言い方をすれば、賄賂?
仏様の世界は、供養、大事にしていると受け取ってくださるゆとりある世界。ギスギスしていなくて良いです。
地獄の沙汰も金次第などと受け止めるのは、不埒だとおもいます。

告別式後、五七日、すなわち35日法要は執り行われました。仏教では、節目としているのですね。
節目を司るのは、地蔵菩薩の化身である閻魔王。

学校の行き帰りに見守ってくれていたお地蔵様が、閻魔様。

秦広王=不動明王
初江王=釈迦如来
宋帝王=文殊菩薩
五官王=普賢菩薩
閻魔王=地蔵菩薩
変成王=弥勒菩薩
泰山王=薬師如来

まだまだ、仏様に見守られながら冥界を過ごすという信仰は、現世の指南だったのでしょうね。

自ら、食を絶ち、あの世へと旅立っていった先生は、どのあたりを、”どっこい、どっこい、よっこら、どっこい”と、ひとり 旅しているのでしょう。

懐かしみながらも、『明窓浄机、刻苦精励、原稿上梓』と先生の声から言われている気がします。
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偲ぶ歌

2015-05-19 23:01:06 | しのぶ
きばらしに 
帰路高森に
のぼりしが
下血始まり
命おとせし

ようしゃなく
乙女襲いし
月のもの
万策無効
待ち受けしは死

専門主治医として抗らうが、在院期間長期となり、ささやき続く嫌がらせの果てに退院、転院後の顛末
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無き患者を偲ぶ和歌を書き続けるこのへと義務化

2015-05-17 15:40:32 | しのぶ
日曜は,冨田病院の日直出勤日。映像よりは、音を楽しむ”しか”の環境にいるので、
ラジオでNHKFMをきいています。
本日17日の トーキンブウィズ松尾堂 は、五七五を楽しむでした。
林屋たい平さんが、義務として沢山俳句を作る。字余りは、そこで言葉捻出が終わるので好まない。などなどをきいて、私が所属していた,東北大学第3内科は、故山形敞一教授が、アララギ派の歌人であった縁で、和歌作りにいそしむ気風があります。好みにも沿うので、心ならずも死別した患者を、”忘れてはいないよ”という思いを込めて
、心ならぬ状況から、当直免除となり、眠れぬ朦朧とした状態の日から開放された,2013年3月から、
『亡き人を偲ぶ』とタイトルをつけて和歌をつくっているのですが、ひっそりと個人レベルなので、遠離りがちです。本日の、林屋たい平さんの、義務づけ、ブログ発信を聴いていて、公表して、自分に義務を負わせることの決意。

母児ともに 健やかなりと 試験後に 無菌室まで 駆けつけ安堵 
:児は、既に30台にの健常成人、その頃にベサノイドがあれば、今も母は健常であったろうに! 

豪放な 死ぬまで生きる 短冊字 あがらうこと無く たんたんと去る 
:骨髄形成症候群は、遺伝子変異がバラエティにとんでいる故に、今も確たる治療法が確立できぬ、
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