連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

旧友とのつながり

2011-05-31 12:25:15 | 東日本大震災

新婚間もない両親は、第2次大戦中の東京大空襲をのがれて疎開した

羽田の対岸にある川崎市で、私は戦後の食糧難の時代に生を受けた。

小学校、中学校、高校時代を過ごした。

東日本大震災発生後、

50年近い昔に一緒に学んだ中学校の同級生から連絡を受けた。

遠く離れた被災地にいる昔の同級生を思いだし、深く心配してくれていたのだった。

あこがれの先生を中心としてまとめ続けてくれた彼の電話は、

被災者を思いやる日本の心を直接に受け止められた瞬間でもあり、

被災後支援の手が届かず、

疲労の蓄積で寂しく落ち込んできた気持ちに明かりをともしてくれた。

震災発生後の時間が経っても、お見舞いが届いた。

病院の患者にも、

孤立して生活している集落に支援に行っている同僚にも

高級なハムを味わわせていただいた。

遠く離れた50年昔の、あこがれの先生を中心としたつながりが、

震災直後も、時間がたっても、萎えてきそうな気持ちに元気を与え続けてくれている。

支えてくれている、孤立していない

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宮古で水揚げされた鱈が供された

2011-05-29 19:01:32 | 東日本大震災

新鮮な魚、採りたての鱈が病院給食の食卓に上がった。

震災後、無事であることを確認し、

漁が始まったら届けてほしいと頼んでいた、宮古、山口商店から届いた。

大震災で途絶えていた、院長の振る舞い魚。

途絶えていたのは、注文先の宮古の漁の復旧、復興がまだであったから。

宮古での、漁が細細ながら始まり、やっと届いたのだ。

献立をたてる栄養士は、

ラベルの宮古産の文字をみて、いつものを店からですか?と言って涙ぐんでいた。

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生きとし生けるもの

2011-05-27 09:43:26 | 血液専門医宇塚善郎

今朝のSBDCの朝礼で、院長宇塚先生は、最近文学、時代を超えて読み継がれている文学書を話題にしている。今朝は宮沢賢治の”とこなめ山の熊”の話を、生きとし生けるものすべてが平等という思想に裏打ちされた、世界でもたぐいまれな書き手と総括した。

世界遺産登録へと期待が高まっている、平泉のあり方が頭に浮かんだ。

このたびの東日本大震災の、自然の中で営みを続けて生きてきた人たちの反応

      自然に対峙して打ち勝つべく方法で生きてきた人たちの反応

それぞれですが、38億年の進化の結果として存在している人間は、宇宙の一員としての存在でしかないなと改めて思うこの頃です。

生きとし生けるもの、生を謳歌し、必ずくる死の時を超えて、

微生物の助けをかり、自然の助けをかりて分解され無生物となり、

自然の一員の助けをかりて、再びの生を得る。

輪廻転生 

奥州藤原氏初代の清衡は、中尊寺の建立にあたり、「中尊寺供養願文」において次のように宣言しました。

 「古来、奥州では、官軍の兵、蝦夷の兵の区別なく、多くの者の命が失われてきた。毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚もまた、数限りなく殺されてきた。命あるものたちの御霊は、今、あの世に消え去り、骨も朽ち、奥州の土塊となり果てたが、中尊寺のこの鐘を打ち鳴らすたびに、罪なく命を奪われた者たちの御霊を慰め、極楽浄土に導きたいと願う。」

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田んぼに水が入りました!

2011-05-21 17:31:01 | 日記・エッセイ・コラム

今週になり、周辺の水田に水が注ぎ込まれ、苗が植え付けられました。

例年より、2~3週間の遅れ。

震災で壊滅的打撃を免れた被災地近傍と同じ時期でした。

張り巡らされた水路、作付けなどの肩代わりなどの問題も影響しての遅れかな?

水田に水が入ると、蛙の声が賑やかになります。

水田は、天然のクーラーですから、今年の夏も涼やかな夏ですみそうです。

3週間以上の長きにわたった気管支炎の症状もやっと落ち着いてきたので、

自宅の震災の痛手からの回復に着手しようという活力が出てきたところです。

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玄関前から3日目の子猫

2011-05-14 15:40:43 | ペット

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東北大震災から2カ月が過ぎ

2011-05-13 22:19:17 | 東日本大震災

大学の講義が始まった。

あふれるエネルギーはたのもしい。

被災に会っていない若人があふれていた。

被災にあった? との問いかけに対する反応は、

遠い別世界の、なんか居心地の悪い、気味の悪いこと、いやだーーー 

                                 という人が少なからずいた。

3月11日から時間が過ぎ、以前の顔を取り戻しつつあると

忘れ去られていく現実の冷たさを目の当たりにした戸惑い、寂しさが押し寄せてきた。

直接の被害は受けていない私が感じたギャップ。

被災後、ギャップを感じた世界に、出てきて、生きていくことは、大変ではないだろうか。

それを超えさせる、エネルギーの根源になるなにか

安らぎ、回復できる場所

 個人個人は異なり、公式などあり得ない。

農民が、農地を失い

漁民が、漁場を奪われ

町にあった仕事場が破壊され

 有為に社会の一員として動いていた時間を

 無為に過ごさざるを得ない時間が、まだまだ膨大に蓄積していく現実

二つの世界のギャップにダメージを受けている自分

   被災者の全員は、外見はどうであれ、

   一生涯、時折、心に刻まれた被災の日にフラッシュバックして

   苦しむんだろうなと。

その時、話を聞いて、それから

     生きていられてよかったんだ 

        と包み込むように言ってあげる人がいることだろうな。   

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子猫が玄関前に置いてあった!

2011-05-05 11:40:55 | ペット

6日から、遅れた新学期が始まる準備のため大学に、SBDCの日直終了後なので夜に出かけ、

夜10時頃に自宅に戻ったところ、暗闇の中から子猫のけたたましい鳴き声が聞こえる。

声はすれども姿は見えずで、まず玄関を開け、明かりを確保すると、ダンボールが目についた。

声はその中から聞こえるので開けると、4匹いました。

一匹は、動きません。でも、かすかな鼓動は手に伝わってきました

ほかの3匹も泣いてはいますが冷え切っています。

緊急事態です(動物は積極的に飼うと言う意思は私にはないのです。

         行き倒れ寸前のになっているとやむを得ず引き取っているだけなのです。)

まず、ホットカーペットの上に箱をしつらえ、元気な3匹は箱の中に置き

動かない一匹は暖めるためにボディーマッサージ。声が出てきました。

まだ目も開いていない子猫です。

お乳が必要な時期です。

排泄も、親が舐めることでの時期のはずです。

我が家には、大人の猫のえさしかありません。

やむを得ず、カロリー補給のため、砂糖水をスポイトで

口にゆっくり、吸い方にあわせて飲ませました。

大きめの茶虎2匹は、すいっぷりも力強いです。

黒白縞は、鳴き声は大きいのですが、気むずかしそう。それでも、飲んでくれました。

幽冥境で対面した白がち黒は、ほか3匹と比べて小さい。吸い込みも弱い。

卵の黄身を薄く水で伸ばしたのも与え、

牛乳は猫にはだめといわれていますが、自宅の猫は下痢もせず好物なので

親猫もいないので、牛乳も与えました。

ひとしきり、膝の上を動き回っていたのですが、

おなかもきつくなったのもあってまどろみ、眠りに入りました。

ホットカーペットの箱に戻して、

定住している迷い猫2匹の相手です。

名前は、ラダー(はしご);雌 黒、グレー、茶の縞だったので名付けたのですが、

                 栄養失調のための縞々だったようで、今は黒猫です。

     ロスト(家なき子);牡 震災のある日、

        大きなスパンコールのついた黒リボンをつけた猫が、

        震災作業で解放してあった車に座っていて、

        逃げる気配もないのでとりあえず引き取り、

        目下元の飼い主捜しをしています)。

子猫の出現に、ラダーは敵意むき出し。ロストは驚いていますが見ているだけです。

私が寝床についたら、枕元に2匹がよってきて、

一晩中私の頭に左右からくっついてはなれずにいました。

かなりのショックで、いつもとは違って、私にぴったりとくっついていたかったのでしょう。

今朝は、首がいつも以上に固まっています。

 

離乳前の子猫を、死なせずに済ませるのは、

代理のいないので休めない仕事をしている私たち兄妹には、

厳しく、頭脳的に対応しないと無理そうです(人手を煩わせる価値はありやなしやと自問中)。

離乳前の子猫を育てたのは、親猫、愛しい”とら”とムーサの経験しかありません。

親猫のいない子育ては初体験なのです)。

8匹の子猫を2回も生んだ、チンチラの捨て猫ムーサの経験だけです。

1997年、法事から戻ってみると、悄然とした雰囲気で”とら”が迎えてくれました。

たらぽんぽと母が呼んだムーサをさがしました。兄の部屋でえさを食べています。

何も変わったところはないかと思ったのですが、かぼそい子猫の声が聞こえました。

押し入れで産み落としていたのです。でもお乳をやる気配はありません。

右往左往しましたが、母猫は乳を与えず、我一匹えさを食い、子猫は餓死。

次は、まもなく愛しい”とら”と”ムーサ”の子猫が8匹うまれました。一匹は、圧死でした。

ムーサは、発育のよい3匹をつれ毎日引っ越しをするので、

行方不明の親猫を探して、均等に乳が行きわたるように、人手を加えました。

子猫が乳を飲んでいる間、”とら”は、子猫のおしりをなめていました。

ムーサは、7匹の子猫のお乳のために、たくさんたくさんたべていました。

”とら”は子猫のしつけをし続けました。

牡猫の、子煩悩な一面を”とら”はみせてくれました。

病院で、野良猫集団を見ていると、

猫の牡は、非特異的に子猫に対してしつけをしている様に思えます。

ロストは、生育した牡猫として活躍してくれることを期待しているところです。

子育ては、エネルギー、体力、と若干の経済力が必要。

大変です。

子猫用のミルクを購入し、とりあえず生き抜かせ、それからは……。

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年中無休

2011-05-03 19:55:55 | 健康・病気

1977年、血液疾患を専門分野と決心して宇塚先生に師事してから、命を継続させる責任感を次第に身につけ、ゴールデンウィーク、お盆期間、年末年始はとりわけ病棟をカバー、患者の病状管理のために休めない日が習い性となり、行楽地の賑わい映像をざわめく心で眺めていたが、今年は、大震災後の被災地にいる立場として、逆に被災地でも行楽可能な地を訪れて賑わしてほしいなと思っています。私は、3連休とも院内にいなければなりませんが。

連休前日、学校に通う3人の子を残して夫に先立たれた方が入院してきました。体調不良からすでに3か月を経過しているのですが、経済的不安から、診療を先延ばしにしていたようでした。母子家庭での、母親が孤軍奮闘せざるを得ない、世間の冷風にさらされてきたのだろうとおもいました。時間的猶予はすでに奪われているのだという説得と社会のシステムは冷たさもあるが、最終的には支えてくれる暖かさがあるのだと言うことを切々と話し、治療に前向きになられほっとしました。病院にいると、本当にいろいろなことが起きます。

24年間治療してきた患者が、消化器症状だったので、末期的状態になってから受診入院となり、結局は血球貪食症候群によって、不帰の人となる急変も起きました。

過酷な病気を専門としたことで、耐える強さ、覚悟を身につけられたような気がします。

暖かい見守りがあれば、過酷な運命、経験も切り開く力に変えていける強さを人間は持っていると思います。自分の経験からも。

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大震災を経験して

2011-05-01 10:55:24 | 東日本大震災

メディアで、あなたは一人ではない。

       絆

       心は見えないけれど、心遣いはみえる 

など 3月11日 大震災発生前とではうってかわった構成になっている。

人の温かさが、喪失感を癒やすには必要だ。

地震直後に気になっtことは、近くにいられなかった、体力的に衰えてきた恩師のこと

(両親は、すでに他界していたのは幸せなことであったと思った)

次に、病院、患者のこと。

とりあえず戻ることと先を急いだ

(震災後、戻るべき場所を失った人の気持ちを考えるとつらい。

涙が浮かんでくる。 私自身の36年前に受けたPTSDのためだと思う。)

後は、病院を経営している側としての責務を果たすための24時間の連続であった。

医療者すべてが、一丸となって邁進したわけではなく、そのことに驚き、傷ついた。

中学の同級生からの救援

戦後、幼き日をすごした神奈川県の知人からの救援、

本籍、墓のある秋田の知人からは、困窮していたガソリンが届けられた。

傷つくこと以上に、見守り、支えてくれる存在を感じた。

医局からの応援が復活した4月の第1週は、

目を開け続けるのもつらい疲労が噴出してきた。

当直に訪れる、若手も医師も、シャワー浴びれますか?とか、食事がおいしいとか

それ以前とは異なる、コメントが寄せられた。

それまでは、そそくさと大学に戻っていたが。

被災地への応援部隊も、後方支援部隊も、ともに過酷な勤務条件であった。

のんびりと、自己の健康管理にのみ終始したDrSS。

どさくさ慌ただしいときに退職を申し出てきた。

震災時、病院を身の安全が保たれないからと忌避した常勤の病院をないがしろにして、

次の勤務先を、探したことは、功利的なエリートの性格、自己保身の塊だったのね。

目の小手術をうけ、5ヶ月が経過しても診療行為に無関心であったDrSSに、この非常時こそ医師としての自覚に目覚めてもらうチャンスと、支援を申し出たが、裏目に出て、状況が落ち着ちつくまでは自宅待機とさせてくださいとの言葉を残し、帰宅した。数日後戻ってきたのだが、病院に泊まった翌朝には、目の不調を切々と訴え帰宅。疲労している身には、irritable。

次に戻ってきたのは、食糧不足の折、病院の食事を期待してのことで、しかも低血糖にならないための特別メニューを要請してきた。主食と、少ないながらもタンパク質を加えた汁物を出すために買い出しに奔走している最中に。日頃は、医師に対する節度ある態度を維持してきた管理栄養士、栄養士ともに無理ですと、周囲にも聞こえる声を出さざるを得なかった。

病院経営の一環として、医師の定員は確保しなければならないので、精神の不安定が復活しないように努めていた。自主的に出かけていた遠方の病院に出かけられなくなり、収入が減少したためか、近隣の病院の短期バイト口をさがし、常勤となれば、当院より高額の月給が出ることを確認し、退職を申し出てきた。功利的に動いて、ぬくぬくとできることに違和感を感じている。

震災後の何となく不安定な時期に、病院の存在自体も不安定にされることが起きて、

36年前へのフラッシュバックが起きて不安定になってしまった。

こういうときほど、日常性を維持するように努力しようと

滞っていた研究をまとめないと、時間がなくなるかもしれない。

快く協力してくれながらも早世してしまった友に、

世に成果を問うてから来たんだよ。と言って迎えてほしい。

完成するまでは、この世にとどまる時間をくださいと、

35年前にまだ来るのは早いと、とどめてくれた天上の声の主にお願いしている。

今年は、1月から常とは異なった時間が流れ、

大事にされて、過ごしてきたということも実感している。

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