連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

同窓会誌が届いた

2021-05-12 14:42:16 | 日記・エッセイ・コラム

令和2年度の同窓会誌が届いた。

入局(1977年)間もない、医局での出来事を思い出した。

”教授は、大名だ。配下は、一言もなく従わなければならない。

わかるか!あんた。” と、教授に言われた。

理解に苦しみ、座っていただけ。

その後の、血液班への、執拗な攻撃の渦中にさらされる前触れだった。

いまはなきわが恩師への研究依頼、潤沢な研究費を、わがものにとの画策の始まりとして、事情を知らない私を狙っての発言だった。

死を目前にして戦っている重症血液疾患患者と、恩師宇塚との、臨床、研究は、

教授といえども、命のかかった戦いさなかの血液グループの私には、くだらないとしかもえなかったし、また、毎日の診療、研究で睡眠もままならない生活の中では蹴散らすたわごとでしかなかった。

1980年前後は、今のような予約制でもなく、超重症患者が送り込まれてくることは度々で、其の度に部屋確保に、入院統括している先生に頼み込み、都合をつけてもらうことが度々あった。特に、印象的であったのは、空いていた重症個室に直入院となった患者に確保してくれた。”ゲル患“用の個室としてに、教授が狙いをつけて、入院統括医に交渉したら、既に重症患者が入る予定であるとことわったことから、”あんたみたいのがいるから、患者が入院できないんだ”、と外来で言われた、私は、”重症個室用の部屋に入院させるのに、文句言われる筋合いはない”と引き下がらず、双方のの知り合いになり、病棟から婦長(当時は、今は師長)が、外来に出向き、”先生、みっともないですから、個室は何とか確保するようにしますから”と、外来から連れ出したエピソードなど、思いだした。私は、患者の診療では、優先度は、重症患者の救命からという正義感に燃えて、意気盛んだった。その後も、教授に賛同した医師からのつるし上げなど、おもいではつきません。

恩師が退官し、同僚も博士号取得後、関連病院に赴任し、一人となり、手のかかる血液疾患は毛嫌いされていて、窮状をシンパシーのあった先生方がたの反対で、なんとか、部屋ごとの主治医制を維持していたのが、ついに、シンパシーの先生方も医局を離れ、主治医グループ制となり、沢山の血液患者を一人で持つことになり、骨髄移植を一人で乗り切れたのも看護師の協力あってのことで、感謝しかありません。

教授の鶴の一声が強力だった時代だったなとの感慨です。

看護師は、患者を優先させる、権力に迎合しない、という私の印象は終始一貫しています。

 

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