牛に曳かれて善光寺詣で よろしく
友のエッセイにたびたび登場する源氏物語。
超有名である物語ということで、
中学から高校にかけて古文、現代語訳谷崎純一郎をよたよたしながら読破したが、
今回は、現代語訳、与謝野晶子、田辺聖子、瀬戸内寂聴と 同じ巻を、どれほどに違いがあるかとかと読み比べてみた。
長編を読みだすと、読破するまでは寸暇を惜しんで読書に没頭する悪癖を自覚していたので、夏休み以外は久しく避けていたのが、魔が差したとしか言いようがありませんでした。
読破するまで乗り越したびたび。仕事に支障はなかったのが幸い。
さてさて、若き日にあこがれた姫君は?男君は?
平安貴人は、恋はかけひきで、心を燃え上がらせる奇妙さに、驚き嘆息したことを思い出しなどしたが、
蹴落とされ、死別を味わい 年を経て
たくましくもなり、あきらめ、忍び、
父の心情、わが身の上を重ね合わせられるからか など考えながら
今回、心ひかれたのは”椎本”
特に、俗聖といわれている父 八宮が、姫君達に、出家を決意して語る場面。
”世の事として、ついの別れを、のがれぬ………
去りなむうしろの事しるべきにはあらねど、わが身ひとつにあらず、……
過ぎ給ひにし御面伏に、軽々しき心どもつかひ給うな。おぼろげのよすがならで、人の事にうちなびき、この山里をあくがれ給うな。……”
与謝野源氏では、
”人生は誰もいっしょにいつまでも生きていられれものではない。一度は皆別れるのだけれど………。
私一人のためではなく、死んだ母様の名のためにも軽々しいことは出来ないだろう。真心からではない男の表面だけの情けに欺かれてこの家を出てしまったりするようにはしないでおくがいい。………”
の訳となる。
今を生きる私にとっては、現代語訳はわかりやすく、読み進むのも早いが、
多くの作家、漫画家のこころを捉え、挑戦を決意させる、偉大なる長編小説などと思う。
読破した集中力を、完成させたい仕事に発揮できないわが身、心の有り様を嘆きながら、
黙々と一人でよくデーターをまとめていると自画自賛しながらも、完成遠い仕事を、
天上の人との約束を今年中には果たせますように と
決意を新たにさせてくれた、源氏物語は、心のひだの奥行豊かな物語でした。