連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

みんな治してあげたい

2017-11-18 08:56:48 | 血液専門医宇塚善郎
朝のながら見の”わらてんか”で、「お子たちにも、おなごさんたちにも、みんなに……」の、みんなにのことばから浮かび上がってきことを書きます。

恩師宇塚義郎先生は、拡大してモニター画面に映し出すアシストビジョンを、生活の主要な場所において、高度の視力障害に対応して、読み書きを続けていました。
自分の視力に合わせて調節できる顕微鏡といえども、視力低下で、微細な変化が確認できず、私にまかせるようになり、
その日の光の具合で、わずかに輪郭が認められるほどの視力になり、
大好きな読書も不可能になり、
いろいろなやりとりのなかで、
患者は、みんな治してあげたかった。”ゲーテの最期のことば、ひかりをを念頭に置いて、”死ぬ時に、よく目が見えていてもしょうがない!”と。
顕微鏡で、両眼視力を失ったことに対する、愚痴は、生存中には一言も発せず、
楽しい空想の世界で時間を過ごされていました。
視力は失ったのですが、手の触覚、分解能力は優れていて、どうしても視力が必要な診察は、私でしたが。
丁寧な触診に、新患の方は、いつも問診だけで、診察らしい診察は、初めてと感激されたかたも多数いました。

視力障害の原因は、片眼の顕微鏡のためです。
40台には、右眼はすでに失明していたということを後日教えていただきました。
よくよくのぞき込み、右目は瞳孔散大、左右の色が異なっていて!
片目顕微鏡時代に血液学を研究推進された大家には、やはり視力低下、失明の先生も。
内視鏡で多数症例を検査した先生の片目失明報告後、モニター画面で確認しながら操作の時代に移ったと記憶しています。

恩師宇塚善郎先生は、左目のみの視力ですが、両眼顕微鏡で、東北大学第3内科勤務中は、担当したすべての患者の骨髄、末梢血液塗抹標本を、御自分で顕鏡。毎週月曜日の、血液ミーティングに備えていらっしゃいました。1991年、仙台血液疾患センターを開院後も、骨髄塗抹標本は、すべてご自分で。新患で、診断確定のためには、末梢血も必ず。

顕微鏡観察は、個々の患者の、体内変化を直接観察できるのですが、
長くなると、目は滲み、視力は低下することを実感します。
人工知能(AI)時代をむかえ、微細なビジュアル観察ができるモニターをみながら、AIの診断をチェックするだけの時代が来つつあり、
時代を担う、若手の医師は、顕微鏡による視力障害は、過去のものとなることでしょう。

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成人急性骨髄性白血病の長い永い道のり

2017-07-08 09:12:53 | 血液専門医宇塚善郎
多くの分子標的薬が臨床現場に登場しているなかで、急性骨髄性白血病は、
かって、致死率50%であった、急性前骨髄性白血病M3は、ビタミンAの誘導体、PML/RARAに対する分子標的薬の登場によって、最も治癒率の高い病型となった。
それい以外の型M0、1,2,4,5,6、7の治療薬は、1950年代に開発された、ダウノマイシンを基本として、治癒を目指した治療法が熱い議論のもとで臨床で試みられてきた。
 昭和27年東北大学を卒業し、インターンを経て東北大学第3内科に入局後は、胃がんに対してマイトマイシンの併用療法を始めとして、悪性腫瘍関連の化学療法も手掛け、
1960年代からは、血液疾患全般、特に予後不良、診断時点で、極めて近い将来の死が宣告される急性白血病の化学療法を研究の柱として、全力を死の当日まで尽くした。
その成果、集大成を、投稿すべく、長年にわたる臨床データーを、統計解析し、Jornal of Clinical Oncology(JCO),Leukemiaにとう投稿したが、新薬でもない化学療法の成績なんてという感じで、拒否された。
現在に至るまで、私たちの成績を凌駕するデーターは皆無なので、
これからの、新しい高額の医療費を費やす治療のマイルストーンとしてほしいという思いで、
恩師の原稿に手を加え、その基礎となった、放射性チミジンの取り込みによる細胞複製実験、幹細胞培養実験、遺伝子融合実験の成果を加えて投稿した。まもなくPubMed での引用も可能となる、
Clinics in Oncology1 2017 | Volume 2 | Article 1228

Response-Based Intensive Induction Chemotherapy of Curative Approach in Elderly Acute Myelogenous
Leukemia Patients in Single Institution

Saito Y, Uzuka Y,Takahashi Y, Ohtsuka 
 全文は、http://clinicsinoncology.com/pdfs_folder/cio-v2-id1228.pdf のサイトで閲覧可能となっている。

恩師の、PCファイルには”ながいながいみちのり”のフォルダーに入れてあった。
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宇塚善郎先生3回忌:絆

2017-05-06 09:02:00 | 血液専門医宇塚善郎
薫風香る5月4日、栃木深程の無量壽院にて、3回忌が行われました。
まず、個人の3回忌に対する読経、引き続き経典の読経、参列者も加わっての般若心経を唱和。
最期は、住職様の講和。2世安楽。現世でも、来世でも安んじて楽しく。
深程の地の、現代まで続く氏族の流れ。宇塚家は、その時代から治めてきた氏族というお話。

直来では、
初ひ孫を抱いた孫がまず挨拶。宇塚先生は、種々の観点から、結婚式は盛大にがせ持論だったので、足腰が弱ってきた先生の結婚式参列手順を話し合っているうちの体調不良となり、生前に京指揮できなかったのが残念、生成の死後間もなくの妊娠がわかり、何となく生まれ変わりなどと思われている初ひ孫。現在は1歳。生後間もない写真です。
引き続いて、次女の子供3人が、現在の様子、祖父(宇塚先生)とのかかわりを報告。
論文作成半ばだった仕事が残っているので、死してもなお生を保ち、

直来を始めるにあたって、施主が、記憶から無くなる2度目の死をだして、法事による記憶を新たにとしての意味合いを放していたので
一番弟子の私は、3回忌に間に合った、2編の論文
"Noninvasive early detection of anthracycline-induced cardiotoxicity in patients with hematologic malignancies using the phased tracking method"
"Response-Based Intensive Induction Chemotherapy of Curative Approach in Elderly Acute Myelogenous Leukemia Patients in Single Institution”
を墓前に捧げ、執筆半ばの論文はまだ医療界が凌駕出来ていない内容なので、引き継いだ齋藤が完成するまでは、死してもなお生を保ち、記録として残り、2度目の死は望んでも望めないと報告。
そして、先生がおんぶして、自転車で散歩させていた、まだ歩けなかった、初孫のターー君が、2009年、8月15日深程の家に一族郎党が参集して催された”家郷会”で、披露した”絆”を熱唱。現在は、exViv(2月解散したVivで、ボーカル、作曲もてがけています。はじめ、茶髪に度肝を抜けれた先生も、個人の自由を尊重する立場から、受け入れ)
街道から、家に向かう径で、まず目につく長屋門と、さるすべりの木。
咲き誇るさるすべりの季節に集った一族の人々と、お盆で一時帰参したご先祖様に向かっての歌詞でしょうか?

サルスベリの花の咲く季節に
変わらぬ笑顔が またやってきた
あげは蝶追いかけた あなたにみせてあげる
鮮やかに光る羽根 そっと捕まえた
目を閉じて ほら見えてくる情景
あの日と同じように 僕らここにいるんだ
冷たい世の中に 理不尽な温度感じても
忘れないで 見えない絆を
 ……………

幼少時好んで食べたという、”かっぱまんじゅう”を先生に倣い知り合いに配るべき購入。
名前の由来が、音無川にいたずら河童が出、こらしめた小倉氏。小倉氏にゆかりで今は小倉川に名前が変わり、そのゆかりで、おぐら餡の饅頭がかっぱまんじゅう。





 
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原稿校正で、主張を思い出す!

2017-04-01 10:57:03 | 血液専門医宇塚善郎
 生前から、成人急性骨髄性白血病の化学療法の集大成としてまとめ続けてきた、
”Response-oriented intensive induction chemotherapy for elderly older patients with acute myeloid leukemia in single institution”は、
心ならずも、投稿受理、発刊までに至らなかった。
従来の化学療法剤使用による治療は、切り捨て、新薬のみが、次世代を切り開くという風潮の前に、蹴散らされた感であった。
REVISE前に、東日本大震災に見舞われ、そのほかもろもろのことが次々に起きて………。
恩師の思いを受けて、化学療法継続、終了ポイントの根拠としていた遺伝子検査の成績を加え、時代の変化を導入部などに組み込み、手を加えて再投稿し、受理され、昨日構成が手元に届いた。
校正のために、じっくり、読み返しながら、”Disccution"考察の文章で、学会で議論を戦わしてきた諸先生は、宇塚の主張を思いの丈、書き込んでいるとうなずきながら読まれるであろうと、おもわずにやり。
5月の命日付近に、Jouranal of Clinics in Oncology に掲載予定。
そのタイトルは、”Response-Based Intensive Induction Chemotherapy of Curative Approach in Elderly Acute Myelogenous Leukemia Patients in Single Institution"

To suppress the re-proliferation of residual leukemic blast during early induction therapy
toxicity may be reduced if patients require no more than one cycle of induction therapy to achieve complete remission
For this purpose, we decided the end point of the first induction chemotherapy as to reach target point by monitoring with repeated bone marrow examination at day 8-11 of induction treatment. Inclusively, our therapeutic modality is not only adapted to individual response but also adapted to individual toxicity for dose decision making which could overcome all adverse factors.
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院長室の本棚

2017-01-01 18:20:25 | 血液専門医宇塚善郎
先生の本棚から
2017年末には、富田病院は閉院となり、荒井に、新病院設立移転に伴い、取り壊しとなる予定。
1991年に、恩師宇塚と基本設計から、その後の増床、病院へと築き上げてきた仙台血液疾患は、後継者難に伴い2013年に閉院したが、建物は当時のままで、隣接した応接室兼入院カルテ書庫は別の目的の部屋となるために持ち出せる限りの荷物は、院長室に運びこみ、その部屋で、従来通りのスタイルで使用してきたが、今年限りもしれない。
その中からのメッセージ


臨床データーをまとめるために、積み上げてあるカルテは、持ち出しはできないが、先生の一般書から、引き上げるものの選別をボチボチ始めなければ。
雑然と積み上げた書物から、
愛してやまなかった、女性に対する穢れ泣きイメージの女性、”ヴェルジニー“
サン・ピエール ポールとヴィルジニー 田邊貞之助訳
嵩西寛子さんの書物は、たくさんあるけれど、とりわけの愛読書は“詞華断章”。
網羅的に購入した、養老孟司、河合隼雄、白洲雅子、鶴見俊輔、
武満徹氏の、随筆は朝礼での引用が多く、
私齋藤が好きなのに引きずられて購入した辻邦夫の晩年の作品。
生活スタイルに好感をいだいていた幸田文さんの全集。 
たくさんあるなかで、
こんな本もと思い、手に取り読んだのは、
柳田国男 “女性と民間伝承”
駒沢 喜美 紫式部のメッセージ
大江健三郎  “人生の親戚”
城山三郎 賢人たちの世
中村健二郎 悦ばしきポイエーシス、デジタルな時代
谷川俊太郎氏の詩集。結婚式の主賓あいさつでは、祝婚歌を詠みあげ、贈呈していました。
題名に惹かれて定義、記憶を拾い読みしています。

宇塚先生をご存知の方にもできるだけ差し上げて、単なるごみとしての処分は避けたい。


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封印

2016-10-08 16:02:02 | 血液専門医宇塚善郎
修理で復活した母の年代物のミシンを踏みながら、
恩師、宇塚善郎は、患者の命を請け負っていると自覚後、
好きなことに時間を費やしたことはあるのだろうか?
気分をリフレッシュするために、休日の昼に、慌ただしく、職員を連れて食事をする。
書評などで気になった本を、紀伊国屋に電話注文して読むぐらい。
テレビ式拡大鏡で大好きな読書を続けていらしたが、それも、顕微鏡失明で奪われ、
朗読は、あまり好きではなく、
一人、楽しい無双の時間を過ごして逝去されてしまった。
碁は好きだったが、勝負はのめり込み、惰性で時間を過ごすからと、テレビでさえも封印。
患者の期待に応えることに、努力を惜しまず時間を費やして、走り去った。

宇塚善郎の、愛弟子と自負している私は、
仙台血液疾患センターがやむなく閉院し、
血液疾患の入院患者担当が無くなり、四六時中の呼び出し懸念が無くなり、
書きかけで放棄せざるを得なかった、研究原稿に着実に向かっている。
行き詰まりが起きたときの気分転換に、
幼少時、家で日常的に接していたが、傍観者で、練習することもなくすぎてきた、笛、お茶、お習字。

卒業まじかの日に、将来をともにと熱望された方からの”足手まとい”の一言の光景は、
学生時代の記憶をかき消し、
自立して生きることを決意させ、
病を得た身では、医師資格がなければ、女性が自立して生きる糧を得る困難さも実感し、
仕事が無いときは、休息という生活を続けてきた。
年金を得られる年齢になり、
”自立して生き抜いてきた!”
”死なないから”と慰められながら、
両親を見送り、恩師も見送り、私の体を気遣う、高齢者より、先に逝かなかった安堵感は、
封印を解き、
お茶、笛の稽古に通うことを、自らに許し、
時間に余裕があると、見知った懐かしいくたびれた衣類と古ミシンと格闘する時間を楽しんでいる。
医療に向き合う、教育に向き合う時間を優先して、は糸の切れた凧ほどには封印を解き放ってはいないが、
自由になることなく、意匠に向かう、封印を再びしたくない。
後ろ髪をひかれず、好きなことをできる時間は、素敵だ
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Impact Factor 2.915のCancer Medicineに掲載、発刊!

2016-10-01 16:07:59 | 血液専門医宇塚善郎
本日、発刊され、閲覧可能となったと、出版元から連絡があり、
「やっと」と、言葉少なく、恩師に報告した。
Impact Factor 2.915 の雑誌に掲載されたので、成就感大きく、
協力してくれた、患者に対しても応えられたという安堵感。

発刊は、患者の身体状況の改善に寄与し普及する、第一歩にしかすぎないが。
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/cam4.813/full から閲覧可能。

Original Research
Noninvasive early detection of anthracycline-induced cardiotoxicity in patients with hematologic malignancies using the phased tracking method
Authors
Yoshiko Saito,
Ikuko Susukida,
Yoshiro Uzuka,
Hiroshi Kanai
First published: 3 August 2016Full publication history
DOI: 10.1002/cam4.813View/save citation
Cited by: 0 articles

Citation tools

Abstract
Anthracyclines are among the most effective and widely used anticancer drugs; however, their use is limited by serious cardiotoxicity. Early detection is necessary to prevent the high mortality rate associated with heart failure (HF). We evaluated cardiac function in 142 patients using conventional echocardiography and the phased tracking method (PTM), which was measured using the minute vibration and the rapid motion components, neither of which is recognized in standard M-mode nor in tissue Doppler imaging. For systolic function comparison, we compared left ventricular ejection fraction (LVEF) in conventional echocardiography with the average velocity of ventricular septum myocytes (Vave) in the PTM. The Vave of 12 healthy volunteers was 1.5 (m/s)/m or more. At baseline of 99 patients, there was a positive correlation between LVEF and Vave in all patients. There were no significant differences in baseline cardiac function between patients with and without HF. There was a negative correlation between the cumulative anthracycline dose and LVEF or Vave among all patients. We determined that Vave 1.5 (m/s)/m was equivalent to LVEF 60%, 1.25 (m/s)/m to 55%, and 1.0 (m/s)/m to 50%. During the follow-up period, there was a pathological decrease in LVEF (<55%) and Vave (<1.25 m/s/m) in patients with HF; decreases in Vave were detected significantly earlier than those in LVEF (P < 0.001). When Vave declined to 1.5 (m/s)/m or less, careful continuous observation and cardiac examination was required. When Vave further declined to 1.0 (m/s)/m or lower, chemotherapy was postponed or discontinued; thus, serious drug-induced cardiomyopathy was avoided in patients who did not relapse. The PTM was superior to echocardiography for early, noninvasive detection and intermediate-term monitoring of left ventricle systolic function associated with anthracycline chemotherapy, among patients with hematologic malignancies. The PTM was an effective laboratory procedure to avoid the progression to serious cardiomyopathy.

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同窓会誌寄稿:宇塚先生と過ごした日

2016-05-28 22:43:18 | 血液専門医宇塚善郎
6月4日に、東北大学旧第3内科の同窓会”尚仁会”が開かれます。
今年も、同窓会部の医局員の努力で、尚仁会前に、年1回、発刊される会誌が届きました。

昨年逝去された4名の先生を偲んでの寄稿が掲載されています。
”正宗研先生を偲んで”
  ”宇留賀一夫先生を偲んで”
  ”高橋恒男”先生を偲んで”
私、齋藤は”宇塚先生と過ごした日”というタイトルで、毛色の異なる文章でした。ほかの3人の先生は、大きなグループに所属され、人となりも知られていることでしょうが、血液グループは、仕事は日本、世界から評価されておりましたが、医局内では、小グループでもあり、手のかかる疾患を対象としていたこともあり、排除対象となる患者を守るために、常に戦闘態勢で在局しておりましたので、先生の人となりを知ってもらいたいという思いもあり、寄稿しました。


宇塚先生と過ごした日


初期研修医時代に、10代の白血病患者を担当しました。治療は?と思いましたが、専門の先生はいらっしゃらず、日本語の医学雑誌の特集後を捜し出し、そこで宇塚善郎名の文献を多数の本で見つけ出しました。第3内科のSGTで熱心に指導担当していただいた先生が高名な先生だったという驚きと、学生時代から発病し悪化していた全身の障害を考慮して、検査がほとんどないと考えて、大学で血液疾患を専攻しようと連絡を取り快く受け入れていただきました。このとき血液グループは、先生一人でしたが、先生が提案したプロトコールが、日本初の集学的研究に取り上げられていて、総会では、多くの先生に、追っかけられ、質問攻めになっていました。DCMP2段療法と称され、日本中を席巻しました。
医者の初期研修医時代の“本態性血小板血症の1例”を内科学会東京地方会での発表に際しての指導半年後の、入局第一日目は、血液外来の日で、診察中の先生が顔を向けて、開口一番、「君、マルクできる?」と言われたので、何度かはやったことがありますと応えたところ、「やってくれる」といわれ、検査補助員泉さんと、看護師に付き添われ、16名の患者の骨髄穿刺をしました。あわただしい、余裕のない毎日の始まりでした。
「度胸あるね。梁先生よりずっとはやい。おかげで、外来はいつもより早く終わった」と、外来後は、「骨髄有核細胞のカウント、塗抹標本の染色を覚えてね」、で宇塚先生は忽然と姿を消されました。医局の血液グループブースで、泉さんから教えてもらいながら、網状赤血球、メランジュールのカウント、骨髄像、血液像、血小板の塗抹標本染色と、緊張の連続で過ぎました。当時の私の体調は、大きな声で激痛が走る、持続性の微熱がある状態だったのですが、入院患者の状態は、激変し、朝には和やかに言葉を交わし、夕には冷たい躯となることが珍しくなかったのですが、重症、重篤な患者と共に必死でした。
骨髄穿刺後、宇塚先生は素早くいなくなり、しばらくすると戻っていらっしゃるのですが、特に外来で多くの患者が待っているときなどは、このまま戻られなかったらどうしようと忽然と姿を消したわけがわからず手持ち無沙汰で過ごすことが何度も繰り返された後のある日、“現像するから”と声を掛けられて、中央廊下から引っ込んだ放射線取扱室にある暗室で、トリチウムチミジンを取り込んだ骨髄細胞標本に乳剤皮膜を作り、乾燥させる作業にいそしみました。暗室での宇塚先生の作業はすばやく、秒単位の時間計測の正確な呼称に驚きました。先生の手が、黒く、中央廊下から忽然と姿が見えなくなる理由も判明しすっきりしました。親しく声をかけることが出来なかったころの思い出です。
寛解導入治療開始から2か月ほど経ると、染め上がりを待った骨髄像を顕鏡して“完全寛解”と言われたときは、ほっとし、次は治癒をめざせる嬉しさ、再発し、治療しても治療しても白血病細胞が立ち上がり、次の一手をあきらめず模索していた先生が“もうだめだ!”と、発せられたときのつらい悲しさ。
白血病の治癒を目指すために、トリチウムチミジンによるDNAアッセイに加え、幹細胞培養も研究の一手法としたので、入局2年目の1978年パリの国際学会では、“白血病幹細胞の動態”の演題は、瞬時に情報がつながるインターネット社会の今とは異なり、発表形式は、口演なのか、ポスターなのかの連絡は、パリに旅立つ1週間前で、シンポジウムでした。未経験の私は、暢気なものでしたが、宇塚先生の気のもみかた、意気込みはひとかたならず、美しいスライド作成のための写植、培養細胞のカラー撮影、現像、マウント、紛失時に備えての予備スライドをどのように携行するかとか、発表時にもスライド送りの指示も大変でした(現行のPCパワーポイントがスライドであると認識するのに戸惑った世代の懐旧です)。世界でも端緒についたばかりの幹細胞の成績でしたので、議論噴出、質問に対してわが意を得たりと米国のSpizer博士が、援護討論をかってでてきたりでへとへとになり、特に宇塚先生は疲労困憊し会場を早々に引き上げたのでした。その翌日に学会側から、“奨励賞を受け取りに来られたし”というメッセージをボードに見つけ、またまたびっくり。当時1ドル320円で、副賞金は20万円相当でした。
恰幅の良い先生は、日本人の金持ちに一致したイメージなのか、外貨持ち出し制限時代には、“所持金は?”と質問されたり、アメリカの1流ホテルで華やかな美女に部屋まで尾行された話で高橋晴彦先生にうらやましがられたり、クスコでは低酸素による頭痛で “頭だけが取り柄なのに壊れたらどうしよう!”と身動き取れなくなった先生を、“マチュピチュは、標高が下がるから楽になる”と説得して無理やりやっとつれだし、到着後は、食欲も回復し、後々も“伊藤先生の酸素吸入量が並はずれていたからだ”など後々思い出しては、吹き出すようなことが満載の海外学会参加でした。
入院直後の白血病幹細胞が満ち溢れている骨髄血から正常幹細胞を分離し、増殖させ再発後に、自家骨髄移植を行うというプロジェクトは特に大変でした。細胞表面のCDなどまだまだ判明していない時代でしたし、無菌的な操作が求められるので、アルブミンでグラディエントを作成するのですが、準備終了までにまる2日は不眠不休の操作が要求されるので、睡魔に勝つのは容易ではなく、時間が経過するにつれ宇塚先生の粘り強い底力が発揮されましたが、眠れないという苦痛は宇塚先生も同じだったようで、操作を1秒ずつ短縮する手順、器具など改良に改良を重ね20時間弱まで短縮しました。幹細胞は分離でき、培養成果もそれなりでしたが自家移植を目指した幹細胞の増殖には至りませんでした。その手法は治療成績などに結実し、日本学術協議会からの海外派遣要請で参加した学会では、飛行機のチケットがファーストクラスでした。座席の広さ、食事はコース料理並みで、デザートにはアイスクリーム、アテンダントの数の多さとサービスに違いに驚き、さらにはBritish Airwaysでは、テロ対策強化の現在とは違い、希望があればキャビン内への入室も許されたので、一部の隙も無く計器類で埋め尽くされているのにこれまた驚きました。国際学会参加は、高い評価が得られストレスから解放される楽しい旅でした。学生時代に発病した膠原病で常時微熱など不調であったため、国際学会中の、観光旅行は、具合が悪くなるからといつも制限がかかるのでしたが、見知らぬ土地での観光は、発表後は何としても敢行したくて、早朝抜け駆けを目指して1階に降りると、すでに宇塚先生が待機していて、観光したいという不満顔にやむを得ずという折衷案での観光で、学会参加の最短コース期日の参加でしたので、あの地かの地も学会で行っているのに、訪問していないことに気づき、残念至極です。
大学退官後、患者の強い希望で1991年開院した仙台血液疾患センターでも、先生のもとで診療、研究を続けてきました。学生時代はクラシック鑑賞サークルに所属していた名残で、院内には、特に好きであったベートーベンの交響曲“田園”第6番を流していました。それ以上に好きだったのは、読書で、院長室の片隅に私の机が準備されたので、終日同席している機会には、大化の改新前後の貴人の恋模様について、また、関連した和歌、歴史的出来事そして、神武、綏靖に始まる皇紀すべてをそらんじていることの自慢、旧制四高の先輩井上靖の額田女王、私が愛読する辻邦夫が書いた西行花伝、愛読書のアランの幸福論から天秤の話を出して鈴木仁一先生の話の腰を折ってむっとさせたとか、小松真理先生が、病棟エレベータ前で転倒しても、マッペは水平を保ち、骨髄標本が破損しなかったときには、ただちに“小口小平は死んでもラッパを離しません”の、仙台血液疾患センターで心筋症の予防的検査法の開発に携わっていた職員は、大阪夏の陣の豊臣方の憧れのヒーロー薄田隼人の末裔であることを知っていて、結婚式の主賓祝辞で触れ、彼女の株を一挙に上昇させたりと、話のソースが豊富でした。少年時代のワクワク感を生涯持ち続け、いろいろな諺たとえなどを持ちだされたので、話は尽きませんでした。
労災病院で血液外来を担当していたので、山形敞一先生の、骨髄穿刺を施行させていただき、その骨髄像に愕然として先生に伝えたところ、遅筆で多くの方面を悩ましてきたのとは異なり、直ちに山形先生との医局入局からの思い出を文章につづられ、お見舞いに行かれました。亡くなられる前日で、枕もとで読まれ、さらには夜になり、“宇塚君の文章を”と再度、奥様に所望され、“幸せだったな”と話されたということを、弔問のために沖縄から来仙された与那原先生とともにご自宅にお伺いした折に話していただいたので、先生から“山形先生に孝行できた”と感謝されました。その縁で、山形先生ゆかりの、高村幸太郎の手紙とか遺品が私、齋藤の手元にあります。
仙台血液疾患センターは、後継者確保が難渋し、大学病院に血液専門内科が設けられたり、高齢化による競争力の低下も伴い2012年11月に病床閉鎖、2013年3月に閉院となりました。そのあとの葵会富田病院での血液外来の継続では、視力の減退著しいなか齋藤同伴で診療を継続され、謎解きが必要な呼びかけで患者をちゃかしたりひっかけたりしながらユーモアに富んだ話を交えながら患者に話しかけ、再来患者はまず握手で状態把握に努められ、高齢医師としての診療の在り方を問い続けながら診療をされていました。新患には、第3内科のポリクリ指導医時代と同じように診察をされて、“これほど丁寧に診察されたことは初めてです”と驚き、感謝されていました。
宇塚先生は、死亡宣告後も、助けてくださいと請われた入局間もないころのお豆腐屋さんの家族の思いを受け止めて、真摯に治してあげたいと視力を奪われながらも、一切不平をいわず、ひたすら研究、海外文献を渉猟し、世界の先を行く治療を目指し続けました。
2004年11月の脳幹部梗塞は1が月後には、運動障害、視力のさらなる低下はあるものの、記憶、思考、判断力は支障なしでしたので1か月後には仕事に復帰されましたが、2015年2月の左下肢麻痺の出現で、広南病院を受診した時には、脳梗塞の再発、脳腫瘍と診断され院長室での起居生活となり、長女の千里さんと私が交代で、健啖家の先生の味覚を満足させるために仙台牛、ウナギ、千枚漬け、アイスクリームなどの買い出しにいそしみましたが、毎日のことなので、近所で調達した物で済ますと味が落ちるためか、“わずかしか口にせず“もう結構です”と、まずいとか非難がましい不平はいわず、美味しいときは“美味しいね”と食が進み、先生を支えながら楽しい時間を過ごさせていただきました。
幼いながら第21代目当主として、お父君の勤務での不在の長い期間を祖母、下男、下女と過ごさなければならなかった寂しさのゆえか、一人でいるのがことのほか嫌いだった先生は、家族、大事にしていたお気に入りの長く勤務している女性職員にも見守られながら5月23日夕刻、旅立ちました。
栃木県の生家の裏山の歴代当主の墓石が並ぶⓂ墓地に、新しい墓碑の下に眠りにつかれています。

齋藤淑子


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1周忌

2016-05-26 17:05:07 | 血液専門医宇塚善郎
恩師故宇塚善郎、現宝寿院無量医光善照清居士の1周忌の法要は、5月4日に、生誕、生育の地の深程で済ませました。

昨年9月の関東、東北大豪雨の爪痕は、わずかに緑が見える部分もありましたが、春の貴婦人キヌガサソウも、イチリンソウも、ニリンソウモ流れ込んだ土砂の下なのか、赤茶けた土でした。
被害を免れた、墓には、からすびしゃく?がみられました。
急性白血病の化学療法の進歩に並々ならぬ努力を続けられた、河村先生からも、思いを託された1周忌の参列でした。
学会で、宇塚邸を訪ねた古い写真が出てきました。門の中に、古い家が移っているのがなつかしく、また、いずれも活気に満ちたたたずまいでした。



今日5月23日が1周忌の命日。
告別式で、営々と協力してきた、異形の成果を必ずや投稿しますと誓ってから1年経過ということでもあります。
Citation Indexの高い国際誌のハードルは高く、統計解析のデーターの追加、稚拙な英文で突き返され続け、revisedの投稿を今日行ったところで、受理、印刷までの道のりはまだまだ。
たくさんお仕事を残され、託されたということは、日々の生きるよすがでもあります。

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紫式部のメッセージ:駒尺喜美著

2016-01-18 10:30:15 | 血液専門医宇塚善郎
紫式部のメッセージ 駒尺喜美著 朝日選書 1991年発刊

 元の仙台血液疾患センターの院長室は、先生が生存時と大きな変化はありませんが、かっての応接室へと抜ける扉は閉ざされ、当時応接室にあった一般書が、扉の前に移動した本箱内に並べ、積んでいます。その中一冊をたまたまてにとったのが、《駒尺喜美著 紫式部のメッセージです》。
 2016年度のセンター試験の休養室待機を終日しているなかで、読み始めたらやめられませんでした。
 1991年は、開院間もなく、やらなければならないことが満載で、ゆっくり読む暇もなかったからか、宇塚先生から、この本の読後感を聞くことはありませんでした。聞きたかった!

 紫式部の百人一首に入っている
めぐりあいてみしやそれともわかぬまに雲がくれにしよはの月かな
  の歌を送った相手が、女友達だったとは!

紫式部は、男との間でより、女との間で多くの相聞歌を取り交わしている。女たちに深い愛をこめている人、そのメッセージを織り込んだのが、源氏物語という解釈。
 父や夫に従って地方に行ってしまった、生きて再開かなわなかった女友達との別離。
 多くの妻をめとっていた藤原宣孝との29歳ころの結婚は、急逝により2年ほどで終焉し、残した歌は 見し人のけぶりとなりし夕べより名そむつまじき塩釜の浦 などで、
紫式部がかかわった男性は一人のみであったようだが、夫を悼む純粋の哀傷歌は無いといいきれるほどの感情しかもっていなかったようだ。
 紫式部は、心を主に考えると同性愛者だという。この本にでてくる、その文面にうなずくのみ。同性愛を、性的関係を直ちにイメージするのも、男性優位社会の洗脳かとも思った。

宇治十帖を書かずにいられなかったのは
道長の誘いに応じない、式部に、お仕えしている中宮彰子の前で、
 “すき(好き、酸き)ものと 名にし立てれば 見る人の をらで過ぐるは あらじとぞ思う”という歌:
 注釈 あなたは浮気者という世間の評判だから、あなたをみかけて言い寄らぬ人はいないだろう。
 源氏物語が、恋の賛美としてのみ受け入れられたのでは、
「見るにも飽かず聞くにもあまる」女の状況を、「心に籠めがたくて」「後の世にも言い伝え」たいから、書いた源氏物語の意味が失われてしまう。からだとの解釈。

女ほど不自由で哀れな存在はない。
望まない、望まれてしまったための結婚。幸せな女の不幸
桐壺帝の寵愛を受けた、桐壺の更衣(四位)の不自由で、いじめから逃れることもできず、夫=帝の無理解で、衰弱しきってからの里下がりで、その夜に亡くなり、死後の女御(三位)の授与。桐壺の更衣の子が“光源氏”。
そして、今度は藤壺の宮との光源氏との密通。
紫の上は、光源氏のもてあそびとしてさらい、藤壺と葵上から満たされぬものを満たすための生贄人形として、自分の都合の良いように養育し、女主としての、六条院では、光源氏が関係のあった女たちを住まわせ、明石の君の娘を育てさせ、そのうえ夫、光源氏は女三宮と結婚し、などに耐えに耐え自我を殺して源氏の心に沿って生き続け、死去された。
柏木亡き後の妻、落ち葉の宮が柏木の友人夕霧から言い寄られたことを知った紫の上が“女ばかり、身をもてなす様もとこせう、あわれなるべきものはなし”=女ほど身の処しかたが窮屈で、痛ましいものがあろうか、きっぱりといっている。
男の視点のみで選ばれ、評価される世の中で、結婚しなければならない女の不幸から、結婚をしない“結婚幻想”を打ち破りたかったために、宇治十帖を書き加えた。という。

源氏物物語の主人公は≪女たち≫で、女を見つめる作者の視点は、主に娘たを見守る母の言葉として示されている、という。
源氏物語は、帚木の冒頭、夕顔の結語の部分で、“理想的に見える男も、女の知らぬところでひどいことをしているのだということを、分断されて家の中にかこいこまれて女たちに伝えよう”とした、紫式部の地の声をさりげなく、きっぱりと書き込んだ物語だと。
今でもつづく、男の強姦、和姦を正当化している男社会をリアルに書き込んでいる物語。

古文を書き写したので、興味があれば読んでください。
帚木の冒頭
“光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれたもう咎多かなるに、いとど、かかる好き事どもを末の世にも聞きつたへて、軽ろ美たる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへ事をさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。さるは、いといた世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなく、交野の少将には、笑われたまひけむかし。”

夕顔の巻の結末
“かようのくだくだしきことは、あながちに隠ろへしのびたまひしにもいとほしくて、みなもらしし止めたるを、「など帝の皇子ならんからに、見ん人さ語ほならず物ほめがちなる」と、作り事めきてとりなす人ものしたまひければなん。あまりにもの言ひ性なき罪避り所なく。

古文では読みがたいので、現代語訳を再度読み直し、特に
谷崎純一郎訳VS
瀬戸内寂聴訳、田辺聖子訳、与謝野晶子訳を比べてみよう。

千年たった現在、男尊女卑の発言は、政治家の議会発言にかぎらず、強姦者の、喜ぶと思ったとかの発言、また肯定するような世の風潮など、枚挙にいとまがありません。
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大根田 昭先生 逝去

2015-12-03 09:26:28 | 血液専門医宇塚善郎
大根田 昭先生 11月27日に逝去されました。
第3内科に入局の日、宇塚先生に挨拶のために講師室に入ったときに、SGT時代の成績簿を捜し出して、チェックシャワーを浴びました。

出身が栃木県ということで、
”無芸大食”
”抑揚のない、ぶっきらぼうな話っぷり”など、宇塚先生とは、
相通じる気質、誤解されやすいような面で意気投合していましたっけ。

糖尿病研究では、着実な成果をあげられていましたが、
大学での研究者としては種々困難に直面し、
大根田先生の研究者としての能力を高く評価していた宇塚先生は、
旧制四高の同級生の教授に応援を求めたりしたこともありました。

糖尿病の治療に精通する勉強することを、ある事情から潔しとせず毛嫌いしていた宇塚先生は、
仙台血液疾患センター患者の、糖尿病コントロールのための勉強会を度々お願いしておりました。

近年、大根田先生が病を得てからの電話口からの様子で、
”大根田も、かってのうるささが減った!”大丈夫かなと気遣っておられましたが、
宇塚先生が5月に先に逝き、今また大根田先生も冥界に旅立ち、
山形先生譲りの和歌の出来でも語り合っているのでしょうか。

心から、ご冥福をお祈りいたします。
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百か日とは卒哭忌か!

2015-08-30 11:38:14 | 血液専門医宇塚善郎
近年の8月は、毎日に変化を求める宇塚先生主催の誕生日を祝う月であったが、今年は、8月30日は先生の百か日。百か日は(そっこくき)とも呼ぶそうで、悲しみをリセットする意味もあるようで。
8月31日、先生の誕生日には、切羽詰まった仕事満載で、やり遂げたときの爽快感、かつがれてしまったときの喜びようなどを思い出し、生まれてきてありがとう、祝い花をささげたいと思います。
生前誕生祝の花を抱えて記念撮影でおどけている先生

縁無き人には、てっとり早くというのが、最近の風潮。
分れを心底悲しんでいる身には、卒哭忌と言われる、とり急いだ百か日の法要は、本末転倒ですね。



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遺徳を偲んで:宇塚先生へ送る言葉 仙台市医師会報8月後掲載

2015-08-28 10:18:33 | 血液専門医宇塚善郎
仙台市医師会報掲載のアップです

宇塚善郎先生は,平成27年5月23日午後5時半に息を引き取られました。
 通夜は、 5月26日 午後6時から
 告別式は、5月27日 午後1時から
仙台 斎苑で執り行われました。
通夜の儀後は、妻美恵子様の、夜を徹して、若き日に合唱されたというドイツ語の野バラの歌声を届け続けられました。
明けて、5月27日に、出棺に始まる葬儀一式が執り行われました。栃木県にある菩提寺、真言宗、無量寿院の住職様により執り行われ、戒名 宝寿院無量医光善照清居士を授けられました。


弔辞
先生の人となりを知る友人の多くの方はこの世を去りました。40有余年の間、先生の近くで研究、診療の時間をすごした齋藤淑子が、先生の御逝去に際し、謹んで弔辞を述べさせていただきます。

栃木県清洲村の旧家の跡取りとして生を受けた先生は、農林省の役人として全国に赴任して家を不在にする父の名代として幼き日から祖母“つや”様から古今の記憶に残ることわざによる薫陶を受け、19代当主として、母屋の新築、3層の池を備えた江戸時代に築ずかれた庭の整備、家周囲の壁、そして二層になっている長屋門の改築を成し遂げ、1200年代から続く家の維持への気概を示されました。

旧制栃木中学校時代は、小高い丘から、通学のバスに間に合うように駆け下り養った健脚で、旧制四高入学後は、陸上部アカシア会に入部し、長距離のエースとして期待されましたが、病を得た休学中に医学部を志すようになり、病床に臥せっていた当時の気持を、親しみやすいウイットに富んだ患者との語らい、医師として治すという強い気持を持ち続けた診療に結実させたお心は、学ぶことの多いお姿でした。

インターンとして過ごされた竹田総合病院時代では、ほかの先生への苦情を訴えていた患者に “文句ばかり言う前に気持ちを表す礼でももっていけ”と諭した指導の外科の先生の貴賤をつけない自負を持った医師としての姿勢に感銘を受け、気仙沼病院時代の、往時の先生の真摯な診療姿勢を懐かしんで、数十年経ても、仙台血液疾患センターを訪問していただいた方々がいらっしゃったことは、信頼を得る大事さを教えていただきました。
 
白血病の宇塚というイメージが定着していますが、東北大学第3内科に入局まもないころは、宇都宮徳馬氏が生存中は、季節の挨拶が欠かされなかったミノファーゲンが肝臓の機能障害を改善するという報告、学会号外がでたというマイトマイシンにより胃がんは瘢痕まで縮小するなどの報告をされ、固形がんをなど多岐にわたる研究をされていたようです。とことん突き詰める勉学の広い知識が、血液疾患の診療に反映され、好成績を得るには必要だということを教えていただきました。

昭和47年(1972年)に新潟で開催された日本血液学会総会の報告は、学会場では、さんざんクサされ、共同縁者と天を仰いで寝転んだ急性白血病の報告が、国立がんセンターの故木村禧代二先生の目に留まり、日本初の集学的研究の共通テーマに取り上げられ、名古屋大学の故山田一正先生によりDCMP2段治療と命名され、また、1976年東北ジャーナル、山形教授退官記念号に掲載された英語論文が欧文誌で取り上げられ、先生は時代の寵児となられ、担当医師による成績の違いに驚いた、私は、先生の門をたたきました。その後、多くの国内、国際学会にともに参加させていただき、アメリカのゲール博士からライバル視される存在の先生、白血病の化学療法を治癒可能な成果を挙げた世界で最初の医師として1980年のモントリオール国際血液学会の教育講演で紹介された時は、日本から出席されていた先生方からどよめきが起きる先生は弟子一同の誇りでした。

患者の救命のため日常診療に費やさなければならない時間の多さゆえ、タイムリーな業績報告は勢い少なくならざるを得ず、多くの有益な方法、成績を未発表のまま、この世を去ったことは憂慮すべきことであり、弟子の力不足ゆえに苦汁を味わせてしまったと、深い自戒の念を感じております。かならずや、投稿し上梓を目指して努力を続けることをここでお誓い申し上げます。

先生が退官した1990年当時は、血液専門医の不足は著しく、患者の不安、要請に応えるべく、日本初の血液専門病院、研究所を併設した仙台血液疾患センターの開設という大英断をされました。万巻の書を読み、研究に基づいた、あきらめ無い診療姿勢は、患者、家族の信頼を得て、重篤といえども希望を抱けることで、明るく、病院に見学に訪れた方に深い感銘を与える病院を運営されました。

旧式の光学顕微鏡による網膜焼灼による右眼失明に加え、2004年に罹病した脳幹部梗塞の影響は、弱視であった左眼も徐々に視力が低下し、東日本震災後ごろからは足元の確認もおぼつかない状態でありましたが、先生の名言“重症患者に助けられ”と周囲の援助の手を快くうけいれる態度へと変化し、日々の診療を自分の状態に合わせて続けていらっしゃられる姿は、かっての独立独歩でさっそうとしたスタイルが好きな先生を知るものとしては、変容のありようを学ばさせていただきました。

多くの訓戒のことばと長きにわたるご指導を感謝しつつ、今後は叱咤激励の励ましの声をいただけない静穏の時間のなかで、先生とのわかれに戸惑いと深い悲しみを覚えています。
安らかに冥府の世を楽しんでください。
再び永世のあの世で再開することを心から願いつつ、しばしのお別れを申し述べて弔辞とさせていただきます。

平成27年5月27日 齋藤淑子

目下、齋藤淑子は、書きかけの原稿のデーターを最新のものにするため、”患者”と向き合っています。
すでに冥界に旅立った患者と、先生はどのような出会いをされているのかしら?と、
一緒に患者データを繰り返し繰り返し掘り下げて検討しながら、

『助けられなかった患者は、どうやってむかえてくれるだろう?』まだまだ、活力があるときには『まだ来るな!と追い返されるかな。』など、白血病からの生還に寄与できなかったのは何故だと追求、研究、文献の読み漁りをしていました。最期の日まで、患者を助けたかったのだけれど、体力、気力も尽きてきて、『もういいかな』
患者に自分で食べて美味しかったのは、食べさせたくて。病棟、閉鎖まぎわの、毛ガニは大好評で、生きていて良かったとまでいってくれた患者もいましたっけ。
患者との談笑は、愉しそうだったので、再開しているでしょうね。


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思い出のナツスイセン

2015-08-16 22:14:08 | 血液専門医宇塚善郎

お盆の送り火前に
受理されるかどうかは不明ながらも、一つのテーマは投稿。
次にとりかかり始め、
宇塚先生の、保存タイトルが”長い長い旅”。
エッセイ風ですが、れっきとした学術論文です。
生涯のテーマ【白血病治療の化学療法の治癒的治療法の確立】の実践成績のまとめ。
東日本大震災前に投稿し、修正が来たのですが、混乱の中で、締切日前には再投稿できませんでした。
その後も、困難は続き、いつもいつも、ひっかかりを抱きながら過ごしてきました。

1970年代は、急性白血病化学療法の勃興期で、
宇塚先生は、乳剤の感光で手を黒くした(医師のくせに、手が不潔と思われて陰口をする人もいました)トリチウムチミジンを使用したDNA増殖解析でアプローチ
新人私齋藤と高橋先生は、白血病の増殖動態解明に、新手法の幹細胞の培養でせまり
真夏のセミナーの演者として選ばれ、会場の榛名湖にむかいました。
清貧著しく、エアコンのない、かろうじて走るという車で向かったのですが、
ラジオからは、気温37℃を超えたという声が流れてきました。

道沿いの宇塚先生の親戚の家で休息しながら、目的地に辿り着こうということで広大なお屋敷に。
門から玄関まで、すっきり伸びた桃色の花が続いていました。
奥さまが出ていらして、ここで先生を喜ばし、私が愕然とした発言、ご夫婦での来訪と勘違いされたのです。
その後も、異なる季節に訪れ、宇塚先生が好まれた広い応接間(百坪)を思い出します。
今自宅の、狭い庭に細々と咲き続けているナツスイセン。

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宇塚善郎先生をしのんで

2015-06-04 15:05:53 | 血液専門医宇塚善郎
きみ逝きて 注文なしの 戸惑いに 高く広がる 空を見上げる

一度きり タイムカードの 挿入に 押し寄せ過ぎる 孤独の時間

すがりつく 君の重さは なつかしき ひとりすごせし 刻の長さよ

ひさびさの バス停始発 朝夕の 体調管理 不要となりて

うわごとの うれしさあふれる おおごえは 寛解になった 治る治すぞ

逝く日まで 抗生物質 血小板 輸血に除鉄 補液追加と
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