連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

定年退職

2016-03-29 15:48:56 | 日記・エッセイ・コラム
28日、定年退職の辞令交付式が執り行われ辞令を、にぎにぎしく受け取ってきました。

自力で生活を続けられ、定年退職を迎えられるという安堵感から、
度々、脳裏をかすめててきた、”あしでまとい!”という言葉と共に現れる、恐ろしい形相の人と共に湧き上がる、恐怖と悲しみから解放され、穏やかな気分でいられる作今。
年齢もありますが、もう46年間も付き合ってきた慢性疾患がありますので、余力はないので、
定年退職後も、慣れた環境で、収入を得られる幸せに恵まれていることを実感し、サポートしていただいた方々に感謝せずにはいられません。

定年を迎えた随筆で、心に残っているのは、
梅棹忠夫氏の学士会法に掲載されていたというおぼろげな記憶にある、
国立民族学博物館長の定年に当たり、”定年は、アフリカ族長時代になぞらえて”近代社会での、聖なる弑逆”と表現した言葉で、館長として助力してくれた職員がもぎ取られることをなげいておられたので、視力低下に伴う不自由がいかに大きいものであったのかと驚き、それにもかかわらず多くの研究を推し進め、継続を望まれていることに、仕事は終わりなく、社会の一助になれる間はし続けようと思ったのでした。
望んでも、”弑逆”の立場に追い詰められる人も少なくなく、持てる力をいたずらに無駄にして過ごしていられる方を慮るに

社会人への旅立ち前に、発病し、しかも女性であるのに、国家資格たる医師免許証を取得し、病休を取る暇はない専門分野で間断なく仕事を続けてこられた環境にも恵まれていました。


医学部学生時代の1970年早期に発病し、当時の医学レベルでは、診断は曖昧なままで、
身体活動の制限が加わり、絶望的な状況の中での学生生活であり、
卒業間際の、同級生からの一言(?)で、気を失い、学生時代の記憶のほとんどは消え、
しかし、医師国家試験は、無事合格し、
当時としては、珍しい、週休2日が確保されているという触れ込みの”日立総合病院”に内科医として入社。
自分では、病気もちの女性というハンディを強く認識して、社会人としての第一歩を踏み出した。
医師免許証を持っていることで、収入を得られる職業についていられる幸せは、社会の有様から強く認識してきた。学生結婚を、申し出た、結納先に、”学生ですから親の責任で卒業させ、卒業後に結婚をお願いします。”と、きっぱりと申し出てくれた亡き父に感謝のひとことにつきます。

慣例により、教員のすべてといっても過言ではなく、専門分野の人材補充がかなわずということで、”特任”という名称変更、報酬の大幅ダウンを伴っていながらも、再雇用されます。
特に、2015年度は、大学の体制変更のため、あわただしく、文部科学省への書類審査に間に合わせるということが、最重要課題で、あれよあれよという間に、”定年退職”は、関係の先生方の念頭にあっても、新人材の発掘という行動を起こす余地はないままに、”特任”の道に邁進させられた(やめるという一言をはさむ余地なし!)。
 早期退職の道を選択した、同僚は、適任人材確保が出来ず、給与報酬の大幅ダウンを伴った”特任”で、教員生活継続のやむなきに至った。人材確保が出来ないと判明した時期は、秋なので、専任への変更がなぜできないのか、よく理解できない宮城学院規定であった。
ダウン幅は、その前の5分の一より少し多い程度であることが、昨日の辞令交付式後の、特任教員の雇用契約で判明。
とはいえ、収入には無関心だったし、研修時代の極貧生活から、さほど変わらない感覚の毎日、仕事で自由になる時間も少ないし、消費する活動力にも乏しく、
これから先、親と同じ墓に埋葬してもらえる状況で死を迎えられたらばこれ以上の幸せはないかなと。

両親、恩師の死亡診断書を書ける立場で、日々の生活、診療を行えたことは医師冥利につきます。
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3月11日

2016-03-10 15:09:20 | 東日本大震災
当事者ですので、3月11日は、忘れられない日です。
マスコミで騒がれなくても、忘れません。忘れられません。
2011年3月11日午後2時46分から始まった、生活の激変。
1か月ほど経過して、3月11日以前の日常に戻ろうと思っても、
生活の基盤が変わらざるを得ない変化の中では、表面は戻っても、戻すに戻せない部分の積み重ね。それが崩壊へと繋がっていった。
当事者以外の記憶は薄れ、忘れていくのはやむを得ないと思う。

福島原発で、高線量放射能で汚染されて、土地を奪われた住民は忘れてはいけない。
福島原子炉で生まれたエネルギーで潤った民は、福島原発で、豊かな生活を保障されていた民は、
生活を奪われ、土地を追われ、家族の離散にも追い込まれ、ほぼ永久に、死ぬまで戻れず、ほかの土地の住民として、生活し続けなければならなくなった、福島の住民を忘れていはいけない。忘れてはいけない。
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広島県府中町立中学3年の男子生徒(15)が自殺

2016-03-09 12:04:11 | 社会・経済
悲惨で、絶句しているが、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160309-00000026-mai-soci
教師の対応背景は、他にもありそうだと思ってしまう、私がいる。
教師の、絶対権限者としての横暴は、白血病治療後、学業復帰できなかった患者で経験したという事実から、
今回のでっち上げ”非行歴”により、学生を希望校に受験させないという決定を押し付け時の教師の態度も思い浮かぶ。
自殺学生は、希望校受験理不可理由は、担任教師により説明されても納得いかず、5回も申し出た果ての、
担任教師に対する絶望だけではなく、教育者全般に対する絶望感からの自殺だったのではないだろうか。
にせの”非行歴”をでっち上げた経緯は、詳細に詳細に明らかにされねばならないし、その責任は追及されねばならない。

不信、不審者に、大事な子を託せるはずはない!
絶望の中で死んだ子、日本の教育現場を担っている教師の人格、倫理観の低下割合は、予想以上に多く、しかもその質の低下内容は深刻に違いなさそう。
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チェルノブイリの祈り;スベトラーナ・アレクシエービッチ2015年ノーベル文学賞受賞者著作

2016-03-06 10:51:49 | 日記・エッセイ・コラム
3月1日待ち合わせには間があり、立ち寄った本屋で購入。

何も知らされず、事故処理作業に当たった消防署員の肉体の変化は、
素人の家族が、死に至るまでの肉体の変化を直視し、ありのままに述べた状況の記述に、
過酷な、過酷なとしかいいようがない時間が日常だった。
この本の中で、”あなたの前にいるのは……高濃度に汚染された放射性物体なのですよ。”
”棺はポリ袋にくるまれ、  亜鉛の棺に納め、ハンダ付けをし、上にコンンクリート板のせられます”
”遺体はお渡しできない。国家のものである”
その後は、過酷な現実がもたらした生活の変化が日常となり迫ってきているのだなと、

放射能被ばく患者治療に直接携わった経験はないが、
膨大なエネルギーを浴びた後の肉体変化は、細胞分裂が活発な臓器から障害が起き、生体変化なども、知識として、医療現場では経験していたので、健康体からの日々変化する乖離をリュードミラ・イグナチェンコは愛する人の傍らでという強い心ゆえに見つめ続けられた。
多くの家族は、離され、”死”のみの告知をやむを得ず受け入れさせられた。

サマショールは、退去を迫られても、出ていかなかった。私とネコだけといって住んでいる。
”私の悲しみがわかってもらえてくれただろうかね?”
原発事故で、放射能のために、故郷には永遠に戻れない人たちの現在の環境、心


2011年3月11日の東日本大震災、福島原発事故と重ね合う。
直後の、状況を知らされず(知らせる余裕もないパニック状態であったかもしれないが)、
避難の強制的呼びかけは、共通。
放射能は目に見えない。人がいない、美しい自然が残る7万院の住民の強制退去地に、野生動物があふれているという。
被ばく動物は、拡散するだろう。

1999年 本橋成一監督による”ナージャの村”に自主上映に携わったことがあった。
放射能は、見えず、感じずなので、その後のベラルーシでの、美しいありふれた日常が映像にあふれていた。
でも、被爆している。そこにいるということの影響は、健康障害。いろいろなレベルの健康被害。、
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