6月4日に、東北大学旧第3内科の同窓会”尚仁会”が開かれます。
今年も、同窓会部の医局員の努力で、尚仁会前に、年1回、発刊される会誌が届きました。
昨年逝去された4名の先生を偲んでの寄稿が掲載されています。
”正宗研先生を偲んで”
”宇留賀一夫先生を偲んで”
”高橋恒男”先生を偲んで”
私、齋藤は”宇塚先生と過ごした日”というタイトルで、毛色の異なる文章でした。ほかの3人の先生は、大きなグループに所属され、人となりも知られていることでしょうが、血液グループは、仕事は日本、世界から評価されておりましたが、医局内では、小グループでもあり、手のかかる疾患を対象としていたこともあり、排除対象となる患者を守るために、常に戦闘態勢で在局しておりましたので、先生の人となりを知ってもらいたいという思いもあり、寄稿しました。
宇塚先生と過ごした日
初期研修医時代に、10代の白血病患者を担当しました。治療は?と思いましたが、専門の先生はいらっしゃらず、日本語の医学雑誌の特集後を捜し出し、そこで宇塚善郎名の文献を多数の本で見つけ出しました。第3内科のSGTで熱心に指導担当していただいた先生が高名な先生だったという驚きと、学生時代から発病し悪化していた全身の障害を考慮して、検査がほとんどないと考えて、大学で血液疾患を専攻しようと連絡を取り快く受け入れていただきました。このとき血液グループは、先生一人でしたが、先生が提案したプロトコールが、日本初の集学的研究に取り上げられていて、総会では、多くの先生に、追っかけられ、質問攻めになっていました。DCMP2段療法と称され、日本中を席巻しました。
医者の初期研修医時代の“本態性血小板血症の1例”を内科学会東京地方会での発表に際しての指導半年後の、入局第一日目は、血液外来の日で、診察中の先生が顔を向けて、開口一番、「君、マルクできる?」と言われたので、何度かはやったことがありますと応えたところ、「やってくれる」といわれ、検査補助員泉さんと、看護師に付き添われ、16名の患者の骨髄穿刺をしました。あわただしい、余裕のない毎日の始まりでした。
「度胸あるね。梁先生よりずっとはやい。おかげで、外来はいつもより早く終わった」と、外来後は、「骨髄有核細胞のカウント、塗抹標本の染色を覚えてね」、で宇塚先生は忽然と姿を消されました。医局の血液グループブースで、泉さんから教えてもらいながら、網状赤血球、メランジュールのカウント、骨髄像、血液像、血小板の塗抹標本染色と、緊張の連続で過ぎました。当時の私の体調は、大きな声で激痛が走る、持続性の微熱がある状態だったのですが、入院患者の状態は、激変し、朝には和やかに言葉を交わし、夕には冷たい躯となることが珍しくなかったのですが、重症、重篤な患者と共に必死でした。
骨髄穿刺後、宇塚先生は素早くいなくなり、しばらくすると戻っていらっしゃるのですが、特に外来で多くの患者が待っているときなどは、このまま戻られなかったらどうしようと忽然と姿を消したわけがわからず手持ち無沙汰で過ごすことが何度も繰り返された後のある日、“現像するから”と声を掛けられて、中央廊下から引っ込んだ放射線取扱室にある暗室で、トリチウムチミジンを取り込んだ骨髄細胞標本に乳剤皮膜を作り、乾燥させる作業にいそしみました。暗室での宇塚先生の作業はすばやく、秒単位の時間計測の正確な呼称に驚きました。先生の手が、黒く、中央廊下から忽然と姿が見えなくなる理由も判明しすっきりしました。親しく声をかけることが出来なかったころの思い出です。
寛解導入治療開始から2か月ほど経ると、染め上がりを待った骨髄像を顕鏡して“完全寛解”と言われたときは、ほっとし、次は治癒をめざせる嬉しさ、再発し、治療しても治療しても白血病細胞が立ち上がり、次の一手をあきらめず模索していた先生が“もうだめだ!”と、発せられたときのつらい悲しさ。
白血病の治癒を目指すために、トリチウムチミジンによるDNAアッセイに加え、幹細胞培養も研究の一手法としたので、入局2年目の1978年パリの国際学会では、“白血病幹細胞の動態”の演題は、瞬時に情報がつながるインターネット社会の今とは異なり、発表形式は、口演なのか、ポスターなのかの連絡は、パリに旅立つ1週間前で、シンポジウムでした。未経験の私は、暢気なものでしたが、宇塚先生の気のもみかた、意気込みはひとかたならず、美しいスライド作成のための写植、培養細胞のカラー撮影、現像、マウント、紛失時に備えての予備スライドをどのように携行するかとか、発表時にもスライド送りの指示も大変でした(現行のPCパワーポイントがスライドであると認識するのに戸惑った世代の懐旧です)。世界でも端緒についたばかりの幹細胞の成績でしたので、議論噴出、質問に対してわが意を得たりと米国のSpizer博士が、援護討論をかってでてきたりでへとへとになり、特に宇塚先生は疲労困憊し会場を早々に引き上げたのでした。その翌日に学会側から、“奨励賞を受け取りに来られたし”というメッセージをボードに見つけ、またまたびっくり。当時1ドル320円で、副賞金は20万円相当でした。
恰幅の良い先生は、日本人の金持ちに一致したイメージなのか、外貨持ち出し制限時代には、“所持金は?”と質問されたり、アメリカの1流ホテルで華やかな美女に部屋まで尾行された話で高橋晴彦先生にうらやましがられたり、クスコでは低酸素による頭痛で “頭だけが取り柄なのに壊れたらどうしよう!”と身動き取れなくなった先生を、“マチュピチュは、標高が下がるから楽になる”と説得して無理やりやっとつれだし、到着後は、食欲も回復し、後々も“伊藤先生の酸素吸入量が並はずれていたからだ”など後々思い出しては、吹き出すようなことが満載の海外学会参加でした。
入院直後の白血病幹細胞が満ち溢れている骨髄血から正常幹細胞を分離し、増殖させ再発後に、自家骨髄移植を行うというプロジェクトは特に大変でした。細胞表面のCDなどまだまだ判明していない時代でしたし、無菌的な操作が求められるので、アルブミンでグラディエントを作成するのですが、準備終了までにまる2日は不眠不休の操作が要求されるので、睡魔に勝つのは容易ではなく、時間が経過するにつれ宇塚先生の粘り強い底力が発揮されましたが、眠れないという苦痛は宇塚先生も同じだったようで、操作を1秒ずつ短縮する手順、器具など改良に改良を重ね20時間弱まで短縮しました。幹細胞は分離でき、培養成果もそれなりでしたが自家移植を目指した幹細胞の増殖には至りませんでした。その手法は治療成績などに結実し、日本学術協議会からの海外派遣要請で参加した学会では、飛行機のチケットがファーストクラスでした。座席の広さ、食事はコース料理並みで、デザートにはアイスクリーム、アテンダントの数の多さとサービスに違いに驚き、さらにはBritish Airwaysでは、テロ対策強化の現在とは違い、希望があればキャビン内への入室も許されたので、一部の隙も無く計器類で埋め尽くされているのにこれまた驚きました。国際学会参加は、高い評価が得られストレスから解放される楽しい旅でした。学生時代に発病した膠原病で常時微熱など不調であったため、国際学会中の、観光旅行は、具合が悪くなるからといつも制限がかかるのでしたが、見知らぬ土地での観光は、発表後は何としても敢行したくて、早朝抜け駆けを目指して1階に降りると、すでに宇塚先生が待機していて、観光したいという不満顔にやむを得ずという折衷案での観光で、学会参加の最短コース期日の参加でしたので、あの地かの地も学会で行っているのに、訪問していないことに気づき、残念至極です。
大学退官後、患者の強い希望で1991年開院した仙台血液疾患センターでも、先生のもとで診療、研究を続けてきました。学生時代はクラシック鑑賞サークルに所属していた名残で、院内には、特に好きであったベートーベンの交響曲“田園”第6番を流していました。それ以上に好きだったのは、読書で、院長室の片隅に私の机が準備されたので、終日同席している機会には、大化の改新前後の貴人の恋模様について、また、関連した和歌、歴史的出来事そして、神武、綏靖に始まる皇紀すべてをそらんじていることの自慢、旧制四高の先輩井上靖の額田女王、私が愛読する辻邦夫が書いた西行花伝、愛読書のアランの幸福論から天秤の話を出して鈴木仁一先生の話の腰を折ってむっとさせたとか、小松真理先生が、病棟エレベータ前で転倒しても、マッペは水平を保ち、骨髄標本が破損しなかったときには、ただちに“小口小平は死んでもラッパを離しません”の、仙台血液疾患センターで心筋症の予防的検査法の開発に携わっていた職員は、大阪夏の陣の豊臣方の憧れのヒーロー薄田隼人の末裔であることを知っていて、結婚式の主賓祝辞で触れ、彼女の株を一挙に上昇させたりと、話のソースが豊富でした。少年時代のワクワク感を生涯持ち続け、いろいろな諺たとえなどを持ちだされたので、話は尽きませんでした。
労災病院で血液外来を担当していたので、山形敞一先生の、骨髄穿刺を施行させていただき、その骨髄像に愕然として先生に伝えたところ、遅筆で多くの方面を悩ましてきたのとは異なり、直ちに山形先生との医局入局からの思い出を文章につづられ、お見舞いに行かれました。亡くなられる前日で、枕もとで読まれ、さらには夜になり、“宇塚君の文章を”と再度、奥様に所望され、“幸せだったな”と話されたということを、弔問のために沖縄から来仙された与那原先生とともにご自宅にお伺いした折に話していただいたので、先生から“山形先生に孝行できた”と感謝されました。その縁で、山形先生ゆかりの、高村幸太郎の手紙とか遺品が私、齋藤の手元にあります。
仙台血液疾患センターは、後継者確保が難渋し、大学病院に血液専門内科が設けられたり、高齢化による競争力の低下も伴い2012年11月に病床閉鎖、2013年3月に閉院となりました。そのあとの葵会富田病院での血液外来の継続では、視力の減退著しいなか齋藤同伴で診療を継続され、謎解きが必要な呼びかけで患者をちゃかしたりひっかけたりしながらユーモアに富んだ話を交えながら患者に話しかけ、再来患者はまず握手で状態把握に努められ、高齢医師としての診療の在り方を問い続けながら診療をされていました。新患には、第3内科のポリクリ指導医時代と同じように診察をされて、“これほど丁寧に診察されたことは初めてです”と驚き、感謝されていました。
宇塚先生は、死亡宣告後も、助けてくださいと請われた入局間もないころのお豆腐屋さんの家族の思いを受け止めて、真摯に治してあげたいと視力を奪われながらも、一切不平をいわず、ひたすら研究、海外文献を渉猟し、世界の先を行く治療を目指し続けました。
2004年11月の脳幹部梗塞は1が月後には、運動障害、視力のさらなる低下はあるものの、記憶、思考、判断力は支障なしでしたので1か月後には仕事に復帰されましたが、2015年2月の左下肢麻痺の出現で、広南病院を受診した時には、脳梗塞の再発、脳腫瘍と診断され院長室での起居生活となり、長女の千里さんと私が交代で、健啖家の先生の味覚を満足させるために仙台牛、ウナギ、千枚漬け、アイスクリームなどの買い出しにいそしみましたが、毎日のことなので、近所で調達した物で済ますと味が落ちるためか、“わずかしか口にせず“もう結構です”と、まずいとか非難がましい不平はいわず、美味しいときは“美味しいね”と食が進み、先生を支えながら楽しい時間を過ごさせていただきました。
幼いながら第21代目当主として、お父君の勤務での不在の長い期間を祖母、下男、下女と過ごさなければならなかった寂しさのゆえか、一人でいるのがことのほか嫌いだった先生は、家族、大事にしていたお気に入りの長く勤務している女性職員にも見守られながら5月23日夕刻、旅立ちました。
栃木県の生家の裏山の歴代当主の墓石が並ぶⓂ墓地に、新しい墓碑の下に眠りにつかれています。
齋藤淑子