すずしろ日誌

介護をテーマにした詩集(じいとんばあ)と、天然な母を題材にしたエッセイ(うちのキヨちゃん)です。ひとりごとも・・・。

家計簿ソフト買いました

2008-10-31 22:23:25 | ひとりごと
 今まで、一応自分の収支は小遣い帳に付けていたが、さすがに大蔵省の父が他界したので、家計簿を付けることにした。しかし、今までつけたことがないのでどうしていいのか分からない。そこで簡単そうなソフトを購入した。
 これで、今まで出納帳に付けていた手書きが入力で済むし、書き損じてもすぐ直せる。しかも計算が機械任せ(うふうふ)。今までより格段に簡単になるはずだ。
 ただ・・・。今までは赤字とか全然関係なかったのだが、これからはそうはいかない。予算をたててやっていかなければならない。大丈夫だろうか・・・。
 とにかく年内はもちろん三回忌まではお金も動くだろう。「もったいない党」党首キヨちゃんとケチケチライフのスタートである。

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入浴介助中の事故死?虐待?無知?

2008-10-30 21:37:29 | ひとりごと
 介護施設で入浴介助中にやけどによる死者が出たとニュースで知った。何でも温度設定が60度だったという。
 ニュースのニュアンスからは
 「湯が60度だったから」
が取りざたされて、いかにもそれが原因のように聞こえた。しかし、果たしてそうだろうか?
 介護に携わる者でなくても、当然違和感を感じたはずだ。お湯の温度が何度だろうが、そんな事故は起こるはずがないのである。普通の感覚なら。
 人を入浴させるだけでなく、自分が湯に入ることを考えてみても、湯を混ぜもせずかけ湯もせずに入ることはない。大体適正温度なんて人によって個人差があるし、身体が冷えているかどうかにもよる。それなら当然熱すぎることは分かっていたはずである。分かっていて浸けたのなら虐待である。もし、分かっていなかったとしたら、常識がないにもほどがある。
 かく言う私の施設でも温度設定が高いところがある。何故ならその浴室だけは溜め湯だからである。水とうまく合わせて温度調節をしなければならないからだ。仮にこんな事故が起こったら
 「何故こんな温度に!」
と言うことになるのだろうか。論点がずれている気がする。
 シャワーなどは、急に熱くなったり冷えたりすることがあるので、ずいぶん気を遣う。熱くてやけどをするような温度は普通はありえないが、冷水でも出たら心臓マヒを起こしかねない。
 爽快な気分になるはずだった入浴中に、やけどなどという痛ましい死に方をなさった方の事を思うとやりきれない。ご冥福をお祈りすると共に、徹底した調査と責任の追及、そして再発防止を祈りたい。

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茶碗の行方?

2008-10-27 23:28:58 | ひとりごと
 父の葬儀の時、キヨちゃんの喪服のサイズが合わなかったりといったトラブルがあったことは書いた。経験してみると、伊丹監督が「お葬式」という映画を撮ろうと思った気持ちが何となく分かる。
 宗派にもよるもかも知れないが、私の方では亡くなると枕元に「枕飯」というものを供える。本人の使っていたお茶碗で米を計り、それだけ別に炊くのだ。旅立ちのための「お弁当」である。
 中央にお茶碗に山盛りのごはん。盆の四隅にまるまる団子状にしたおにぎり。旅立つときは袋に入れて持たせて上げるのだ。そして、使ったお茶碗はお別れに割ってしまうのだ。
 葬儀が終わってしばらくは、親類がいてくれたり出入りがあったりで気が付かなかったのだが、ふと日常生活に戻って私の茶碗が見あたらないことに気づいた。
 「なあ、私の茶碗知らん?」
私はキヨちゃんに聞いてみた。
 「ん?茶碗?」
 「うん。見あたらんのよ。」
 「ああ、茶碗なあ。父ちゃんのお別れに父ちゃんの茶碗が見つからなくて、割った。」
・・・・。え?私のちゃわんを?
 しかし、父の茶碗は枕飯に確かに使っていたのだ。しかも、洗って戻った形跡もない。つまり父の茶碗もないのだ。ということは、父のお弁当はおにぎりにせず、茶碗ごと持たせたか?
 それにしたって、ひどい話だ。茶碗なら客用だろうが、予備だろうがあるのだ。何も「生きてる」私の茶碗を割ることはないだろう。しかも、陶器市で買ったかなりお気に入りの茶碗だったのだ。
 「誰が・・・私の茶碗を?」
 「さあ?誰だろう?」
本気で首をかしげるキヨちゃんであるが、どうも私にはキヨちゃんの犯人説が有力である。うっかり、やりかねない。
 昨日私は茶碗を新調した。ただし138円の安物にしてみた・・・。痛い・・・。


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さみしいキヨちゃんとイライラすずしろ

2008-10-25 22:33:11 | ひとりごと
 仕事をしばらく休んでいたので、仕事が溜まっている。ついでに月末で、研修もある。休みには父のことで役場や銀行に走る。だから、何だか忙しい。
 出来るだけ残業はしたくないが、どうしたって追いつかないこともある。今日も定時で帰るつもりが、なかなか終わらず1時間残業した。セールスレディをしていた頃を思えば、そんなの残業のうちに入らない。季節柄くらいが6時半は夕方である。
 月末の忙しさは伝えてあったが、二日続けて残業したら不安定なキヨちゃんの怒号が待っていた。
 「遅いわえ!二た七日も終わってないのに、お前の会社は誰も気を遣わないのか!」
無茶苦茶な言い分である。特休を過ぎても休ませてもらったのに。だいたい夜中まで残業したわけでもないし、私自身の段取りだ。
 キヨちゃんは寂しいのだ。そうとは分かっていても、我慢がならなかった。
 「遊んで遅いわけじゃないよ。仕事やろ。誰が好きこのんで残業するんよ。」
言い返したら、私の中で何かが切れた・・・。
 キヨちゃんはいい。父を懐かしんで、悲しんで、遺影の前で毎日さめざめと泣いていればいい。そんなキヨちゃんを守るのは、私の役目だと私自身思っているし、回りも「すずがいるから安心」と太鼓判を押す。我慢しているわけでもない。現実が私の前にあるから、てきぱきと片づけていく。
 だけど・・・。
 気づきたくなかった。私だって心細い。両足で大地を掴んで立つことに慣れていたから、踏ん張ることも苦じゃなかった。でも、力を抜いたら私だって倒れる。
 父は安心してるから夢にも出ないと人は言う。そうであって欲しいと思うけれど、父をちゃんと旅立たせてあげたいと思うけど、夢枕にたって頭を撫でた祖父のことが懐かしい。
 父ちゃん。がんばれるかな・・・私。

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仕事復帰

2008-10-23 22:53:31 | ひとりごと
 今日から仕事に復帰した。覚悟はしていたがやはり仕事がたまっている。しかも休んでいる1週間ほどの間に、担当している方が二人も入院していた。
 デイサービスに来ている人の中には、新聞で訃報を知った人もあり、お悔やみを言ってくださった。またケアハウスに入居している父の同級生も、事務所を訪ねてくださった。
 「きよっさん・・・死んだってほんまかえ。・・・また、同級生が減ったなあ・・・。気を落とさんようにな。」
そう言って去っていくおじいちゃんのほうが、さみしそうで複雑そうである。
 仕事はたくさんあるが、出来るだけ早く終えて家路についた。今日からは私がお念仏を唱えなくてはならない。覚えているところも、そうでない所も、全く知らないところもある。教本を見ても付いていけないくだりもあるのだ。
 ところがありがたいことに、夜叔父が心配してお先立ちに来てくれた。四十九日までには自分で読めるようになるかな?父は上手かったなあ・・・と思う。キヨちゃんとがたがたのお経になったら、笑われるかな?

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初七日法要

2008-10-21 23:30:23 | ひとりごと
 本日初七日法要を無事終えた。キヨちゃんの姉と甥っ子が泊まってくれているので、寂しくないし心強い。忙しく大変な作業も、一人ではないので安心だった。もっとも、まだまだ作業は続くのだが・・・。
 葬儀という、ほとんど人生で出会う確率の少ない事を経験して、色々思うことがあった。
 まず、喪服。私の場合20年前に作り、幸せなことに一度も着たことがなかった。キヨちゃんは50年前の喪服で、祖父母を送ってからは着ていない。そのせいで大変なことになっていた。私の喪服は黴びており、キヨちゃんの喪服はサイズが合わなくなっていたのだ。急いで着付け教室の先生に電話。カビはスポンジで軽く払うという応急処置をした。キヨちゃんは腰が曲がって背が縮んで、帯が足りなかったのだが無理矢理着付けた。出来れば袖を通したくないものだが、季節ごとにチェクが必要だった。
 次は現金。死亡すると父の口座はすぐに凍結されてしまう。葬儀などの支払いは後日だが、お布施や戒名料、通夜その他の買い物ととにかく現金が必要である。特にお布施や戒名料は当日必要だし、金額も張る。
 次は香典。これは受付の人たちがかなりきちんとしてくれていて、香典袋と記帳簿のナンバーを合わせていたので、後の整理は楽だった。しかし、封筒に書かれた金額と中身が違う方がいた。本人の書き間違いか入れ忘れか・・・。確かめようもないが、ご本人は誤差があることは知らないわけで、頭の痛い問題である。
 そして毎日来る「おくやみ??」
 「この度はご愁傷様です。お墓のご予定はありませんか。」
 「この度はお悔やみ申し上げます。香典返しは私どもで・・・。」
何社ものパンフレットが届けられた。探す手間はなくて有り難い話ではあるが、あまり気分のいい物ではない。キヨちゃんと
 「最後まで言うてこなんだ店にしよな。」
と話している。
 まだまだ、たくさんの煩雑な作業が残っている。市役所や銀行などに何度通うことになるか。こういうとき父がいたら聞けるのに・・・とあり得ないことをふっと考えている。
 初七日。父はまだ私たちを心配顔で見ているだろうか。笑っているだろうか。

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皆様に、感謝の気持ちを込めて・・・

2008-10-18 22:59:08 | ひとりごと
 15日、親友ナースは私の代わりに父を見舞ってくれていた。いつもなら、そのまま帰るのにその日は何となく私が病院に着くまで待った方がいい気がしたらしい。夕方血糖値が低いことに気づき、対処の遅いその日のナースに代わってあれこれ世話をしてくれた。私が到着して、夕飯を介助した。相変わらず食欲はなかったが、それでも頑張って食べてくれた。
 1回目の透析を済ませるのを見届けてから、ナースとふたりして病院を出た。16日17日が休みなので、翌日早くから私が詰める予定だった。
 「父ちゃん、ほな帰るわな。また、明日。」
 「おお。気を付けて帰れよ。車飛ばすなよ。」
・・・これが、父との最後の会話になった。
 病院を出て間もなく、父は嘔吐し始めたらしい。急激なレベルダウン。私が家に着くと同時くらいに携帯が鳴った。病院までの30分、これほど道のりを遠く感じたことはなかった。車の中で号泣しながら
 「神様、まだ足りませんか!まだ我慢が足りませんか!まだ不足ですか!」
と悪態を付いた。
 病院に着くと、父は既に下顎呼吸になっていた。酸素は15リットル。手足を出来る限りさすった。ごめんね、ごめんね、これ以上がんばれって言いたくないけど、もう少しだけがんばって。泣きながらそればかり祈っていた。そして、義理堅い父は、親戚の到着を待ちわびたように、21時21分息を引き取った。
 葬儀の日までは、とにかくしなければならないことが多くて、悲しむ暇がなくありがたかった。けれど通夜に来てくれる人の中に、友人の顔を見たときだけは我慢が出来なかった。
 父は家に着いた時から安らかな顔をしていたが、通夜の日、葬儀の日とどんどん柔らかな顔になっていって不思議だった。もちろん納棺師の硬直してしまった身体を丁寧にほぐして、和服を着せてくれた技術や死に化粧もあったろうが、そうとばかりはいえない説明のつかない変化だった。
 キヨちゃんは、危ういくらいにハイテンションでなすべきことをこなしていた。けれど、葬儀の日17日は糸が切れてしまった。葬儀場まではしっかりしていたが、葬儀の最中に
 「父ちゃんどこにおるん。」
とつぶやいたり、焼香からは一人で立っていることが出来なくなった。
 田舎では葬儀の後、火葬場には配偶者は行かない。近所の人と家に残って作業をすることで、火葬という悲しい場面には立ち会わない習わしだ。しかし、今回は葬儀場で行ったので、ひとり葬儀場に残すのも不憫で火葬場に連れていった。そのことで、キヨちゃんはひどく取り乱したが、それでも骨を拾うときにはしっかりとしていた。受け止めることが出来たのだと思う。
 これからまだ、片づける問題がたくさんある。悲しみは後から追いかけてくるのかもしれない。でも、今は私も大丈夫。
 皆様に本当に感謝している。いつでも傍にいて、父の二人目の娘役をしてくれた親友ナース。公私ともに勇気づけてくれた、会社の友人。父のためにあらゆる可能性を探ってくれた担当ケアマネ。お風呂に入れてくれた訪問入浴スタッフ。献身的だったヘルパースタッフ。無理難題をいう私に根気よくつきあってくれた主治医。いつでも駆けつけてくれた親戚。電話で私よりも大泣きした友人。遠くから来てくれた友人。定年して何年にもなるのに、葬儀に来てくれた父の会社の人々。父のために折り鶴を送ってくれた涼々さん。鶴はお棺にいれました。音楽を送ってくれたTさん。書くことを勧めてくれた千葉男さん。書くことで私は救われました。疎遠だったのに、応援してくれて葬儀にも来てくれた祥ちゃんさん。作品を送ってくれて勇気づけてくれたremiさん。そして、ブログを通して応援してくれた、ふくださん、マギーさん、yoshiさん、macotchaさん、ronraraashさん、まいどさん、たぬっぺさん、yumibooさん、ちびさん、かぶらさん。まだまだ、たくさんの方々・・・。本当にありがとうございました。
 父はきっとしあわせだったと思います。介護に満足することはないと感じ、もっとしてあげたいこともありました。後悔していることもたくさんあります。でも、たくさんの人に支えられて、父はしあわせだったと思います。心残りは最後の会話が「またね」だったこと。伝えたい言葉、聞きたかった言葉。伝えることも聞くことも叶わなかったけど、私の心が今穏やかであることが、答えなのかも知れない。
 本当に皆様、長らく応援ありがとうございました。次の書き込みからは元気なキヨちゃんと私の報告が出来ると思います。
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何だか、色々ありました。

2008-10-13 21:26:25 | ひとりごと
 12日、徳島市内で研修。講師の気遣いで休み時間をカットして、全体の終了時間を30分早めてくれたので、予定外に早く戻れた。本当は病院に寄ってから帰宅し、13日の早朝からキヨちゃんと交替するつもりだった。しかし、早かったので詰めているキヨちゃんを拾って自宅に届け、その足で私が泊まった。
 親戚の人は時々見舞ってくれたが、実際の所は説明していなかったので、キヨちゃんから近い親戚だけ状況を説明しておいてもらうことにした。父に説明したのと同じで、病名がどうということではないが、体力が落ちていて感染症を起こしてるので、医師としては厳しい意見を言われていること。
 ところがである。キヨちゃんの説明が悪かったのか、受け取ったおばちゃん達が焦ったのか、その夜親類が団体様で見舞いに来た。たまたま父は昨夜体調が悪く、うつうつと眠っていた。眠いのかレベルが落ちているのか、判断しにくい感じで、叔父が
 「いつから、こんなんぞ?」
と聞いた。
 「いや、いつからもなにも、夕飯までは普通に話しよったけん。」
 本当なら父を起こすのだが、調子が悪いのとぐるりと親戚が夜に集まっていると
 「わし、死ぬの?」
と思い込みそうで怖かったので、あえて起こさなかった。
 叔父達が帰ってから、どうやら酸素だろうということになり酸素をぐんと上げて貰った。正直普段1リットルが5リットルまで上げないと血中酸素が足りないと分かったときは、ちょっとキヨちゃんを呼び戻すべきか悩んだ。しかし、しばらくすると本人がしっかりしてきて、バイタルを自分でチェックして
 「血圧も、酸素もあるでないか。」
何をおおげさに機械や酸素マスクやしてるのだ・・・と訴えた。さすがに酸素は下げられなかったが、マスクではなくチューブで対応した。少し不安だったので、夕べは椅子に座ってほとんど寝ずに様子を見た。
 朝には酸素を3リットルまで戻しても大丈夫だった。食欲は相変わらずないが、夕べの様子からするとかなりよかった。慌ててキヨちゃんに電話。どうも大きく話がなってるようなので、今朝は普通に起きて話していると電話して貰った。
 午前中に甥っ子の嫁が見舞ってくれ、続いて甥っ子のJが来た。
 「母ちゃんら、何か凄いこと言い寄ったし、ほんでもすず姉ちゃんからの電話でないし、おばちゃん(キヨちゃん)なら、ほんまのところ怪しいと思うて夕べは遠慮した。」
と話した。おお、若者は流石に聡い。しかし、そう思って昨日の父の状態を見たので、親戚では「昏睡状態」ということになっているらしいと言った。
 「誤解するのも無理はないけど、父が昏睡状態ならキヨちゃんもわんく(自宅)では寝んやろ。」
そう言うと、甥っ子もそりゃそうだと笑った。
 昼間には関東に仕事に出ていて滅多に戻らない従兄弟達が、たまたま連休で帰っていたので見舞いに来てくれた。わざとらしいかな・・・と思いつつ
 「世間は3連休じゃって。」
 「遠いけんな、今日もう行くけん。おじき入院しとるって聞いて。」
などとフォローした。しかし、以外にも父は落ち着いて心底嬉しそうに面会した。
 そして夕方、キヨちゃんが時間になっても来ないので心配しているとばたばたとやって来た。
 「母ちゃん、バスに置いて行かれた。」
キヨちゃんの話では、バス停で待っていてバスが来たので手を挙げて見たが止まらない。追いかけてみたがそのまま走り去ったらしい。実はキヨちゃん、バスに見落とされたのは2度目である。田舎のバス停。ほとんど乗る人がいないので、いないのが当たり前という先入観がある。しかも夕暮れ時、薄暗がりの小さなキヨちゃんは見えなかったのかもしれない。しかし、時間が時間なのでどうすることも出来ない。バスはもうないし、タクシー拾えるほど町中ではない。そうしているとバス停の近所の若者が声をかけてくれ、おそらく時間的に仕事から戻ったところだろうに、キヨちゃんを病院まで送り届けてくれたのだ。全く、ありがたい話である。
 そして、父は夕飯は僅かだがお粥を4割、おかずを3割食べた。甥っ子達の励ましが効いたかな。
 さて、洗濯もう出来たかな。干したら、寝るぞ!!!

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明日も研修・・・の前に

2008-10-11 21:37:35 | ひとりごと
 明日は研修。朝が早いので仕事を終えて病院へ行ったが、あまり長居はしなかった。病院から持ち帰った洗濯物を消毒して、シャワー浴びてようやく夕飯。
 病院では父が相変わらずの様子だったが、ふと
 「医者は何も言わんか?父ちゃんの病気のこと。」
と聞いた。
 「うん・・・。感染症の2回目の検査結果はまだ聞いてない。肺の状態は思ったよりは悪くないらしい。心不全の数値も前は500・・・1000・・・って上がってたけど、今は悪いことは悪いけど300くらいらしい。ただ、お父さんご飯食べれんし、感染症も患ったけん、全体的な体力がおちとるん。体力がつかないと先には進めないらしいよ。」
そう答えた。
 嘘はついていない。わざわざ
 「いつどうなってもおかしくない。覚悟して。」
なんて説明する必要はない。第一、そんなの分からないのだし。
 今日も例の傍若無人なドクターがキヨちゃんを呼び出し
 「主治医からも聞いたかもしれないが、全く良くなっていない。覚悟はしておいて。」
と念押ししたらしい。
 どこまで無礼で、自分勝手な医師だろう。主治医からきちんと家族に話があったのに、なぜだめ押しの告知が必要なのだ。絶対絶対あの医師だけは信用しない。

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眠れぬ夜

2008-10-09 20:51:02 | ひとりごと
 昨日は私が泊まりの日だった。実に7月から美容院へ行ってなかったので、どうしてもカットしたくてキヨちゃんに昼前まで、がんばってもらった。
 食事がほとんど摂れてないせいもって、父は5日も排便がなかったので浣腸をしてもらった。オムツに排便がどうしても出来ず、久しぶりにナースと二人でポータブルトイレに座らせたが、足は全く効かなかった。右足は甲から浮腫がひどく、左足に到っては太股まで腫れている。
 食事は相変わらずだったが、エンシュアを少し飲めた。日中は気分も良さそうで、清拭と更衣を頼んだ。
 午後ドクターから話があった。全身状態が悪い。いつ何があってもおかしくない。休日は急変しても間に合わないかも知れない。主治医以外の看取りもあり得る。もしくは急変したら、間に合わず死後の確認になるかもしれない。心臓の状態から眠ったまま朝目覚めないこともあり得る。そんな話がつらつらと続いた。
 動揺はしなかった。かすかに笑顔すら浮かべて返事をしていた。キヨちゃんにも電話を入れる。出来るだけ交替の隙間をなくして、そばにいようと。キヨちゃんも取り乱したりせず、たんたんと受け止めた。まだ二人ともあきらめていない。
 しかし、夜父はかなり苦しんだ。顔色も悪く本当にこのまま逝ってしまうのではと心配したほどだった。血糖値でもない、酸素は多少少ないので上げて貰った。でも、血圧でも熱でもない。ニトロを貰おうか悩んだが、痰がきれてないからでは・・・とナースが吸入をしてくれた。その間、背中をさすったり足をもんだり。体位も変えた。ごくわずかだが痰がきれると、父はようやく眠った。
 不安なのか電気をつけたままにして欲しいと父がいうので、明るいままで横になった。父が眠ったのを見て私も眠ったが、嫌な夢を見ては目が覚めた。目覚めては父の胸がちゃんと上下しているか不安でならなかった。
 幸い朝には気分が良くなっていたので、5時には病院を出た。
 キヨちゃんと交替して、昼休みなどにも状態を聞いた。夜家に戻って、洗濯物を取り込んで乾燥機にかけていると、キヨちゃんが見舞客の名前を伝えてきた。みんなに御礼の電話を入れる。励まされたり、心配されたりしながら、まだ私は平気だった。
 しかし九州の叔母からの電話は堪えた。気がせいているから、早口で鹿児島弁で半分も話している言葉は分からない。でも、心配している、どんな状態か、すずは大丈夫か、キヨちゃんも大丈夫か、がんばれ、何もできなくてごめん・・・そんな内容であることは分かった。感情があふれて、泣いているのが分かった。いつでもキヨちゃんの姉妹は大笑いしたり大泣きしたり感情の豊かな人たちだ。
 電話を切るまで我慢するのが精一杯だった。電話を切ると様々な感情がこみ上げてきて涙があふれた。
 でも、負けない。絶対負けない。

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