すずしろ日誌

介護をテーマにした詩集(じいとんばあ)と、天然な母を題材にしたエッセイ(うちのキヨちゃん)です。ひとりごとも・・・。

こればかりは順番にとはいかないのだが・・・。

2024-03-11 22:22:37 | ひとりごと
 今朝新聞の訃報欄で、家族それぞれ世話になっている人のお母様の名前を見つける。流石にご自宅に確認するわけにもいかず、知人に電話して葬儀など確認してもらった。すると今日の10時だというので、大急ぎで支度して親戚の姉ちゃんも積んで葬儀に向かった。
 ここ最近、有名人で若い人の訃報が続いていて、まだどこか虚無感がある。今日の方は100歳近い方で、お話を伺うと直前のお食事もして、特に詰まったとか誤嚥したとかいう事もなく、そのまま旅立たれたそうだ。あまりに急でご家族はびっくりしただろうが、苦しまずに所謂「老衰」ならば、大往生と言えるだろう。
 自分が若い頃は葬儀の最中に自分ごととして感じることは無かったのだが、最近頓に色々思い描いてしまう私がいる。誰かが亡くなる・・・ということが、あくまでも「誰かが」であったのが、具体的に身内であったり、自分自身であったりを想像してしまう。
 別に身近に死を感じているわけでもないし、長生きするつもりでいるが、年を重ねてくるとどうも現実味を帯びてしまう。
 普通に考えれば、余程のことが無い限り、キヨちゃんを送りだすのは私で間違いない。ただ、くりりんと私については、どっちが先でも不思議はない。そして、もし順当に年齢順に逝くならば、私がくりりんを送るわけで、そこまでは何とかなるのだが、問題は私の番である。
 私たちには子供がいない。死んだ後のことまで心配しても仕方が無いと、キヨちゃんがあれこれ心配しているとそう思うのだが、それは
 「後は私に任せてよ。」
があるからであり、私の場合、誰かにそれを取り付けていないと、そういうことを誰かに丸投げするようになる。
 そう言えばこんなことがずいぶん昔にもあったなあ。飛行機事故があった時か災害の時か?いついきなりってことがあるかもしれないと、ノートに知らせておかなくてはならない事をまとめた時がある。
 ま、いきなりってことがあったのならどうしようもないが、ある程度の年齢が来たなら、所謂終活に向けて準備しなくてはならないのかな?
 格別財産があるとかそういう心配はないのだ。それよりもある程度年を取ったら断捨離しておかないと、後始末をする親戚とかが困るかなとか・・・。
 何だか、色々思ってしまう・・・。


*わけぎのぬたは春の味。

     

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コメント (2)
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