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みちのくの山野草

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恩師である関豊太郎の訪問を謝絶した賢治

2022-12-07 12:00:00 | 「賢治年譜」一から出直しを
《ルリソウ》(2021年5月15日撮影)

 さて、前回最後に私は、
    賢治の恩師のあの「訪問問合せ」を知ればなおさらに、である。
と述べたが、ここではそのことについて少しく説明してみたい。

 まず、『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版、昭和14年9月)に所収されている、賢治の恩師である関豊太郎の「宮澤賢治氏に対する追想」の中にこんなことが書かれている。 
 先生(私)が盛岡に居られた際、頻りに勸誘された石灰岩末を作製し賣出さうと思ふが、さうして良かろうかとの問い合わせに接した。私は私の宿望が遂げられることになるので、これほど嬉しいことはないから、遠慮なく着々實行されよと返事して置いた。そしてかゝる問合せは宮澤氏でこそするものであると、つくづく感じた。
…投稿者略…
 私は一昨年の晩秋に東北地方へ旅行した。花巻温泉から、宮澤氏の宅へ訪問したいが差支はないかと電話で問合せた處、健康が優れないから逢つて下さらない方が、といふ返事に接し足を運ぶのを止めたのである。…投稿者略…(昭和九年三月)
              〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)309p〉
 すると、前者の「問合せ」、つまり恩師関豊太郎が「かゝる問合せは宮澤氏でこそするものであると、つくづく感じた」というところの賢治からの「問合せ」については、この関の追想から逆に賢治の慇懃さが窺われる。
 そしてご承知のように、この引用の前半部分は、恩師の関豊太郎に当てた次の賢治書簡、
301 二月二十五日 関豊太郎あて 封書
永々ご無沙汰いたし居りました処、本年は寒さ殊の外厳しくしく悪性の感冒などもしきりでございましたが先生並びに皆様にはお障りございませんでせうか虔んでお伺ひ申しあげます。 扨紙面を以てまことに恐り入りますが、年来のご海容に甘えお指図を仰ぎたい一事は本県松川村東北砕石工場より私に同工場の仕事を嘱托したいと申して参りました儀でございます。同工場は大船渡松川駅の直前にありまして、すぐうしろの丘より石灰岩(酸化石灰五四%)を採取し職工十二人ばかりで搗粉石灰岩末及壁材料等を一日十噸位づつ作って居りまして、小岩井へは六七年前から年三百噸(三十車)づつ出し昨年は宮城県農会の推奨によって俄かに稲作等へも需要されるやうになったとのことでございます。就てこの際私に嘱托として製品の改善と調査、広告文の起草、照会の回答を仕事とし、場所はどこに居てもいいし給年六百円を岩末で払ふとのことでございます。それで右に応じてよろしうございませうか、農芸技術監査の立場よりご意見お漏し下さらば何とも幸甚に存じます。尚石灰岩末の効果は専ら粒子の大小にあると存じますが稲作などには幾ミリ或は幾センチ位の篩を用ひてよろしうございませうか、いづれにせよ夏までには参上拝眉いたしたく紙面を以って失礼の段は重々お赦しねがひ上げます。ご多用の場合かとも存じ同封葉書封入致し置きました。単に一方ご抹消下さる迄でもねがひあげます。まづは。
   昭和六年二月廿五日
             〈『新校本 宮沢賢治全集〈第15巻〉書簡本文篇』〉
に対応している。よって、賢治はかつての恩師であり当時農林省の西ヶ原農事試験場に移っていた関に対して、「右に応じてよろしうございませうか」と伺いを立て、東北採石工場の嘱託になることの許しを得ようとしていたことらも賢治の慇懃さがわかる。
 したがって、賢治は恩師関に敬意を払っていることが窺えるし、一方の関は、「小生の宿年の希望が実現しかゝったのを喜びます」という添え書をして「受諾すべし」と返事をしたと言われているから、関と賢治の師弟関係がどのようなものであったかということはこれらのことから容易に推し量れる。

 ちなみに、時代を遡って、盛岡高等農林時代の関教授と生徒賢治の関係を探ってみても師弟の信頼関係は厚く頗る良かったであろうことも知れる。それは、例えば『私の賢治散歩 上巻』(菊池忠二著)には、関教授の次のような賢治評が紹介されているからだ。
 この学生時代における賢治について、関教授は次のように回想しているが、さすがに賢治の資質の核心を突いている。
 「宮沢氏は大正四年盛岡高農へ入学し私に地質鉱業の授業を受けたのである。同氏の試験の答案の如きは頗る要領を得てをった。その後課外のレッスンとしてペッシル氏膠質化学の輪講を催したのであるが、宮沢氏は優れた解釈をなし一同を感服させたことが度々あった。これ等の事実は、私をして同氏が明晰な頭脳の持主であることを認めさせずには置かなかった。同氏は若き学生に似合わず几帳面であって、その点に於ても同級生の中で異彩を放ってゐた。……同氏は私の専門とする地質土性に趣味を持ち、幾回となく私と一緒に見学旅行した。その途中での雑話で、私は同氏が一種の哲人であることを知ったのである。」
 関教授は、このように学生時代の賢治について、「明噺な頭脳の持ち主」であり、「几帳面」で、「一種の哲人」であったと鋭く彼の特質を評価している。
              〈『私の賢治散歩 上巻』(菊池忠二著)45p~〉

 一方、先の引用の後半部分の「問合せ」、つまり「私は一昨年の晩秋に東北地方へ旅行した。花巻温泉から、宮澤氏の宅へ訪問したいが差支はないかと電話で問合せ」についてだが、まずこれは昭和何年のいつのことかといえば、〝(昭和九年三月)〟という記述に注意すれば、昭和7年の晩秋のこととなる。
 つまり、農林省に移って西ヶ原農事試験場で仕事をしていたかつての恩師関は、昭和7年の晩秋(ということは10月頃)にたまたま花巻温泉に来ていて、賢治の許を訪ねようとしていたことになる。ところが意外なことに、賢治に会おうとして「訪問問合せ」をした恩師関は賢治の「健康が優れないから」とい理由でやんわりと訪問を断られたということになろう。関と賢治の師弟関係は頗る良かったはずなのに、東京からはるばる岩手にやって来ていた恩師である関豊太郎のからの「訪問問合せ」を賢治は謝絶したことになる。

 するとますます疑問に思えてくるのは、『校本年譜』中の昭和8年9月20日についての次の記述だ
 夜七時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると、「そういう用ならばぜひあわなくては」といい、衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話しをていねいに聞いていた。かじんはみないらいらし、はやくきりあげればいいのにの焦ったがなかなか終わらず、政次郎は憤りの色をあらわし、イチははらはらして落ちつかなかった。話はおよそ一時間ばかりのことであった。
 当然、私はますますこの記述内容の信憑性が心許なくなってしまった。それはその頃は東京に住んでいたがたまたま花巻温泉にやって来ていた恩師からの「訪問問合せ」に対して、亡くなる約一年前(昭和7年の晩秋)の賢治は謝絶したのだが、一方のどこの人か家の者がわからぬ、それもこの時期にあまりあり得ない肥料の相談に来た人物に対しては、賢治終焉の前日に上掲のような常識的にはあり得ないと私には思えるような接し方を賢治はしていたことになるからだ。
 したがって、この 「昭和8年9月20日の面談」については、一度しっかりと検証せねばならないし、それができない限りは事実とは言えないとすべきだろう。そもそもこの『校本年譜』の記述の典拠は何かということを明らかにしていないのだから、なおさらにだ。

 畢竟するに、この『校本年譜』の記述内容はどうも事実だとは言い難い。もしこれが事実だとすれば、賢治は大変お世話になった恩師のことはけんもほろろに接遇(?)し、一方のどこの人か家の者にはわからなかった人に対してはあまりにも親切過ぎた、と皮肉られるのではないですかと、現「賢治年譜」は今そう詰られているのかもしれませんよと、失礼ながら私は申し上げたい。

 なお、私は関教授の人となりについてはあまり知らないが、巷間「直情径行」といわれていることがしばしばあるようだ。しかし、この追想等を読んでみると、それは少なくとも言い過ぎだろうと私は感じた。逆の言い方をすれば、もし仮に、恩師の関教授のことをそう揶揄するのであれば、いわばその弟子の賢治だってその傾向が否めないんじゃないですかと、ここ十数年程賢治に関わることを検証してきた私には思えてならない。どうも、奥の方々は賢治に対しては良心的に解釈しがちであり、そのあおりで、賢治以外の人は悪し様に言われがちではないでしょうか。もしそうであったならば、真実は見えてこないのではないですかと賢治は今私たちを諫めたいのではないだろうか。

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