《オオタカネバラ》(2022年7月14日撮影、岩手)
それにしても、私はこれまで「羅須地人協会時代」の賢治の稲作指導当を高く評価してきたのは何故だったのか。それは、巷間流布している「賢治年譜」や賢治像を素直に信じてきたからだ。そして私のかつての賢治像は、まさに谷川徹三が昭和19年9月20日に東京女子大で行った講演で、
賢治は大正十五年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農学校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊をしながら、附近を開墾して半農耕生活を始めたのでありますが、やがてその地方一帯の農家のために数箇所の肥料設計事務所を設け、無料で相談に応じ、手弁当で農村を廻っては、稲作の実地指導をしていたのであります。昭和二年六月までに肥料設計書の枚数は二千枚に達していたそうで、その後もときに断続はありましたけれども、死ぬまで引続いてやつていたのであります。しかもそういう指導に当っては、自らその田畑の土を取って舐め、時に肥料も舐めた。昭和三年肺炎で倒れたのも、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走したための風邪がもとだったのでありまして、その農民のための仕事を竟に死の床まで持ちこんだのであります。
〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局、昭和45年)16p~〉と聴衆に熱く語った、まるで農聖のようなこの賢治像だった。
しかしその実態は、ここ十数年間の私の検証結果等によれば、同時代の賢治は農民たちに対して幾何かの熱心な稲作指導を確かにしたがそれは教え子等の限定された、比較的裕福な農家に対してのものであり、しかも、それ程徹底していたものでもなければ継続的なものでもなかった。まして貧しい農民たちに対してのものではあり得なかった。
また、このことに関しては私がとやかく言うまでもなく、既に十数年以上も前(平成19年)に佐々木多喜雄氏が『北農』誌上で、6回に亘った論考『「宮沢賢治小私考―賢治「農聖伝説」考―』において徹底して検証しており、同氏は、
1926年(大15)4月に羅須地人協会発足以来、農閑期に賢治の専門分野の土壌・肥料関係を中心とした農業講座…(投稿者略)…。しかし、集まった人と言えば、主に農学校の教え子と近村の篤農家と言われる一部農民で、地域的には極く限られた人々のみであった。地域の生産協同体から程遠い内容のもので、周りからは趣味同好会と見られたのも当然であった。
〈『北農 第75巻第2号』(北農会2008.4)76p~〉と評していた。あるいは、賢治には、
農民へのそして農民からの汎い愛もなく、それ故に、農民の心の深奥に入って行けず、農村そのものにも深く入り込めず、賢治は農村・農民指導者たりえなかったと判断される。
〈『北農 第75巻第4号』(北農会2008.10)73p〉と論じていた。私の抱いていたかつての賢治像であったならば猛反発したであろうが、ここ十数年間の私の検証作業を通じて、佐々木氏のこの言説は肯うことがあっても反論できないことを私は知っている。
さらに同氏は、同論考の最後の方で、
賢治の「農聖」の呼称は全く根拠のない賢治の伝説化、神格化、神話化の一環からくる結果としての「農聖伝説」であって、賢治は「農聖」とは言えないと結論される。
〈『北農 第76巻第1号』(北農会2009.1)101p〉と断定していた。
私は佐々木氏のこの一連の論陣に圧倒され、『鋭い!』と思ったものだ。同氏の論考は、徹底的に先行研究や資料等を調べ尽くした上での、しかも元北海道立上川農業試験場長でもあるが故に農業の専門家だから、専門的見地から論じているので、その説得力は圧倒的だった。まして、このようなことを冷静かつ客観的に論じた農業の専門家はかつていなかったはずだからなおさらにである。
したがって、吉本隆明がある座談会で、
日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、彼の自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。その点ではやはり単なる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。
〈『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)18p〉と語っているような程度のものが賢治の稲作指導等の実態であったということを、私はそろそろ受け容れるしかないようだ。
それは当の賢治自身もしかりで、昭和5年3月10日付伊藤忠一宛書簡(258)における、
根子ではいろいろお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
〈『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)〉たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
という記述から、いみじくも「羅須地人協会時代」における賢治の農民に対しての献身の実態が容易に窺えるし、「根子」における賢治の営為がほぼ失敗だったことを賢治は正直に吐露して恥じ、それを悔いて謝っていたのであろうことも窺える。
するとそこから逆に、「羅須地人協会時代」の賢治は当時農家の大半を占めていた貧しい農家・農民のために徹宵東奔西走していたとは言えそうにないということが示唆される。もしそうしていたならば、これ程までの自嘲的な表現はしなかったであろうからだ。まさに、「宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなもの」だったという吉本の先の言説とこの自嘲は符合している。
そこで私にあることが閃いた。
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