〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉
ところで、松田甚次郎は昭和13年に『土に叫ぶ』を出版したことによって宮澤賢治の名を、引き続いて昭和14年に『宮澤賢治名作選』を出したことによって賢治の作品を、それぞれ初めて全国に知らしめたといえる大恩人だ。
その松田は、後者の後記「亡き師に捧ぐ」の冒頭を、
茲に僭越乍ら恩師宮澤先生の名作選を世におくるのは、各方面の方々に遺作を見て戴き、考へて戴いて、藝術家たり宗教家たり科學的聖農たりし著者を通じて、藝術も宗教も農業もみなおしていたゞだきたいためである。
〈『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店)〉 と書き始めている。そして私はこの後者において、今回そのことに気付いてハッとした個所がある。
ご承知のように、甚次郎が賢治に如何に心酔し、尊崇していたかということは『土に叫ぶ』の巻頭が、
「一 恩師宮澤賢治先生」
であることなどから、容易に覗える。したがって、松田甚次郎が賢治のことを「農聖」とか「聖農」<*1>と称えることは、さもありなんと思っていたのだが、ここではそうでなかったからである。実は、そうではなくて、
科學的聖農
だったからである。単なる「聖農」ではなくて、「科學的」と形容されていたのである。このことに、今回気付いて私はハッとしたのだった。
一方、佐々木多喜雄氏は、「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-」において、
「農聖」は一言で農業についての名人と解釈してよいであろう。加えて、人徳が備わっており、「農聖」と呼称されることを多くの人々が認めるということが基本的要件になろう。
〈『北農 第74巻 第4号』(北農会、2007年10月)45p〉と論じているし、この佐々木氏の論考は徹底して調べ尽くして書き上げられた論考だから、私はこの論に素直に頷ける。
ということは、甚次郎が賢治に対して用いたところの尊称「聖農」は実は限定的なものであり、甚次郎は冷静に、賢治は「科學的」にはそうであったと言っていたということになるのかもしれない。
とまれ、昭和18年頃には賢治のことを「農聖」と称える人があったということをこれで確認できたわけだが、私がここまで調べたきた限りでは、「農聖」ともし称えるのであれば、それは賢治よりは遥かに松田甚次郎の方ではなかろうか、と思ってしまう。というのは、たしかに賢治は「科學的聖農」とは言えるかもしれないが、実践面では松田甚次郎の実践は賢治のそれを遥かに凌ぐからである。
<*1:註> 佐々木多喜雄氏は「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-」という論考で、
「農聖」言葉の最も強い発信元と考えられるのは、④の農民関係で、山形の農民詩人の真壁は、生前賢治に相まみえることは無かった上に、没後2年は知らなかったと書いている(真壁1974)が、作品を通しての信奉者で、賢治の「農聖伝説形成に強く影響を与えた1人と考えられる。
〈『北農 第74巻 第4号』(北農会、2007年10月)45p〉とまず述べ、次に松田甚次郎のことを論じている。ちなみに、『同第4号』の44pに、
①文壇関係、②農学校教師時代の教え子(小原、平、照井)と花巻関係(佐藤、関)、③盛岡および岩手日報関係(菊池、森、岩手日報社)④農民関係(真壁、松田)
とある。さらに、同氏は、
この2人の農民の内、特に松田は、自分の文章の中で「聖農」の言葉を用いている(1939a)ので、「精農」と混同されにくく語呂がよく意味が同じの「農聖」という語に自然に関係者の頭の中に置き換えられて使用され始めたものと考察される。これより、「聖農」が用いられたのは昭和10年代前半の昭和14年頃と思考される。
〈同44p〉と述べている。つまり、
「農聖」=「聖農」
と言える、とのことである。
なお、前掲の「(1939a)」とは、この「科學的聖農」のこと等を指しているようだ。
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《発売予告》 来たる9月21日に、
『宮沢賢治と高瀬露 ―露は〈聖女〉だった―』(『露草協会』編、ツーワンライフ社、定価(本体価格1,000円+税))
を出版予定。構成は、
Ⅰ 賢治をめぐる女性たち―高瀬露について― 森 義真
Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露― 上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露― 鈴木 守
の三部作から成る。
Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露― 上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露― 鈴木 守
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