みちのくの山野草

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95年前の今日(昭和2年8月16日)の賢治

2022-08-16 20:00:00 | 賢治の詩
《『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)の表紙》

 宮澤賢治は昭和2年8月16日(火)、すなわち今から95年前の今日付けの詩「ダリア品評会席上」を詠んでいる。そしてそれは、
   一〇八六   ダリヤ品評会席上
                  一九二七、八、十六、
   西暦一千九百二十七年に於る
   当イーハトーボ地方の夏は
   この世紀に入ってから曾って見ないほどの
   恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました
   為に当地方での主作物 oryza sativa
   稲、あの青い槍の穂は
   常年に比し既に四割も徒長を来し
   そのあるものは既に倒れてまた起きず
   あるものは花なく白き空穂を得ました
      …(略)…
   まことにこの花に対する投票者を検しましても
   真しなる労農党の委員諸氏
   法科並びに宗教大学の学生諸君から
   クリスチャンT氏農学校長N氏を連ねて
   云はゞ一千九百二十年代の
   新たに来るべき世界に対する
   希望の象徴としてこの花を見たのであります
     …(略)…
   最後に一言重ねますれば
   今日の投票を得たる花には
   一も完成されたるものがないのであります
   完成されざるがまゝにそは次次に分解し
   すでに今夕は花もその瓣の尖端を酸素に冒され
   茲数日のうちには消えると思はれますが
   すでに今日まで第四次限のなかに
   可成な軌跡を刻み来ったものであります
            <『新校本 宮澤賢治全集 第四巻詩Ⅲ本文篇』(筑摩書房)280p~>
というものである。そこで私は、あっ、これもその一つだったのかもしれないと気づいた。
 実際そのことに関してインターネットで検索してみると、〝宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する光り輝くススキと絵画的風景(前編)〟という論考の中に次のような一文が見つかった。

 昭和二年(1927 年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は/この世紀に入ってから曽つて見ないほどの/恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました/為に当地方での主作物oryza sativa /稲,あの青い槍の穂は/常念に比し既に四割も徒長を来たし/そのあるものは既に倒れまた起きず/あるものは花なく白き空穂を得ました」とある。

 つまり、この論考は「ダリア品評会席上」をその典拠として、「昭和二年(1927年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた」と断定しているようだ。言い方を換えれば、前回も引いた、「昭和2年の賢治と稲作」に関しての論考等において、多くの賢治研究者等がその典拠等も明示せずに次のようなことをそれぞれ、
(a) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:投稿者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。〈『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)152p〉
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。 〈同、173p〉
(b) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。〈『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p〉
(c) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。〈『 宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p〉
(d) (昭和2年の)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。〈『新編銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)所収の年譜〉
(e) (昭和2年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。〈『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p〉
(f) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動であったが…(投稿者略)…
 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。〈『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p〉
というように、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」というよう断定をしているが、これらの(a)~(f)の中にもこの論考と同様に賢治作品をそのまま還元して断定していたものがあるのかもしれないと、私は気づいたのだった(賢治研究者の中には安易に還元する方はおられないはずだと思い込んでいたのだが)。

 実はある時点まではこのことに関して私は次のように推測していた。
 たしかに、福井規矩三は「測候所と宮澤君」において、昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」と述べている(ただしこれは全くの誤認である)が、この福井以外に「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」というようなことを証言している人物は見つからない。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったからなおさらに、福井のこの証言を皆端から信じ切り、前掲の(a)~(f)というように断定的な表現をしたのだろうと思っていた。
 ところが、実はそれだけでなく、賢治の詩をそのまま還元して断定した方もあったのかもしれない。もう少し丁寧にいうと、〝宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する光り輝くススキと絵画的風景(前編)〟という論考が、詩「ダリア品評会席上」の記述、 
   西暦一千九百二十七年に於る
   当イーハトーボ地方の夏は
   この世紀に入ってから曾って見ないほどの
   恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました
   為に当地方での主作物 oryza sativa
   稲、あの青い槍の穂は
   常年に比し既に四割も徒長を来し
   そのあるものは既に倒れてまた起きず
   あるものは花なく白き空穂を得ました
をそのまま還元して、
   昭和二年(1927 年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた。
と断定していると判断できるように、(a)~(f)の断定的表現も賢治の作品をそのまま安易に還元している方もいいらっしゃるのかもしれない、ということに私は気づいたのだった(そうは思いたくないのだが)。
 もちろん、天沢退二郎氏はそのようなことを危惧しており、『新編 宮澤賢治詩集』において、
 一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
            <『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414pより>
と、賢治の作品と雖も安易に還元は出来ないと警鐘を鳴らしている。そしてまた、石井洋二郎氏は
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
と諭してくれていることを、私は改めて己に問い直した。

 いずれ、詩はもともと非可逆性があるものなのだから安易に還元は出来ない。もちろん賢治のそれと雖もだ。ついては、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」を再検証をする賢治研究者がそろそろ現れることを希う。岩手の片田舎に住まう老いぼれで、しかも賢治研究の非専門家で門外漢の私であっても、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」ということは全くの誤認だということは実証できたのだから。

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