みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(64~67p)

2020-12-21 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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から、賢治が昭和3年のヒデリを心配して農民のためにいろいろと手立てを講じたのだが何の役にも立たなかった、ということなどで「涙ヲ流シ」たというようなことはあったとは言えない。
 だからもし、この年に賢治が仮に「涙ヲ流シ」たとすればそれは稲作指導者という立場からではなくて、自分自身の無為無策に対してだったとなるだろう。そして実際、当時の賢治は稲作指導を殆ど放棄していたから、己のその情けなさに対して「涙ヲ流シ」たということは充分にあり得る。しかしそれでは、その「涙」は件の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の「ナミダ」とは性格が違ってしまい、単に己の不甲斐なさに対しての「涙」だったとなってしまう。「ヒデリ」とは直接的な関係がないそれになってしまう。
 ということで、稲作指導者としての立場から賢治が昭和3年の約40日以上もの「ヒデリノトキニナミダヲナガシ」たことなどはなかったとならざるを得ないので、結局、客観的にも稲作指導者としても、
   昭和3年の賢治が「ヒデリノトキハミダヲナガシ」たとは言えない。
という結果になってしまった。つまり、大正15年のヒデリの場合と同様な賢治がそこに居たということになるから、この結果と先の検証された〈仮説3〉(47p)とを併せることによって、
  〈仮説4〉「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。
が検証されたということになる。
 つまり、「羅須地人協会時代」の大正15年と昭和3年の稗貫郡等はヒデリの夏だったのだが、本当のところは、両年共に「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治であったということにならざるを得ない。
(拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』を参照されたい)
 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
 この節では、石井洋二郎氏が懸念している(詳しくは後程、〝3.「賢治研究」の更なる発展のために〟において論ずる)ように、検証もせず、まして裏付けさえも取らずに資料を使ってしまった場合に生じる怖さの実例について述べる。端的に言えば、福井規矩三の証言「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」と雖も、無条件でそれは事実であるという保証はもちろんないのだから、検証も裏付けもないままに安易に典拠とすると間違った結果を招いてしまうことがある、という実例についてだ。

 不思議なことに、「昭和2年の賢治と稲作」に関しての論考等において、多くの賢治研究家等がその典拠等も明示せずに次のようなことを断定的な表現を用いてそれぞれ、
(a) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:筆者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。         〈『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)152p〉
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。                    〈同、173p〉
(b) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。          〈『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p〉
(c) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。   
〈『 宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p〉
(d) (昭和2年の)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
〈『新編銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)所収の年譜〉
(e) (昭和2年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
  〈『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p〉
(f) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動であったが…(筆者略)…
 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。         〈『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p〉
(g) 昭和二年(1927年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は…(筆者略)…」とある。〈帝京平成大学石井竹夫准教授の論文〉
というような事を述べいる。つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という断定にしばしば遭遇する。
 ところが、いわゆる『阿部晁の家政日誌』(巻末「資料一「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間)」参照)によって当時の花巻の天気や気温を知ることができることに気付いた私は、そこに記載されている天候に基づけばこれらの断定〝(a)~(g)〟はおかしいと直感した。さりながら、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それゆえ、私はその「典拠」を推測するしかないのだが、『新校本年譜』には、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、確かに福井は「測候所と宮澤君」において、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。   〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p〉
と述べているから、これか、この引例が「典拠」と推測されるし、かつ「典拠」と言えるはず。それは、私が調べた限り、これ以外に前掲の「断定」の拠り所になるようなものは他に何一つ見当たらないからだ。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、この、いわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
 しかし残念ながら、先の『阿部晁の家政日誌』に記載されている花巻の天候みならず、それこそ福井自身が発行した『岩手県気象年報(〈註五〉)』(岩手県盛岡・宮古測候所)や『岩手日報』の県米実収高の記事(〈註六〉)、そして「昭和2年稻作期間豊凶氣溫(〈註七〉)」(盛岡測候所発表、昭和2年9月7日付『岩手日報』掲載)等によって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くなかったということを容易に知ることができる。つまり、同測候所長のこの証言は事実誤認だったのだ。
 おのずから、『新校本年譜』はこの福井の証言の検証もせず裏付けも取っていなかったということになるし、先の断定表現の引用文〝(a)~(g)〟も同様だったということになってしまうだろう。
 畢竟、「羅須地人協会時代」である昭和2年に、賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれは土台無理な話であり、本当はそんなことは実はできなかったという結論にならざるを得ない。

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           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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