《『宮澤賢治全集 四』(筑摩書房、昭和31年発行)46p》
さて、「和風は河谷いっぱいに吹く」は、賢治がこうあって欲しいという「願いや祈りを詠んだ詩」であるということになりそうだ。どうやら、賢治の肥料設計した田は激しい雷雨のために稲が皆倒れてしまった稲田となって賢治の目の前に拡がっていたというのが、この詩を詠んだことになる昭和2年8月20日の現実だったとならざるを得ないからだ。つまり、「和風は河谷いっぱいに吹く」は少なくとも気象に関しての虚構を含んだ「詩」であるということにならざるを得ない。もちろん、詩というものは虚構を交えてよりよいもにしようとするのは当然だろうが、私の場合は自然現象を安易に虚構することには抵抗感がないでもない。
だが、この「和風は河谷いっぱいに吹く」については、それ以上に強い抵抗感を抱く大きな問題点があることも知った。それは、『宮澤賢治全集 四』(筑摩書房、昭和31年発行)に載っている〈和風は河谷いっぱいに吹く(作品第一〇八三番)〉の詩(以後、こちらの形態のものを〝旧〈和風は河谷いっぱいに吹く〉〟と表す)は、『校本全集』等(つまり、いわゆる『旧校本』と『新校本』)に載っているものとの間には大きく違っていることに気づいたからである。ちなみに、『校本宮澤賢治全集第四巻』(昭和51年発行)の〈一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く〉と、『宮澤賢治全集 四』(筑摩書房)のそれこそ〝旧〈和風は河谷いっぱいに吹く〉〟とをそれぞれ左右に並べ比べてみると以下のようになる。
よって、青い文字の部分は両者に共通であるが、その他の部分は異なっている。
そこで、この〝旧〈和風は河谷いっぱいに吹く〉〟をそのまま賢治の実生活に還元して鑑賞するとどうなるだろうか。それを教えてくれる一つの例が、『近代文学鑑賞講座 第十六巻 高村光太郎 宮澤賢治』(伊藤信吉、角川書店)における、伊藤信吉の〝旧〈和風は河谷いっぱいに吹く〉〟についての鑑賞、
…その朝焼けと雨降りがつづき、つめたい霧がながれ、雨が降りつのり、稲は水につかってしまった。いまこの天候に対抗できるのは、自分が設計した肥料の効果だけである。それはたしかに適正な設計だったはずだ。そしてその効果によって、稲は自然の過酷さをくぐりぬけ、「蘆とも見えるまで逞しくさやぐ」ようになった。和風は河谷いっぱいに吹いている!
稲作指導の数篇中でこれはめずらしくあかるい詩だが、私はこの詩から賢治のものの考え方に、やはり二つの側面のあったことをおもう。その一つは「たうとう稲は起きた まったくのいきもの まったくの精巧な機械」という部分である。ここで宮沢賢治は肥料設計が合理的で適正であれば、つまり稲作栽培が科学的であれば、稲は「まったくの精巧な機械」にひとしく育つことをいっている。この科学的考え方を押しつめてゆくところに農耕指導の意味があるわけだが…
<『近代文学鑑賞講座 高村光太郎 宮澤賢治』(伊藤信吉編、角川書店)290p~より>稲作指導の数篇中でこれはめずらしくあかるい詩だが、私はこの詩から賢治のものの考え方に、やはり二つの側面のあったことをおもう。その一つは「たうとう稲は起きた まったくのいきもの まったくの精巧な機械」という部分である。ここで宮沢賢治は肥料設計が合理的で適正であれば、つまり稲作栽培が科学的であれば、稲は「まったくの精巧な機械」にひとしく育つことをいっている。この科学的考え方を押しつめてゆくところに農耕指導の意味があるわけだが…
である。もちろんかつての私であれば、この鑑賞の仕方を素直に肯んじていたと思う。そしてまた、「みんなばたばた倒」れてしまった稲が、賢治の稲作指導や肥料設計のよろしきを得て、「今日はそろってみな起きてゐる」のか、『流石、賢治!』とばかりに褒めそやしていたはずだ。まして、その稲作指導の成果が実って、なんと村ごとに反当4石もの収穫を得られるのだと、賢治の稲作指導は神業だったんだと感激もしていたはずだ。そしてそのことは私一人だけにとどまらず、〝旧〈和風は河谷いっぱいに吹く〉〟を読んだ人は皆なそう思ったのではなかろうか。
しかし、その後賢治のことに関わって少しく調べているうちにいくつかのことを知ってしまった今の私はもう違う。例えばこの場合は、当時の
【岩手県水稲反当収量推移】
<素データは『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会)より>
を知ったから、『流石、賢治!』とはいかなくなった。
当時豊作であったという大正14年でも2.14石、昭和8年でも2.22石であり共に反収で2.5石さえも超えていない。となれば、少なくとも昭和初期の1927年に「村ごとの反当に/四石の稲はかならずとれる」は100%不可能であったと言い切れるだろう。まあ、これは下書稿の中のもので推敲の一段階だし、もちろん詩に虚構があることは何も悪いことではなくそれどころか虚構は当然のことではある。そして、この〝反当4石〟とはそこに賢治の強い想いと願いが込められているのだろうと理解したい気持ちも私にはもあるものの、「羅須地人協会時代」の賢治の詩に客観的な数値の水増しがあったということを知ってしまうと、私は以前のような感動はもうそこからは味わえなくなってしまったからだ。
また一方では、かつて〝旧〈和風は河谷いっぱいに吹く〉〟でこの詩を読んでいた人達の殆どはそれこそ、「宮沢賢治は肥料設計が合理的で適正であれば、つまり稲作栽培が科学的であれば、稲は「まったくの精巧な機械」にひとしく育つことをいっている。この科学的考え方を押しつめてゆくところに農耕指導の意味がある」と満々と思わせられていたということになるのであろう。現実には、「今日はそろってみな起きてゐる」こともほぼあり得ないし、到底そんな収穫高はあり得ないというのに、である。
先に、「和風は河谷いっぱいに吹く」の方には少なくとも気象上の虚構があるということを知ったわけだが、更に賢治は、到底現実にはあり得ないはずなのに、「南からまた西南から」を推敲して「村ごとの反当に/四石の稲はかならずとれる」と詠もうとしていたのだった。賢治自身は詩としてはその方が詩としては優れていると思ったのかもしれないが、この「和風は河谷いっぱいに吹く」においては、気象上の虚構のみならず、収穫高もあり得ない石高にしようと思った賢治であったということを知った私は、呆然としてしまう。それは、先に言及した賢治の詩〔あすこの田はねえ〕でも似たようなことがあったということを知って、決定的なものになってしまった。
それは、〔あすこの田はねえ〕における
あっちは少しも心配がない
反当二石五斗ならもうきまったやうなものなんだ
の部分は推敲されて、約10ヶ月後に公に発表された「稲作挿話」<*1>においては、
あつちは少しも心配ない
反当三石二斗なら
もう決まつたと云つていゝ
と変更されたことを知って、である。ここでも石高を水増ししていたのである。
だから、天沢退二郎氏が
「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もうはたらくな〕<*2>」は、ごらんの通り、失意の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
<『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414pより>と指摘する通りである。
そこで天沢氏のこの表現と見方を借りれば、
「和風は河谷いっぱいに吹く」は、一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇だが、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟である。
ということを私もそろそろ受け容れる覚悟をせねばならないということだろう。つまるところ、今後「和風は河谷いっぱいに吹く」を上手い詩だと思うことはあったとしても、もはや私は感動することはないだろうということを覚悟した。それは、これらにかつて感動したのは、そこでは事実が詠まれていると思っていたからこそであったからだ。そしてだからであろう、賢治が「この篇みな/疲労時及病中の/心こゝになき手記なり/発表すべからず」と封印した詩篇の中に〔あすこの田はねえ〕や「和風は河谷いっぱいに吹く」が入っているのは、などと勝手に想像してしまった。おそらく賢治は、このようなことをしてしまった己を恥じて封印したに違いないと。
<*1:投稿者註>〔あすこの田はねえ〕は推敲され、梅野健三氏編輯「聖燈」に「稲作挿話」というタイトルで発表された。
<*2:投稿者註>
一〇八八 〔もうはたらくな〕 一九二七、八、二〇、
もうはたらくな
レーキを投げろ
この半月の曇天と
今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し
責任のあるみんなの稲が
次から次と倒れたのだ
稲が次々倒れたのだ
働くことの卑怯なときが
工場ばかりにあるのでない
ことにむちゃくちゃはたらいて
不安をまぎらかさうとする、
卑しいことだ
……けれどもあゝまたあたらしく
西には黒い死の群像が湧きあがる
春にはそれは、
恋愛自身とさへも云ひ
考へられてゐたではないか……
さあ一ぺん帰って
測候所へ電話をかけ
すっかりぬれる支度をし
頭を堅く縄って出て
青ざめてこわばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたやうにはげまして行け
どんな手段を用ひても
辨償すると答へてあるけ
<『新校本 宮澤賢治全集 第四巻詩Ⅲ本文篇』(筑摩書房)113p>もうはたらくな
レーキを投げろ
この半月の曇天と
今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し
責任のあるみんなの稲が
次から次と倒れたのだ
稲が次々倒れたのだ
働くことの卑怯なときが
工場ばかりにあるのでない
ことにむちゃくちゃはたらいて
不安をまぎらかさうとする、
卑しいことだ
……けれどもあゝまたあたらしく
西には黒い死の群像が湧きあがる
春にはそれは、
恋愛自身とさへも云ひ
考へられてゐたではないか……
さあ一ぺん帰って
測候所へ電話をかけ
すっかりぬれる支度をし
頭を堅く縄って出て
青ざめてこわばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたやうにはげまして行け
どんな手段を用ひても
辨償すると答へてあるけ
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