みちのくの山野草

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2 私見・大正15年の上京

2024-08-26 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

2 私見・大正15年の上京
 さて、今度は大正15年の賢治の上京に関して再度見直しながら私見を述べゆきたい。

 大正15年12月の上京費用
 まず、賢治はどのようにしてこの時の上京・滞京費用を工面したかだが、私は次のような三つを考えている。
  ・蓄音器の売却代
  ・持寄競売売上金
  ・父からの援助

 それぞれについて少しく説明を付け加えれば、
《蓄音器の売却代》
 次のような千葉恭の2つの証言が残っている。
・蓄音機で思ひ出しましたが、雪の降つた冬の生活が苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れ」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。「これを賣らずに済む方法はないでせうか」と先生に申しましたら「いや金がない場合は農民もかくばかりでせう」と、言はれますので雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円までなら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、…(中略)…「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが「先生のものですなーそれは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円私の手に渡して呉れたのでした。私は驚いた様にしてゐましたら主人は「…先生は大切なものを賣るのだから相当苦しんでおいでゞせう…持つて行って下さい」静かに言ひ聞かせるように言はれたのでした。私は高く賣つた嬉しさと、そして先生に少しでも多くの金を渡すことが出來ると思つて、先生の嬉しい顔を思ひ浮かべながら急いで歸りました。「先生高く賣つて來ましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差出した金を受け取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何だか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して喜んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申し訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。三百五十円の金は東京に音樂の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。岩田屋の主人はその点は良く知つていたはずか、返す金を驚きもしないで受け取つてくれました。
 東京から帰つた先生は蓄音機を買ひ戻しました。

     <『四次元9號』(宮澤賢治友の会)21pより>

・金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけたこともあつた。賢治は〝百円か九十円位で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう〟と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私は金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生がとられた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論行かず、そのまま十字屋に帰し(ママ)て来た。蓄音器は実に立派なもので、オルガン位の大きさがあったでしよう。今で言えば電蓄位の大きさのものだった。
      <『イーハトーヴォ復刊5』(宮沢賢治の会)11pより>
である。
 はたして、賢治が自分の蓄音器を千葉恭に売りに行かせたことが2回あったのか、それとも千葉恭の記憶違いなのか現時点では明らかになっていないが、少なくともどちらかの1回はあったと判断してほぼ間違いなかろう。
 そして、賢治がこの蓄音器の売却代を上京・滞京費用の一部にしたであろうことはこの中の「三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました」という千葉恭の証言からほぼ事実であろうことが判る。

《持寄競売売上金》
 この「持寄競売」については協会の会員高橋光一の次のような証言がある。
・「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ…。」などと云って、本だのレコードだのほかの物もせりにかけるのですが、せりがはずんで金額がのぼると「じゃ、じゃ、そったに競るな!」なんて止めさせてしまうのですから、ひょんたな(變な)「おせり」だったのです。
      <飛田三郎著「肥料設計と羅須地人協会(聞書)」(『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』、筑摩書房、284p~)より>
 そして、同じく会員の伊藤克己の次のような証言もある。
・また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。
      <伊藤克己著「先生と私達―羅須地人協会時代―」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)、396p)より>

 ところで、どうして私が「持寄競売」売上金を賢治は上京費用の一部にしたと判断したのかというと、上京10日前の11月22日に賢治が「これを近隣の皆さんに上げて下さい」(「地人協會の思出(一)」(『イーハトーヴォ第六號』(宮沢賢治の會)3pより))と言って伊藤忠一に配布を頼んだ案内状の中にこの「持寄競売」に関して具体的に書かれているからである。
 さらには、このような「持寄競売」を他日にも行ったという証言は残っていないから、この周知を図った「持寄競売」には何等かの特殊な狙いがあったと考えられる。なおかつ何と賢治は「持寄競売」を行った翌日に即上京しているからである。となればそこに狙いがあったんだということになるのではなかろうか。

《父からの援助》
 次の父政次郎宛書簡の中にある、
   220〔大正15年12月4日〕
  …小林様へも夕刻参り香水のこと粉石鹸のこといろいろ伺ひました。
   222〔同年12月15日〕
…図書館の調べものもあちこちの個人授業も訪問もみなその積りで日程を組み間代授業料回数券などみなさうなって居りましていま帰ってはみな半端で大へんな損でありますから今年だけはどうか最初の予定の通りお許しをねがひます。
…今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。
      <いずれも『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
という賢治の報告や懇願を踏まえれば、この上京に際して賢治は事前に父に相談しているし、父から小林六太郎との商売(香水や粉石鹸)の打ち合わせを頼まれていたであろうことが分かるので、相応の額の援助を父から受けていると考えられる。また、上京後に父に無心した二百円は最高級のチェロ購入代金ということもあり得る。
 なお、花巻農學校の退職金五百二十円(詳細は後述)を懐にして上京したということも考えられるが、それだけのお金があれば蓄音器などは売らなかっただろうから、この退職金はこの上京の際にはまだ県からは貰っていなかったであろうと判断できる。

 「賢治年譜」大正15年12月2日
 さて先にも主張したように、「宮澤賢治年譜」の大正15年12月2日の私見は、
    一二月二日(木) 上京する賢治を柳原も澤里も見送ったと見られる。
であり、その際に賢治はチェロを持たずに上京したとすることの方が合理的である。
 一般には、この日に賢治はチェロを持って上京したということになっているのが「現定説❎」であるが、この件に関しては訂正が必要であろう。それは、何も澤里がそう言っていないからという理由だけではない。
 仮に、「新校本年譜」大正15年12月2日の記載において、
    セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。
であるとするならば、この上京の大きな目的の一つに「チェロの学習」があったということになるはずである。ところが、この滞京中に賢治が政次郎に宛てた書簡「222」は先にその一部を引用したが、その全文は次のとおりだからである。
  大正十五年
222 〔十二月十五日〕宮澤政次郎あて 封書
 《表》岩手県花巻川口町 宮沢政次郎様
 《裏》東京ニテ 賢治拝 〔(封印〕〆
御葉書拝見いたしました。小林様は十七日あたり花巻へ行かれるかと存じます。わたくしの方はどうか廿九日までこちらに居るやうおねがひいたします。
図書館の調べものもあちこちの個人授業も訪問もみなその積りで日程を組み間代授業料回数券などみなさうなって居りましていま帰ってはみな半端で大へんな損でありますから今年だけはどうか最初の予定の通りお許しをねがひます。それでもずゐぶん焦って習ってゐるのであります。毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰ってタイピスト学校数寄屋橋の交響楽協会とまはって教はり午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。一時間も無効にしては居りません。音楽まで余計な苦労をするとお考へではありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても要るのであります。もうお叱りを受けなくてもどうしてこんなに一生けん命やらなければならないのかとじつに情なくさへ思ひます。
今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。申しあげればまたわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒りになるとも思ひますが第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました。授業料も一流の先生たちを頼んだので殊に一人で習ふので決して廉くはありませんでしたし布団を借りるよりは得と思って毛布を二枚買ったり心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買ってしまひおまけに芝居もいくつか見ましたしたうたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます。けれどもいくらわたくしでも今日の時代に恒産のなく定収のないことがどんなに辛くひどいことか、むしろ巨きな不徳であるやうのことは一日一日身にしみて判って参りますから、いつまでもうちにご迷惑をかけたりあとあとまで累を清六や誰かに及ぼしたりするやうなことは決していたしません。わたくしは決して意思が弱いのではありません。あまり生活の他の一面に強い意思を用ひてゐる関係から斯ういふ方にまで力が及ばないのであります。そしてみなさまのご心配になるのはじつにこのわたくしのいちばんすきまのある弱い部分についてばかりなのですから考へるとじっさいぐるぐるして居ても立ってもゐられなくさへなります。どうか農具でも何でもよろしうございますからわたくしにも余力を用ひて多少の定収を得られるやう清六にでも手伝ふやうにできるならばお計ひをねがひます。それはまづ今月末までにでもご相談くださればできなくても仕方ありません。まづは。

      <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238p~より>
となっている。
 これで明らかなように、タイプライター、オルガン、エスペラントのそれぞれの学習についての報告はあるものの、チェロの学習に関しての報告は一切出てこないだけでなく、セロの「セ」の字さえも出てこないことが判る。そしてそれは、この滞京中に賢治が出した他の書簡の中でも同様であってチェロに関しての記載は一切ない。
 これらの書簡を基に素直に考えれば、この時の上京に際しては初めのうちはチェロのことなど賢治の眼中に全くなかったと考えられる。それにもかかわらず、『新校本年譜』が大正15年12月2日について、
    一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。
と、「セロ」を記載するこだわりを持つのは何故なのだろうか。私が調べた限りではここに「セロ」を書き入れる根拠は何ら見つからない。理由もわからない。
 ところで、佐藤泰平氏は『宮澤賢治の音楽』において、宮澤清六から聞いたこととして、
 兄がいつ、どのようにして、どの店からセロを買ったのか、全く知らなかったとのことである。
     <『宮沢賢治の音楽』(佐藤泰平著、筑摩書房)215p~より>
と述べている。あわせて、佐藤氏は続けて、
 もちろん父親も。それゆえに上京時にセロを持参し、レッスンを受けたことなど当然知らなかった。賢治がセロを持っていることを父親が知ったのは、賢治が病気になって実家に帰った以後だったそうである。
      <『宮澤賢治の音楽』(佐藤泰平著、筑摩書房)215p~より>
という父政次郎の証言も同書で紹介しているので、ますます「セロ」を記載する「宮澤賢治年譜」のこのこだわりが理解できなくなる。誰一人として、大正15年12月2日にチェロを持って花巻駅から賢治が旅立ったなどとは言っていないだけでなく、清六も政次郎も賢治のチェロに関しては殆ど知らないと語っているのに、なぜ無理矢理、
    一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。
として「セロを持ち」にこだわっているのだろうか、不思議でならない。私達の知り得ない何等かの事情でもそこにはあったのだろうか。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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