《白露草》(2022年8月19日撮影、花巻)
間違いはいずれ正されるべきもの、と私は思う。
間違いはいずれ正されるべきもの、と私は思う。
さて、ここまで賢治の詩篇で昭和2年の日付のついている以下のもの、
・一〇五四 〔何と云はれても〕 五、三、
・一〇五八 〔銀のモナドのちらばる虚空〕 一九二七、五、九、
・一〇五八 電車 一九二七、五、九、
・一〇五八 〔銀のモナドのちらばる虚空〕 一九二七、五、九、
・一〇六一 〔ひわいろの笹で埋めた嶺線に〕 一九二七、五、九、
・一〇六三 〔これらは素樸なアイヌ風の木柵であります〕 一九二七、五、九、
・一〇五九 〔芽をだしたために〕 一九二七、五、九、
・一〇三九 〔うすく濁った浅葱の水が〕 一九二七、四、一八、
・一〇七四 〔青ぞらのはてのはて〕 一九二七、六、一二、
・一〇七六 囈語 一九二七、六、一三、
・一〇七五 〔わたくしは今日死ぬのであるか〕 六、一三、
・一〇八三 〔南からまた西南から〕 一九二七、七、一四
・一〇八四 〔ひとはすでに二千年から〕 一九二七、七、二四、
・一〇八五 〔午はつかれて塚にねむれば〕 七、二四、
・七三〇ノ二 増水 一九二七、八、一五、
・一〇八六 ダリヤ品評会席上 一九二七、八、十六
・一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く 一九二七、八、二〇、
等を少しく調べてきた。・一〇五八 〔銀のモナドのちらばる虚空〕 一九二七、五、九、
・一〇五八 電車 一九二七、五、九、
・一〇五八 〔銀のモナドのちらばる虚空〕 一九二七、五、九、
・一〇六一 〔ひわいろの笹で埋めた嶺線に〕 一九二七、五、九、
・一〇六三 〔これらは素樸なアイヌ風の木柵であります〕 一九二七、五、九、
・一〇五九 〔芽をだしたために〕 一九二七、五、九、
・一〇三九 〔うすく濁った浅葱の水が〕 一九二七、四、一八、
・一〇七四 〔青ぞらのはてのはて〕 一九二七、六、一二、
・一〇七六 囈語 一九二七、六、一三、
・一〇七五 〔わたくしは今日死ぬのであるか〕 六、一三、
・一〇八三 〔南からまた西南から〕 一九二七、七、一四
・一〇八四 〔ひとはすでに二千年から〕 一九二七、七、二四、
・一〇八五 〔午はつかれて塚にねむれば〕 七、二四、
・七三〇ノ二 増水 一九二七、八、一五、
・一〇八六 ダリヤ品評会席上 一九二七、八、十六
・一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く 一九二七、八、二〇、
それは、先の投稿〝昭和3年の賢治〟において、
さて、羅須地人協会時代(大正15年4月1日~昭和3年8月10日)の賢治は、「貧しい農民たちのために己の健康まで犠牲にして献身した」と言われているようだが、私が調べてみた限りにおいては調べれば調べるほどどうもそうとは言いえなさそうだということを、危惧し始めている。
なぜなら、大正15年は稗貫も「ヒデリノナツ」だったが、特に隣の紫波郡の赤石村や古館村、そして不動村等は飢饉一歩手前の大旱害であり、地元のみならず東京などからも義捐や救援の手が陸続として差し伸べられていたが、賢治はそのような救援活動等をしたという証言も資料も見つからないからだ。
また、昭和2年は「非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作」というようなことを、少なからぬ賢治研究者らが論考等において断定的に語り、賢治はその対応のために東奔西走したと論じているが、そもそも「昭和二年は非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作」は誤認であり、この論理は成り立たない。そこで私は、昭和2年についてはもしかしたら同年に賢治が詠んだ詩から言えるのかなと思って最近調べているのだが、それも心許ないことが分かりつつある。
と述べた訳だがその先を知りたかったからだ。そしてこれで、なぜなら、大正15年は稗貫も「ヒデリノナツ」だったが、特に隣の紫波郡の赤石村や古館村、そして不動村等は飢饉一歩手前の大旱害であり、地元のみならず東京などからも義捐や救援の手が陸続として差し伸べられていたが、賢治はそのような救援活動等をしたという証言も資料も見つからないからだ。
また、昭和2年は「非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作」というようなことを、少なからぬ賢治研究者らが論考等において断定的に語り、賢治はその対応のために東奔西走したと論じているが、そもそも「昭和二年は非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作」は誤認であり、この論理は成り立たない。そこで私は、昭和2年についてはもしかしたら同年に賢治が詠んだ詩から言えるのかなと思って最近調べているのだが、それも心許ないことが分かりつつある。
「心許ないことが分かりつつある」→「心許ないことが分かった」
と書き変えねばならないことを覚悟した。
それは、たとえば「ダリヤ品評会席上」については、ある研究者が、
昭和二年(1927 年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は/この世紀に入ってから曽つて見ないほどの/恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました/為に当地方での主作物oryza sativa /稲、あの青い槍の穂は/常念に比し既に四割も徒長を来たし/そのあるものは既に倒れまた起きず/あるものは花なく白き空穂を得ました」とある。
と論じているから、一見この詩の記述「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は……あるものは花なく白き空穂を得ました」が、「昭和二年(1927 年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた」であることを裏付けていると思いたくなるがそれは無理である。それが誤認であることは既に実証済み(具体的には背著『本統の賢治と本当の露』の〝㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」〟をごらん頂きたい)だからである。また、「和風は河谷いっぱいに吹く」についても、虚構があり、とてもではないが賢治の目の前に広がっている田圃については「べんぶしてもべんぶしても足りない」光景ではなかったことは、先に明らかにしたところである。
言い換えれば、賢治の詩と雖も安易に還元できないということである。
それでは、「一九二七、八、二〇、」後に詠んだ詩の中に裏付けが見つかるかというと、それはもはやないだろ。なぜなら昭和2年「八、二〇、」付け後の賢治が詠んだ昭和2年の詩はもうないからである。つまり、昭和2年付けの詩篇から裏付けは見つからないのではなかろうか。ならば、昭和3年以降の詩に裏付けが見つかるというのであろうか。
言い換えれば、羅須地人協会時代(大正15年4月1日~昭和3年8月10日)の賢治は、「貧しい農民たちのために己の健康まで犠牲にして献身した」と言われているようだが、調べれば調べるほどそれを裏付けものは見つからないのではなかろうか、という不安が増してくる。
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