《〔ひとはすでに二千年から〕の碑》(平成21年10月14日撮影、田日土井)
前回〝本日の下根子桜(7/24)15〟において、
といいますのは、2時間後に「みちのくの山野草」に投稿予定の〝95年前の今日(昭和2年7月24日)の賢治〟で述べるようなことを今感じているからです。
と予告したこととは、以下のようなことである。宮澤賢治は昭和2年7月24日(日)、即ち今から95年前の今日付けの、二篇の詩〔ひとはすでに二千年から〕と〔午はつかれて塚にねむれば〕を詠んでいる。
そして、前者〔ひとはすでに二千年から〕については、田日土井に建つ賢治の「渇水と座禅」の詩碑から西に300mほど堰沿いに遡るとその詩碑が建っていてそれはこのトップに掲げたようなものである。
ちなみに、この詩は『詩ノート』所収のものであり、
一〇八四
〔ひとはすでに二千年から〕
一九二七、七、二四、
ひとはすでに二千年から
地面を平らにすることと
そこを一様夏には青く
秋には黄いろにすることを
努力しつゞけて来たのであるが
何故いまだにわれらの土が
おのづからなる紺の地平と
華果とをもたらさぬのであらう
向ふに青緑ことに沈んで暗いのは
染汚の象形雲影であり
高下のしるし窒素の量の過大である
<『新校本 宮澤賢治全集 第四巻詩Ⅲ本文篇』(筑摩書房)178p~>〔ひとはすでに二千年から〕
一九二七、七、二四、
ひとはすでに二千年から
地面を平らにすることと
そこを一様夏には青く
秋には黄いろにすることを
努力しつゞけて来たのであるが
何故いまだにわれらの土が
おのづからなる紺の地平と
華果とをもたらさぬのであらう
向ふに青緑ことに沈んで暗いのは
染汚の象形雲影であり
高下のしるし窒素の量の過大である
というものであった。なお、この碑陰は下掲のとおりで、
《〔ひとはすでに二千年から〕の碑陰》(平成21年10月14日撮影、田日土井)
地域の長年の悲願であった豊沢ダムが一九六一年五月完成し みごとに整備された広大な美田を潤している
豊沢ダムの実現に一身をささげた豊沢川土地改良区初代理事長平賀千代吉翁の偉業をたたえる顕彰碑は 当初東北自動車道花巻南I・Cの西方に建立されたが 農道の整備により この地に移設した
ここに 記念として こよなく郷土を愛し 稲作指導や肥料設計など ひたむきに農民のために力を尽くした宮澤賢治の「詩ノート」から 土にちなんだ一篇を石に刻んで建立する
二〇〇二年十二月
そこでこの詩の記述内容に従えば、たしかに「土にちなんだ一篇」ではあることは明らかだが、〔ひとはすでに二千年から〕からは、「稲作指導や肥料設計など ひたむきに農民のために力を尽くした宮澤賢治」を思い浮かべることは私には難しい。もちろん、「われらの土が」という表現から、賢治が「稲作指導や肥料設計など」をしたでのであろうことはわかるが、残念ながら眼前に広がっている稲田は窒素のやり過ぎによって出来がよくないと詠んでいるからだ。しかも、それは自分のせいではない、「何故いまだにわれらの土が/おのづからなる紺の地平と/華果とをもたらさぬのであらう」と賢治は推測しているのである。
一方で、少なからぬ賢治研究者等が、「昭和2年の賢治と稲作」に関しての論考等において、その典拠等も明示せずに次のようなことを断定的な表現を用いてそれぞれ、
(a) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:筆者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。〈『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)152p〉
私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。〈同、173p〉
(b) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。〈『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p〉
(c) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。 〈『 宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p〉
(d) (昭和2年の)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。〈『新編銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)所収の年譜〉
(e) (昭和2年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。〈『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p〉
(f) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動であったが…(投稿者略)…中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。〈『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p〉
(g) 昭和二年(1927年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は…(筆者略)…」とある。〈帝京平成大学石井竹夫准教授の論文〉
というような事を述べている。つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という断定にしばしば遭遇するから、「こよなく郷土を愛し」ていた賢治はその対策のために東奔西走し、「稲作指導や肥料設計など ひたむきに農民のために力を尽くした」とかつての私は思い込んでいた。私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。〈同、173p〉
(b) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。〈『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p〉
(c) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。 〈『 宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p〉
(d) (昭和2年の)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。〈『新編銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)所収の年譜〉
(e) (昭和2年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。〈『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p〉
(f) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動であったが…(投稿者略)…中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。〈『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p〉
(g) 昭和二年(1927年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は…(筆者略)…」とある。〈帝京平成大学石井竹夫准教授の論文〉
それは、『新校本年譜』には、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
とあるし、確かに福井は「測候所と宮澤君」において、「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p〉と述べているから、当初は(a)~(g)の断定はそのとおりだと私は思っていた。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、素直にこの証言を信じていたからなおさらにだ。
ところが、ここ十数年ほど賢治のことを調べ続けてきたことにより、いわゆる『阿部晁の家政日誌』によって当時の花巻の天気や気温を知ることができることに気付いた私は、そこに記載されている天候等に基づけば、先の(a)~(g)というような「断定」は出来ないかもしれないぞと不安になった。
そして実際、〝誤認「昭和二年は非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作」〟等でも投稿したように、前掲の『阿部晁の家政日誌』に記載されている花巻の天候のみならず、それこそ福井自身が発行した『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所)や『岩手日報』の県米実収高の記事、そして「昭和2年稻作期間豊凶氣溫」(盛岡測候所発表、昭和2年9月7日付『岩手日報』掲載)等によって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くなかったということも容易に知ることができた。つまり、同測候所長のこの証言は事実誤認だったのだ。すると、あとは将棋倒しと同じで、(a)~(g)は皆バタバタと倒れてしまった。
最後に、もう一篇の詩〔午はつかれて塚にねむれば〕、
一〇八五
〔午はつかれて塚にねむれば〕
七、二四、
午はつかれて塚にねむれば
積乱雲一つひかって翔けるころ
七庚申の碑はつめたくて
(田の草取に何故唄はれぬのか
草刈になぜうたはぬか
またあの崖の灰いろの小屋
籾磨になぜうたはないのか)
北の和風は松に鳴り
稲の青い鎗ほのかに旋り
きむぽうげみな
青緑或は
ヘンルータカーミンの金米糖を示す
(峡流の水のやうに
十一月の風のやうに
絶えず爽かに疲れぬ巨身を得るために)
<『新校本 宮澤賢治全集 第四巻詩Ⅲ本文篇』(筑摩書房)178p~>〔午はつかれて塚にねむれば〕
七、二四、
午はつかれて塚にねむれば
積乱雲一つひかって翔けるころ
七庚申の碑はつめたくて
(田の草取に何故唄はれぬのか
草刈になぜうたはぬか
またあの崖の灰いろの小屋
籾磨になぜうたはないのか)
北の和風は松に鳴り
稲の青い鎗ほのかに旋り
きむぽうげみな
青緑或は
ヘンルータカーミンの金米糖を示す
(峡流の水のやうに
十一月の風のやうに
絶えず爽かに疲れぬ巨身を得るために)
についてだが、「七庚申の碑」とあるから、昭和2年7月のこの日曜日に賢治は鍋倉辺りに行ったのだろうか。そして、この詩〔午はつかれて塚にねむれば〕については、「青緑或は/ヘンルータカーミン」に惑わされつつも、「きむぽうげみな……金米糖を示す」が、ウマノアシガタが実って金平糖状になっていることを詠っているのかとにんまりしたものの、さりとて、「流石は賢治」とうならせられるような感銘をこの詩からは受けない。というよりは、どうも、この頃に賢治が詠んだ詩に私はあまり感動しなくなっていることに気づく。かつては感動した「あすこの田はねえ」や「和風は河谷いっぱいに吹く」にもはや感動しなくなったことが影響しているのだろうか。そこでこれらの二篇をもう一度読みなおしてみても、これらの詩からは「ひたむきに農民のために力を尽くした宮澤賢治」であったということはやはり伝わってこない。私の詩の鑑賞力はもう枯れてしまったようだ。もしかすると、元々無かったのかもしれないが。
とはいえ、ここまで、昭和2年に賢治が詠んだいくつかの詩を調べたり、読み返したりしながらあれこれやって来た結果、その限りでも、
こよなく郷土を愛し 稲作指導や肥料設計など ひたむきに農民のために力を尽くした宮澤賢治
であったとはどうやら言えそうにない、ということを受け容れざるを得ないようだ。
続きへ。
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