《創られた賢治から愛すべき賢治に》
二回会っただけかつて私は、松田甚次郎が
それから度々お訪ねする機を得たのであるが
と『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版)所収の「追想」の中で述べていたので、甚次郎は少なくとも3、4回は賢治の許を訪ねているように思えたのでそれを検証したことがあった。最終的には、松田甚次郎の日記を調べることによってそれが昭和2年の3月8日と同8月8日の2回であったことが判った。
それを調べている最中に、はたと目に留まったのが森荘已池の次の記述だった。
ちゑさんは、宮沢さんと二回会っただけだといいました。一回会おうが百回会おうが、そんなことはどうでもよいことだと私はいいました。『土に叫ぶ』の松田甚次郎だって、たった二回あったきりでした。その一回目の訪問から、ああいう仕事が生まれて来ているのです。
そのころの伊藤さんは、恐らく宮沢さんにとっては、高貴な香料のような存在だったのではないかと思われます。
<『宮澤賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)181p~より>そのころの伊藤さんは、恐らく宮沢さんにとっては、高貴な香料のような存在だったのではないかと思われます。
その当時の私は、松田甚次郎の賢治訪問が2回だけであったことについてはまだ結論が出せずにいた頃だったので、どうして森荘已池はそうまで言い切っているのだろうかと首を傾げたのであった。
森は甚次郎と一緒に小岩井農場等へ行っていたということから言えること
それが過日、木口二郎の詩集『木心居』(文明堂書店、昭和13年)を見ることができたので私は腑に落ちた。そこからは昭和13年11月14日、15日に森荘已池と木口二郎(菊池暁輝)が松田甚次郎を雫石方面に案内し、小岩井農場を訪れていることを知ることができたからだ。
たしかにその頃、松田甚次郎は賢治の”訓え”どおりに実践し、その生活記録『土に叫ぶ』を出版できたので、賢治の墓前にその報告をするために吉田コトと佐藤しまを帯同して昭和13年11月に花巻の宮澤家を訪れていたということは知られているから、この「小岩井農場行」はその際のことになるのだろう(もしそうであったとするならば、その「小岩井農場行」は森、菊池、甚次郎、コト、しまの少なくとも5人は一緒だったのかもしれない)。したがって、その際に森は甚次郎から「たった二回あったきりでした」ということを取材していたと考えられるからである。そして実際その訪問回数は松田甚次郎の日記が如実に示すごとく事実であった。
そこから自ずから導かれることは、前掲の引用部分の信憑性が高いであろうということである。例えば、「ちゑさんは、宮沢さんと二回会っただけだといいました」ということはほぼ間違いなく事実であろうということである。すると、私個人としては以前展開した“思考実験<賢治がちゑに結婚を申し込む>”が単なる実験に過ぎなかったという可能性が出てくることになるので、いま慌てている。なぜなら、もしこれが事実であったとすれば、ちゑは「宮澤賢治とは三回会った」ということになるから、この実験は実際には起こり得なかったことになるからである。
なお、森がこの引用文の中で述べている「そのころの伊藤さんは、恐らく宮沢さんにとっては、高貴な香料のような存在だった」からは、ちゑが当時勤めていた『二葉保育園』が如何に素晴らしいスラム保育やセツルメント活動をしていたかということと、そこでちゑが如何に献身的に活動したかということを森はよく知っていたであろうこと、及びそのようなちゑが「高貴な香料のような存在だった」という表現は森の素直なちゑの印象を吐露していた可能性が高いということも共に導かれそうだ。つまり、森の目にもちゑは「高貴な香料のような存在だった」と、聖女の如くであったと写ったのではなかろうか。
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