みちのくの山野草

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4226 ストイックなセツルメント活動家伊藤ちゑ

2014-11-04 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
ちゑのセツルメント活動について
 青江は同書において、さらに次のようなことを述べている。
 彼女は上京して女子大学(?)に入り、東大のセツルメント運動を手つだうようになった。それは東大新人会がはじめたもので、本所深川の細民街に事務所をもち、貧乏人たちの診療施薬から身の上相談まで引き受けて精力的に動きまわる。
 当然警察に目をつけられ、何度もガサ入れを食うのだが、あるときその場に居合せた彼女は、いそいで書類をもって逃げようとし、階段からすべり落ちて背骨を折ってしまう。それから入院して治療を受けたが余病を併発し、とうとう自殺してしまうのだ。
 彼女の兄は同じような行動力にとんだ正義派で、当時の財閥安田善次郎に強引に面会を申しこみ、ただ一度で日支交換学生協会の成立に援助させることに成功し、関東大震災のとき、混乱した民衆の朝鮮人殺しが方々ではじまったとき、彼自身が経営していた〝長白寮〟にいた朝鮮人学生や彼らをたよって方々から避難してきた朝鮮人たちを全部守り通したという、その血が、一見しとやかなちえ子にもそのまま流れていたのであた。
               <『宮沢賢治・修羅に生きる』(青江舜二郎著、講談社現代新書)150pより>
ただし、伊藤ちゑは1921年(大正10年)に盛岡高等女学校卒業、大正13年9月に『二葉保育年』に就職しているということだから「女子大学(?)に入り」ということはなかったと思われるが、当時は主に「セツルメント運動」をしていたということは事実であったと判断できる。なぜならば、この青江以外にも各氏が次のように書き記しているし、ちゑの保母以外の仕事については誰も述べていないからだ。
◇森荘已池
 そのころちゑさんは、あるセッツルメントに働いていました。母子ホームです。
               <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭和24)118pより>
◇荻原昌好
 賢治関係の本に、ちゑさんが「セツルメント活動中、母子ホームで高いところから落ち、それが原因でカリエスになったと書いてあるが、実際は、姉の家で重い荷物を持ち階段から滑り落ちたことが事実である。   (「宮沢賢治と『三原三部』私家版」)
              <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社、平成6年)324p~より>
◇多田幸正
 チヱは盛岡高等女学校を卒業後上京し、セツルメント関係の仕事に従事し、
               <『宮沢賢治とベートーヴェン』(多田幸正著、洋々社、平成20年)175pより>
◇多田幸正
 賢治は、チヱがセツルメント関係の仕事をしていたことも、病気の兄と大島に渡り、看病に専念していたことも知っていた。
               <『宮沢賢治とベートーヴェン』(多田幸正著、洋々社、平成20年)175p、208pより>
◇澤村修治
 療養していただけではない。仕事もないわけではなかった。チヱはあるセツルメントに働いていた。母子ホームである。
               <『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社、平成22年)184pより>

 また一方で、ちゑは大正13年9月~同15年まで、及び昭和3年~4年までは少なくともあの『二葉保育園』に勤めていことは既に確認できているし、しかも『光りほのかなれど』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)が、同保育園の仕事はいわば<セツルメントーハウス>のようなものであったと述べていることとを併せれば、ちゑがセツルメント活動をしていたということはこれで決まりだろう。

「高貴な香料のような」ちゑ
 となれば次に問題となるのが、ちゑはどこまで「東大のセツルメント運動」に関わっていたのかということだ。そういえば青江は東大卒だからこのことに関しては情報を得やすかったであろうから一概に青江のこの記述は全否定できなかろう。しかも青江は、「本所深川の細民街に事務所をもち」とも記しているからなおさらにである。なぜならば、「本所深川の細民街に事務所」といえば、それこそ『社会福祉法人 二葉保育園』がそのHPで、「1939年(昭和10)には深川に母の家と保育園を開設した」<*>(『二葉保育園』の中の「100年のあゆみ」より)ということを記載しているから、時期的にも地理的にも青江のこの記述とほぼ一致しているし、しかもその活動内容の「貧乏人たちの診療施薬から身の上相談まで引き受けて精力的に動きまわる」はちょうど当時の徳永恕たちの活動内容とほぼ同じだからである。
 もしそうであったとするならば、なぜ青江には「一見しとやかなちえ子」に見えたのかはさておき、当時のちゑは熱心で急進的な「セツルメント活動家」ということになりそうだ。もちろん、ちゑが「東大のセツルメント運動を手つだうようになった」とか、「何度もガサ入れを食うのだが、あるときその場に居合せた彼女は」とかということまでは私には検証できないが、ちゑも彼らと同じように細民街(スラム街)の子どもたちのために身を擲っていた献身的な「セツルメント活動家」であったということはまず間違いなかろう。それは、先にも述べたように、ちゑが『二葉保育園』に勤めるようになった時期が、同園が大震災被害から再建未だしの時期であったことからしても容易に推察できるからだ。
 それにしても、青江は「とうとう自殺してしまうのだ」と述べているのだがさすがにそれはなかろう。なぜならば、青江がこう書いた『宮澤賢治 修羅に生きる』が出版されたのは昭和49年であり、ちゑが没したのは平成元年4月4日である(『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)372pより)からである。あるいはまた、荻原昌好氏によれば戒名は「聖心院千峰恵香大姉 平成元年四月四日没 行年八十五歳 俗名 伊藤 チヱ」であるということだからである(『宮澤賢治 「修羅」への旅』(荻原昌好著、朝文社)330pより)。
 なお、ここまで少しく調べてみただけでさえも、誇り高かったであろう伊藤ちゑの生き様を知ることができてしまった私からすれば、戒名の「聖心」の二文字はちゑにふさわしいものであると思えてくる。あのような『二葉保育園』へ奉職していたちゑの生き方はまさにストイックな修道女のような生き方であったであろうと私には思えるからである。
 それはおそらく森荘已池も同様であり、そこで
    そのころの伊藤さんは…高貴な香料のような存在だったのではないかと思われ
とか、
 そのころちゑさんは、あるセッツルメントに働いていました。母子ホームです。一人の女性が、母子ホームから抜け出して、近所に部屋をかり、高級な淫賣のようなことをはじめたのでくらしがよくなり、母子ホームに入る女性たちを、仲間にいれるような企てをしたときなどは、ちゑさんは、全く惡魔とたたかうように一生けんめいだつたといいます。
              <共に『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)118p~より>
あるいはまた、
    そして兄の死んだあとは、東京の母子寮に生活の全部、全身全霊をささげて働いた。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)172p~より>
と森は述べていたのであろう(おそらく、森はその母子寮があの『二葉保育園』のものかどうかはさておき、その母子寮が如何なるものであるかということは極めてよく知っていたであろうことがこれらの記述から導かれる)。このようなストイックな生き方をしていた伊藤ちゑは森からすればおのずから<聖女のさまして>と見えたであろう。そしてそれは宮澤賢治も同様であったかもしれない。

<*:註> 同時に「1939年(昭和10)には深川に母の家と保育園を開設した」からは、『二葉保育園』に「七雄氏の御子息の記憶によると、ちゑは昭和一一年以後も勤めていたという」荻原昌好氏の記述もますます妥当性を帯びてくる。

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