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肥料設計

2024-02-28 08:00:00 | 常識でこそ見えてくる賢治







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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版の前編である。**************************
 「羅須地人協会時代」の賢治の農業指導
 巷間、賢治は聖農であるとか農聖であるとか言われ、あるいは中には、それこそ老農の「石川理紀之助につづく系譜を、正しくつぐもの」であると褒め称える人さえもいる。ということは、賢治はさぞかし稲作指導に奔走し、農民たちのために献身し、しかも相当の成果を挙げたことであろう。それでは、「羅須地人協会時代」の賢治は具体的には如何ほどのことを為したのだろうか。
 しかしながら、よくよく考えてみれば不安が湧いてくる。何となれば、「羅須地人協会時代」に賢治が本格的に稲作指導を開始したのは、昭和2年2月1日以降と一般に言われているようだから、その期間はせいぜい昭和3年8月10日までのわずか1年半余に過ぎない(しかも、その間には約3ヶ月間のチェロの猛勉強のための滞京もあったと考えられるし、「約三週間ほど」の農繁期の滞京もある)し、それ程多くの具体的な賢治の指導実践を私はあまり見つけられないでいるからだ。

肥料設計
 そこで今回は、農閑期の稲作指導、実質的には賢治の肥料設計・肥料相談について検証してみたい。まずその中身がかなりはっきりしているのが、「塚の根肥料相談所」(石鳥谷肥料相談所)の開設だろう。それは、次の3人の証言等、
(1) 菊池信一の次の追想「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」の中で次のような記述、
 羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年三月三十日。雪の消え失せた許りの並木敷地には、春の陽をいつぱいにうけて蕗の芽は萌え初((ママ))めてゐた。
      …(筆者略)…
 去る十五日から一週間午前八時から午後四時まで、休む暇もなく續けざまに肥料の設計を行つたが日毎に人の增える許り、それに先生は次の場所も又次の場所も決まつてゐるので、やつとの事で今日、以前にお氣の毒だつたひと達の淸算に來られる事になつてゐたのであつた。
 七時半の列車に迎へると、先生はいつもの最初の感じで、とても優しく、そして親しげに笑みをたゝえてをられた。…(筆者略)…
 大馬力で三十枚ほども整理し、お晝飯をしたのは一時すぎだつた。
    <『宮澤賢治追悼』(昭和9年1月発行)、11p~>
(2) 川村与與衛門の座談会における次の発言、
 大正15年の夏休みでしたか、石鳥谷の駅前で、2年ほど宮沢先生が肥料設計をやっていた時代があります。その時、私達も手伝ってくれという事でした。新聞に書いたものを農家に回して歩いて、そうすると、田んぼの土を一つかみ新聞に包んで持ってきて、それを先生が見て、
「ほでこの田んぼには、マメタマ1枚、あるいは1枚半、硫安何貫目、あるいはダラ(人糞尿)を何荷、1かつぎ1荷だから、何荷すれば、また1反歩で何石ぐらい取れる。」
ということを1週間くらい来て指導していった訳です。石鳥谷ではその時3人、菊池信一さん、関良助さんと、私がお世話をして、農民の方々が土を持って来たのを整理して、設計書を宮沢先生が書いてやる。すると、次の日その農民の方がお出でになって、いろいろと土壌の事を聞いてみたりしておったのが、印象的でございました。
        <『花巻農業高校90周年記念誌』、522p~>
(3) 板垣亮一の次の随筆(昭和51年2月24日『岩手日報』掲載のの「ばん茶せん茶」)
 今は亡き菊池君とは同級で、無二の親友であった私は、宮澤沢先生が開設した肥料相談所を訪れ、先生から直接、具体的に稲作指導をしていただいた一人である。
 助手の菊池君が、私から前年度の施肥状況を聞き取り、その記録簿を参考にしながら、赤紫のけい線を引いた肥料設計書を手にした宮澤先生は、私に
「去年の稲の作柄はどうだったの?」
と問われるので、
「秋、出穂後、早く枯れてしまうようで困りました」
と答えたら、
「アンモホスや骨粉など新しい肥料を取り入れてみたらいい」
それに、
「これからは、気象にも大いに関心を持つようにしなけらばならない……」
といわれた記憶がある。…(筆者略)…
 石鳥谷肥料相談所は、午前八時ごろから、午後五時ごろまで開かれていたが、その日課は、農民一人ひとりを相手にした対話方式の設計書の作成やら、訪れたもの全員に対する講話方式の基本的な施肥説明に費やされていた。その相談所を訪れること三日間に及んだ私が聞いた説明の要旨は……
     <『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)、64p~>
があるから、賢治による本格的な肥料相談が複数日に亘って、少なくとも石鳥谷で行われたことはまず間違いないと判断できよう。
 ただしその時期については、巷間昭和3年3月15日からの一週間だったと云われているが、この開設時期については、菊池の「羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年」という記述に矛盾があるから、伊藤光弥氏が疑問を呈しているように、はたして昭和3年のことだったのかということの検討を要するとは思う。そしてそれだけではなく、川村与與衛門の発言、「大正15年の夏休みでしたか、石鳥谷の駅前で、2年ほど宮沢先生が肥料設計をやっていた時代があります」に注意すれば、少なくとも昭和3年に石鳥谷の駅前で賢治は肥料設計をやったとは川村は語っておらず、他の年にであったということになりそうだから、なおさら開設年についての検討は必要だろう。
 他にも、「羅須地人協会時代」に賢治の肥料相談が地元花巻でも行われたことは、
(4) 賢治と下根子桜で暫く一緒に暮らしていた千葉恭が『宮澤先生を追つて(四)』において、
 羅須地人協会の仕事も忙しかつたのでした。秋も過ぎ東北独特の冬が來て五、六尺の雪が積もつた花巻の町角のせまい土間を借りて、百姓相手に土壌の相談と肥料設計に、時には畫食も夕食も食はずに一日を過ごすこともありました。土間といつても間尺三尺奥行二間位のせまい処でした。そのせまい土間にビール箱を机にして、設計用紙と万年筆一本を頼りに、近郷の村々から朝から押しかけて來る百姓達を笑顔で迎え、仔細に質問しながら設計用紙に必要事項を満たしていくのでした。…(筆者略)…農民達は作物に愛着を持ち収穫を充分に希つてゐますが、それについて研究するでもなく、たゞ泥まみれになつて働くばかりが、百姓だと云ふ観念を打破する一番早い策としては肥料、土壌、耕作に対して興味を持たせることであり、興味を持たせるには理論より先に、実際から見る判断であるからその方法をとることであると先生は考えられたのでせう。
 羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石穫れるとすれば、たとえ無智な百姓であつても興味を持ち、進んで研究する様になるだらうと信じられたからでした。先生の無料設計をしていくことになつたのも、このやうなことが考えられての結果だつたのです。
           <『四次元9号』(宮澤賢治友の会)、22p>
と語っていることや、川原仁左エ門が『宮沢賢治とその周辺』で紹介している次の、
(5) 平賀林一郎の次のような証言、
 賢治は肥料設計相談所を花巻下町の間口二間に奥行一間の所(今の額縁屋)をかりて農業相談も受け受講者に岩手県農会の経営改善農家になつた湯口村平賀林一郎もその一人であつた。
 平賀一郎の話によると無料相談だというので、いつも数人が待つていて、自分も半日待つて相談を受けたが、その作業の敏速な事は神業を思はしめたと語つていた。肥料設計は県農会の肥料設計に比して多肥多収のもので化学肥料が多いように感じられ自分には自信が持てずその通りには実施しないといつていた。一農家(例へば平賀に)一週間から二週間かかり切りで、施肥其他一切の設計するのとは到底比較にはならないのではあるが。それで、同年七月十日には「稲作指導」を心配した詩が作られるので、二千枚もの肥料設計書を書いたと云はれる賢治は、その作柄の成否には心配であつたと思はれる。と同時に、当時の農業技術員は、勇敢に「肥料設計」を沢山作るのに驚歎し、危惧の念を抱いていたものだ。賢治の天才と勤勉それに稗貫郡下の土性調査の結果が、之を押し切つたのであろう。…(筆者略)…
 当時亀之尾、大野早生が花巻附近の農家で栽培されていて之に多肥に耐えうる陸羽百三十二号をかえて、従来の農家の少肥に油粕、大豆粕を硫安、石灰窒素、加里肥料に置換する賢治の「肥料設計」はされ作成して貰つた農家に幾分は当惑があつたと云はれている。
 が、賢治の農学校や国民高等学校時代の教え子や協会に出入りする農民には、十分理解し得ただろうし、肥料の三要素、基肥追肥潅排水の方法等の講習に大いに効果があつたと思はれる。
 <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著、昭和47年)、278p>
 そしてこれまた川原が紹介している、昭和3年4月発行の「岩手県農会報」における、
(6) 佐藤文郷の「農界の特志家/宮沢賢治君」の次の記事、
    農界の特志家     佐藤文郷
 花巻の名物は温泉と人形とおこしとだけではない。円満な物外和尚をしのばせる様な宮沢君も現在花巻名物の一つである。そして此の花巻名物が県の名物となる時が来るかと思われる。…(筆者略)…
 最近二度ほど君の仕事を見るに、冬閑は農家の希望により、学術講演に近村に出かけ殆んど寧日がないとか而して決して謝礼を受けない。昨今は土木管区事務所に出張して、農家の相談相手となり、肥料設計をしてゐる。数日前、君の店を訪問したるに箱の様な代用机三・四脚の腰掛、其処で十四・五名の農家は順番に設計の出来るのを待つて居つた。非常に丁寧な遠慮深い農家だと思つたに、是は皆な無料設計で用紙なども自宅印刷なので、自己を節するに勇敢で他に奉ずる事に厚いと噂にきいてゐる。宮沢君は世評の如く誠に飾ざる服装で如何にも農民の味方の感があつた。(岩手県農会報 百八八号 昭和三年四月刊)
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著、昭和47年)、301p>
などから、地元花巻でも肥料相談所が何ヶ所かに開設され、そこで賢治が熱心に肥料設計などに取り組んでいたということもこれまた間違いなかろう。
 よって、「羅須地人協会時代」の賢治が特に農閑期を始めとして、肥料設計や肥料相談にかなり熱心に取り組んでいたということは事実であった、と判断できるだろう。また、本書の最初で取り上げた千葉恭の家(真城村、現奥州市水沢区真城)の田圃等に対しても肥料設計を行っていたことを私は知ることができたから、地元はもちろんのこと石鳥谷、はては水沢の田圃に対してまでもそれらを行っていたことは紛れもない事実であったと言えるだろう。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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