みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

伊藤ちゑはやはりクリスチャンだったようだ

2019-03-13 18:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
〈『修羅の渚』(真壁仁著、法政大学出版局、1995年)〉

 ある必要があって、真壁仁の『修羅の渚』を読んでいた。するとその最後に、「大島の旅」という追想が所収されており、そこには、やはりそうなのかもしれないなと思った次のようなことが書かれていたことにこの度気付いた。
 大島に行ったころ、チヱはクリスチャンで、宮下さんによれば「しっかりした人」であった。飾り気のない風姿で、思いやりの深い人柄でもあった。元町に、身寄りのない一人ぐらしの老婆がいたが、チヱはそのばあさんと知りあいになり、食べものを作ってあげたりして面倒を見ていた。
              〈『修羅の渚』(真壁仁著、法政大学出版局)188p〉
つまり、伊藤ちゑはやはり「クリスチャンで」あったことはほぼ間違いないと私は思ったのだった。
 同時に私は、「身寄りのない一人ぐらしの老婆がいたが、チヱはそのばあさんと知りあいになり、食べものを作ってあげたりして面倒を見ていた」というこのエピソードは、以前投稿した、萩原昌好氏が『宮澤賢治「修羅」への旅』の中で紹介していた昭和5年9月26日付「島乃新聞」のあの記事、
あはれな老人へ
毎月五円づつ恵む
若き女性――伊藤千枝子
             〈『宮澤賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社、1994(平成6)年)317p〉
に相当するのであろうことにも気付く。
 ちなみに、この追想「大島の旅」の出だしの方に、真壁は「ぼくが今年の一月のある日大島へ行ったのは……」と書いているから、おそらくその旅は昭和49年頃のことであろう。この追想は、1974(昭和49年)年の『ヒューマン』が初出だというからだ。そこで、これらの二つの著書の発行年がそれぞれ1974年と1994年であることに注目すれば、この新聞記事の内容を真壁が知っていたからこう書いたとは言えないだろう。つまり、このエピソードと新聞記事は出所が別なようだし、しかも似たような内容だから、これらはその信憑性を互いに高めている。
 さらに、「宮下さんによれば」の「宮下さん」という人は、真壁よれば、「伊藤七雄が昭和六年か七年に亡くなるまで、毎日のように顔を合わせていたという」〈上掲書182p〉間柄だということだから、この「宮下さん」の証言もおのずから信憑性が高かまるだろう。

 よって、「チヱはクリスチャンで」あったということもかなりその蓋然性はかなり高かろう。

 ところで、伊藤ちゑがクリスチャンであった否かは〔聖女のさまして近づけるもの〕のモデルが高瀬露でったのかそれとも伊藤ちゑであったのかの判定にも強く関わってくるので、私は今迄も多少調べて来たことである。
 例えば、平成26年9月25日に私は伊藤ちゑの実家を訪問して当主にお伺いしたところ、「ちゑはクリスチャンではなかったようです」という返事だった。
 あるいは、伊藤ちゑがかつて勤めた『二葉保育園』を平成28年10月22日に訪問した際に、その責任者の方が「基本的には当時の同園の保姆はクリスチャンでしたから、伊藤ちゑもそうだったと思います」という意味のことを仰っていた。
 ちなみに、社会福祉法人『二葉保育園』から頂いた『リーフレット』には、同園は、
 キリストの愛の精神に基づいて、健康な心とからだ、そしてゆたかな人間性を培って、一人ひとりがしっかりとした社会に自立していけることを目標としています
              <『二葉保育園 リーフレット』より>
とその理念を掲げている。
 また、そしてこの理念は同園の設立当初からのもののようであり、『光りほのかなれど』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)によれば、
 二葉幼稚園は明治33年に野口幽香と森島美根によって設立、創立当時から貧民子女のための慈善幼稚園として歩み始めという。大正5年、社会制度の変化に合わせて幼稚園から保育園に移行。同時に分園を設立、徳永恕が主任となった。同保育園の仕事はいわば<セツルメントーハウス>のようなものであった。
 そして、野口も森島も敬虔なクリスチャンであり、野口は同園でキリスト教集会を開いていた。一方の徳永はクリスチャンらしくないクリスチャンだった。
という、
 そこでこれらのことなどから、私は今迄は、
    伊藤ちゑはクリスチャンであった蓋然性がかなり高い。
と判断していた。

 ところがこの度、この真壁の「大島の旅」の内容をあらたに知って、そのハードルは上がり、
    伊藤ちゑはやはりクリスチャンだったようだ。
と、ちゑはクリスチャンであった判断してほぼ間違いなさそうだと確信した。
 するとおのずから、
 〔聖女のさまして近づけるもの〕のモデルは、高瀬露であったという可能性はさらに限りなくゼロに近づき、一方、それは伊藤ちゑであったことがさらに限りなく100%に近づいてきた。
ということになる。

 ではなぜそう言えるのかというということについては、詳しくは拙著『本統の賢治と本当の露』の「第一章 本統の宮澤賢治」の「㈦ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず」 をご覧いただきたいのだが、要点を示せば以下のことが言えるからである。

 さてこれで、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルとしては、露のみならず「聖女のさまし」た女性として別にちゑがいることがわかった。そしてその一方で、賢治周縁の女性でしかもクリスチャンかそれに近い女性は他にいないから、結局のところ、
 〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルとして考えられる人物は高瀬露か伊藤ちゑの二人であり、この二人しかいない。
ということを肯んじてもらえるはずだ。では、一体この二人の中でどちらが当て嵌まるのかを次に考えてみたいのだが、結論を先に言ってしまえば、
 「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルは限りなくちゑである。
となる。なぜならばそれは以下のような理由からだ。
 これまでのことを簡単に振り返って見れば、
  ・賢治は昭和6年の7月頃伊藤ちゑとならば結婚してもいいと思っていたが、そのちゑは賢治と結婚することを拒絶していたという蓋然性がかなり高い。
  ・それに対して高瀬露の方だが、賢治は昭和2年の途中から露を拒絶し始めていたということだし、しかも昭和3年8月に「下根子桜」から撤退して実家にて病臥するようになったので露との関係は自然消滅したと一般に云われている。
から、
  ・ちゑ:賢治が「結婚するかも知れません」と言っていたというちゑに対して、その約2ヶ月半後に、
  ・露:「レプラ(〈註十七〉)」と詐病したりして賢治の方から拒絶したと云われている露に対して、その約4年後に、
どちらの女性に対して、例の「このようななまなましい憤怒の文字」を連ねた〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を当て擦って詠むのかというと、それは
   ちゑ ≫ 露  (「A≫B」とは「AはBより非常に大きい」という意味)
となる、つまり、ほぼ間違いなくちゑに対してであるとなることは自明だろう。とりわけ、ちゑは賢治との結婚を拒絶していたと判断できるからなおさらにだ。いやそうではないと言う人もある(〈註十八〉)かもしれないが、もしそうだとすれば〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露に対して当て擦った詩となるから、賢治は異常に執念深くて腑甲斐無い男だということになるし、賢治が大変世話になった露に対していわば「恩を仇で返す」ということになるから、流石にそれはなかろう。
 したがって、この昭和6年10月に詠んだ〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、同年7月頃、ちゑとならば結婚してもいいと思っていた賢治がちゑからそれを拒絶されて、自分の思い込みに過ぎなかったということを思い知らされた末の憤怒の詩だったと判断するのが極めて自然であろう。つまり、「聖女のさまして近づけるもの」とは露のことではなくてちゑのことである、という蓋然性が極めて高いということであり、それ故に、〔聖女のさまして近づけるもの〕のモデルは限りなくちゑである、と言える。
 よっておのずから、次の
  〈仮説7〉「聖女のさましてちかづけるもの」は少なくとも露に非ず。
が定立できることに気付くし、反例の存在も限りなくゼロだ。しかし、それでもやはりそれはちゑではなくて露だと主張したい方がいるのであれば、それを主張する前にちゑがそのモデルでないということをまず実証せねばならない(さもないと、いわば排中律に反するようなことになるからだ)。だが、その実証は今のところ為されていないので、この〈仮説7〉の反例は実質的に存在していないと言えるから、現時点では限定付きの「真実」となる。言い換えれば、高瀬露をモデルにしているとは言い切れない一篇の詩〔聖女のさまして近づけるもの〕を元にして、露を〈悪女〉にすることができないのは当然のことだ。
            〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)102p〉

 畢竟、〔聖女のさまして近づけるもの〕を元にして、高瀬露が〈悪女〉であるということなど論ずることはほぼ無意味であるということである。いや、というよりは、そのようなことを論じようとする無茶振りは、敢えて冤罪をでっち上げてしまうということになるのですよ、と私は警告せねばならないようだ。

 続きへ
前へ 
 “〝高瀬露は決っして〈悪女〉ではない〟の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 胡四王山(3/12、セリバオウ... | トップ | 胡四王山(3/12、アズマイチゲ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

濡れ衣を着せられた高瀬露」カテゴリの最新記事