みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

3410 不可解なこと(#7、マツ赤ナリンゴ)

2013-07-28 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「マツ赤ナリンゴ」
 それは、高瀬露が高橋慶吾に宛てたというある「端書」に関わってである。
 小倉は『「雨ニモマケズ手帳」新考』において、次のような内容の「一九二七年六月九日」付の高橋慶吾宛「端書」が高瀬露から送られていたということを紹介していて、そこには
高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。宮沢先生ノ所デタクサン賛美歌ヲ歌ヒマシタ。クリームノ入ツタパントマツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。カヘリハズツト送ツテ下サイマシタ。ベートーベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ。先生は「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。私ハイゝオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日 T子。
              <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)113pより>
としたためられていたという。
 がしかし、私はこの文面を見て直ぐ、これは全くおかしい〝代物〟であると判断した。この「端書」ははたして高瀬露本人が昭和2年6月9日に書いたものなのだろうかと、という疑問がを持ったのである。なぜならば、6月上旬に〝クリームノ入ツタパン〟は当時売っていたかもしれないが、昭和2年当時に、この時期6月上旬に〝マツ赤ナリンゴ〟が収穫されることもまして〝ゴチソウニナリマシタ〟ということもあり得ないと思ったからである。
 よって、私はこの書簡の内容は鵜呑みには出来ず、極めて慎重に取り扱う必要があると判断している。実際、この昭和2年6月9日付の高橋慶吾宛書簡そのもの、本物を小倉は見ている訳ではなくて、小倉が見たものは高橋が提供した「端書」のあくまでも〝写し〟だと『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)の115pで述べているからでもある。
 私に言わせればそれ故、
  この「端書」は高瀬露本人が書いたものであるという100%の保証がある訳でもない。
である。
 まして、どういうわけか高橋慶吾一人が早い時点から高瀬露のことに関して特にこだわりを持ち、その「ゴシップ」もどきを記録に残したり、公にしたがったりしているかと思えば、一方では高瀬を庇おうという姿勢を見せたりしていること等に鑑みれば、この「端書」についても慎重な扱いが望まれるということだろう。
 これは逆の見方をすれば、この高橋慶吾の高瀬露に関する度を超すこだわりは、彼がこの「ゴシップもどき」の情報を管理したがっていたということを意味するものとも見られるし、これらの「ゴシップもどき」の出どこは基本的には高橋慶吾である可能性が極めて高いということを物語っているとも言えよう。
 また、高橋慶吾はこのことに関しては小倉に極めて厳しい態度で臨んでいるが、もしそうだとすれば高橋は『宮澤賢治と三人の女性』の著者や『宮沢賢治●その愛と性』の著者に対してもそうせねば、いやもっと厳しく迫らねばならぬはずだが、そのように臨んだということを私は寡聞のせいかはたまた管見のせいか聞いてはいないし、また知らない。

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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
クリックすれば見られます。

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2 コメント

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リンゴ晩生種貯蔵 (佐藤宏光)
2014-04-05 07:12:03
昨年7月のブログ記事に今ごろのコメントで申し訳ありません。
確かに、冷蔵技術の発達した現在と違い、昭和初期に6月はじめに真っ赤なリンゴを食べるというのは、かなり困難なことだと思います。
大正15年ごろ、暖地で栽培された極早生種の紅魁は6月下旬に収穫され初物として珍重されていたようです。それを6月はじめに食べるとすれば真っ赤ではない青いリンゴになってしまうと思いますし、相当高価かつ入手困難だったと思います。
むしろ、国光のような晩生種を前年遅くに収穫し、上手に貯蔵するほうが可能性がありそうです。
昭和2年からみると未来になってしまいますが、5年後、青森県でリンゴ貯蔵法の研究成果が出ています。
昭和6年度の青森県立苹果試験場の研究結果によると、晩生種の国光を前年11月に収穫し、オイルラッパー(油紙か?)で包装し、乾燥籾殻をつめた箱に入れることで6月8日まで貯蔵に成功し、健全果5.6%、ヤケ果(小)68%を達成したようです。
未来の成果を先取りすることはできませんから、宮沢賢治がここまでの技術水準に達していたとは思えませんが、籾殻なら身の回りにたくさんあったでしょうから、何らかの類似の保存方法で貯蔵していたかもしれません。
いずれにしても6月はじめの真っ赤なリンゴは、当時そうとう珍しい貴重なものであったことは間違いありません。

通俗園芸講話(大正15年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020666
(59ページに「暖地で紅魁は六月下旬に採収する」とあります)

青森県立苹果試験場業務年報(昭和6年度)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075098
(51ページに6月8日まで貯蔵した試験結果。)
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ありがとうございます (佐藤宏光様(鈴木))
2014-04-05 08:17:56
佐藤 宏光 様
 その節は大変ありがとうございました。そしてまた、この度は科学的で客観的なな情報をご教示いただきましてありがとうございます。
 佐藤様が仰るとおり、賢治は『何らかの類似の保存方法で貯蔵していたかもしれません』ね。ついつい、私の場合は始めから決めつけておりましたので、今恥じ入っております。
 また、「通俗園芸講話」と「青森県立苹果試験場業務年報(昭和6年度)」も先ほど少しを見てみました。当時でも、6月の初め頃に真っ赤なリンゴは食べられないこともないのだということを改めて納得いたしました。

 これからも、ご教示どうぞお願いいたします。
                                                              鈴木 守    
 
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