みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

賢治宛来簡が一切ないという不思議

2015-10-22 08:30:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 私は、賢治の書簡は下書までも残っていて公にされているというのに来簡が一切ない、あるいは公になっていないということが常識的に考えて不思議であり、極めておかしいことだと思い続けてきた。そして、往簡だけで、場合によってはその下書き、いわゆる反古だけによって賢治が論じられるということは極めて危険なことだと思っているし、そのことは何人も異議のないところであろう。にもかかわらず、実質的に「賢治宛来簡が一切ない」という実態は今までもそうだったし近未来にその不自然さが解消されるだろうという話も聞かない。しかし、この実態をいつまでも放っておくわけにはいかない。この実態が放置されてきたが故に不利益を蒙ってきた人などがいるということを否定できない現実があるからである。
 一般に、人間は没して百年経てばその評価が固まると言われているようだから、現在賢治没後80年余、そろそろその百年が迫ってきている。したがって、賢治の往簡だけ (場合によってはそれどころか、もともと反古はあやあやかしなもののはずだが、その「反古」だけによって) では賢治を正しく理解できないことは自明なのだから、賢治が書いた反古まで公にしているという実態に鑑みれば、そろそろ賢治宛来簡を公にすべきだし、来簡がないのというのであるならばなぜそれがないのかを明らかにし、そのことを公にすべきだ。もちろんそれがあるというのであれば、奇しくもちょうど賢治生誕120年を迎える今がそれを公開する絶好のタイミングだろう。

 このことに関連して、北条常久著『詩友 国境を越えて』の中に次のようなことが述べられている。それは昭和8年9月26日、宮澤賢治の初七日に合せて花巻に向かった草野心平が、夕刻花巻に着きその足で宮澤商会を訪れ、そこで賢治の遺品と遺作に対面したときのことに関してである。
 蓄音機やレコードはもちろん、山登りの道具、採取した岩石も整理、保管されていた。
 しかし、中でも心平の興味を引いたのは、うずたかく積まれた原稿の山であった。
 原稿用紙は、横線のない朱色の縦線だけの自家製であり、眼の前にある賢治の遺稿は、綿密な整理がほどかされ、ゆきとどいた保存がおこなわれていた。
 そこには、心平に出されるはずであった手紙やハガキの反故が十枚ほどあった。
 心平への宛名だけの封筒、心平宛のハガキで一行だけのもの、このように書き損じも捨てずに保存されている。
 賢治自身が、それらを捨てなかったのはもちろんであるが、誰かがそれらを丁寧に保存していたことは確かである。次第に分かってきたが、この見事な保存と整理は弟清六によっておこなわれているのである。
 心平が初七日に来るというので、清六が、心平の反古を取り出しておいたのである。賢治が反古にした手紙は山ほどあるはずで、その中から草野心平への反古の手紙をより分けておくことが短期間でできるのは、日頃から保存と整理が日常化していたからに違いない。
 心平は、その保存と整理ぶりに驚嘆した。
              <『詩友 国境を越えて』(北条常久著、風濤社)204pより>
 とすると、現在宮澤家宛(父政次郎宛や弟清六宛等)の書簡が残っていてしかもそれらは公になっているのだから、この北条氏の記述も併せて常識的に考えれば、賢治宛来簡も少なくとも何通かは大切に保管・整理されていると思いたくなる。

 ところが現状は、賢治宛来簡は公的には一切ないという実態にある。だから私などは、どうして賢治研究家の誰一人として賢治宛来簡が一切ない(あるいは公になっていない)ということを、これは看過できない事態であり、あるいはまた「賢治研究のさらなる発展のために」という観点から、このことを公的に問題にし追究してこなかったのだろうかと訝るしかない。せいぜい、私が知る限りでは、次のようなことしかない。
杉浦 賢治あての手紙が残されているとすれば、来簡集のようなものを編みたいのですが…。
続橋 それはあるらしいですね。なかば公然の秘密みたいな囁やかれ方をしていますが。
入沢 よくわかりませんけど、実際問題としては、公にすることを聞いたことは一度もないです。
              <『賢治研究 70』(1996.8 宮沢賢治研究会)185pより>
とはいえ、これでは始めっからこの件に関しては逃げ腰であるとしか私には映らない。誤解を恐れずに正直に言えば、まるで他人事である。しかし、「賢治宛来簡が一切ないという実態」は、はたしてその程度のことでしかないのだろうか。

 しかも、もしかすると来簡を公開せずに往簡の下書だけを賢治没後に公開したというアンフェアな行為によって誰かに理不尽な仕打ちを結果的にしてしまったということがあったとすれば、それは賢治としても本意でなかろうし、実際そのような理不尽があったということを私は拙論「聖女の如き高瀬露」(『宮澤賢治と高瀬露』所収)で実証したつもりだから、このようなアンフェアな実態はもはや看過できない重大事だと思っているので、近々機会があれば意を決して当事者に直接このことを問うてみたい…。

 後々、「平成27年9月19日は一度議会制民主主義が死んだ日だった」と歴史から裁きを受けるでしょう。

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