みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

吉田六太郎の追悼

2020-10-23 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『和光 追悼の詩』(松田むつ子編集発行、昭和55年11月)吉田矩彦氏所蔵〉

 では今回は、吉田六太郎の追悼からである。そこにはこのようなこと、
 先生が御逝去なされた昭和十八年は雨の少ない水涸れの年でした。先生の七月九日の八森山の雨乞祈願で病床に伏し、斗病中も「雨さえ降れば、私の病気もすぐ癒る」とまでおっしゃられた大干魃の年でした「命をかけて稲を守る。」とはあの頃の農民倫理でしたし、それがまた先生の説かれる農民道でもありました。「篤農」を真向から退け、ひたすら「義農であれ」と教えた先生はまさにあの暗黒期の農村の輝ける星でした。科学と生活が、そして文化と人間の結合がまだ未熟な時代、人間の命は国家に優先することは出来ませんでしたが、先生の農民道の基底にはつねに人間があり人間愛が燃えておりました。生きるとは何なのか、農村共同体の連帯とは何なのか、先生はその事を中心に据えながら道を説きました。あの年の五月、先生がお書きになった言葉に、「冬寒く雪降る奥羽の山里に、道を求めて茲に十八年」とありますが、この十八年の求道生活はそのまま日本農民が引き継ぐべき遺産であったと思います。
             〈『和光 追悼の詩』(松田むつ子編集発行)45p〉
が述べられていた。もちろん、「先生が」とは「松田甚次郎が」である。
 さて私は、吉田が言うところの、この「「命をかけて稲を守る。」とはあの頃の農民倫理でしたし、それがまた先生の説かれる農民道でもありました。「篤農」を真向から退け、ひたすら「義農であれ」と教えた先生はまさにあの暗黒期の農村の輝ける星でした。」という断定はまさにそのとおりであったのであろうとすぐさま納得した。言うことはとても立派でも、当の本人がそれを実践しなかったならば、とてもじゃないが「輝ける星」になれなかったであろうが、甚次郎はたしかに「命をかけて」実践したと言える。だから、多くの農民、とりわけ問題意識の高かった農村青年の多くから見れば、甚次郎は輝いて見えただろう。導きの星として燦然と輝いていたであろう。しかもそれは「篤農であれ」ではなく「義農であれ」ということなれば、自分のためではなくて、他人のためにであったことになるのだから、それを感じ取った人達にとってはなおさら輝きが増して見えたに違いない。

 続きへ
前へ 
 “「松田甚次郎の再評価」の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

《出版案内》
 この度、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))

を出版しました。その目次は次の通りです。

 そして、後書きである「おわりに」は下掲の通りです。



 本書の購入を希望なさる方は、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
 なお、岩手県内の書店における店頭販売は10月10日頃から、アマゾンでの取り扱いは10月末頃からとなります。
            
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 物見山(10/18、ノハラアザミ) | トップ | 物見山(10/18、ノアザミ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

甚次郎と賢治」カテゴリの最新記事