みちのくの山野草

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本日の下根子桜(1/6)1

2021-01-06 18:00:00 | 下根子桜八景
《1 》(2021年1月6日撮影)

《2 》(2021年1月6日撮影)

《3 》(2021年1月6日撮影)

《4 》(2021年1月6日撮影)

《5 》(2021年1月6日撮影)

《6 》(2021年1月6日撮影)


 さて、今から94年前の今日、賢治はここ下根子桜でどうしていたか。つまり、昭和2年の今日(1月6日)何をしていたか。それは賢治の日記を見てみればわかるかもしれない。というのは、一般に賢治は日記を付けなかったといわれているようだが、少なくとも昭和2年には日記を付けていたからだ。いわゆる、
【「手帳断片A」】

            〈『昭和2年の賢治の日記帳(印刷上は「大正十六年日記」)』》<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)〉
が残っているからだ。この「手帳断片A」の1頁目には『大正十六年日記』というタイトルが印刷されているが、もちろん前年末に改元されたから実質的には『昭和二年日記』ということになる。
 そしてその3頁、「1月1日(土)」の欄に賢治は、
    国語及エスペラント
    音聲學

とペン書きしている。賢治はこの日に
    国語、エスペラント、音声学
などを学んだということであろう。
 一方の、MEMO欄の
    本年中セロ一週一頁
    オルガン一週一課

のペン書きの方は、昭和2年の年頭に当たって立てた賢治の「一年の計」と考えていいだろう。
 そして、この記載の仕方からは、
・この時点ではオルガンの練習よりはチェロの練習の方を優先させていたということ。
・とはいえ、「セロ一頁」に対して「オルガン一課」だからおそらくオルガンに比べてチェロの腕前は未熟であったであろうこと。
・「セロ一週一頁」の「一頁」とは大津から貰った『ウエルナー教則本』に対するものかもしれないこと。
・一般に賢治は日記を書かなかった人のようだが、この昭和2年だけは他の年と違って日記を書き始めたということになりそうだから、少なくとも昭和2年に対する念頭の意気込みはかなり強かったであろうこと。
などが読み取れる。よって、昭和2年の賢治の日記からは、
 昭和2年の賢治は年頭に一年の計「本年中セロ一週一頁」を立て、かなりの意気込みで「年内にチェロが上達すること」を目指していた。
ということが言えよう。
 ただし、実はこの『昭和二年日記』は6頁までしか残っておらず、残りの分の記載は以下のようなものである。
1月2日   varma
1月3日   varma
1月4日   varma
1月5日 伊藤熊蔵氏仝竹蔵氏等来訪 中野新左久氏往訪
1月6日   klara m varma
1月7日 中館武左エ門氏 田中縫次郎氏 照井謹二郎君 伊藤直見君来訪
1月8日   venta kaj varma
1月9日  (記載なし)
1月10日 肥料設計
             <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408p~> 
というわけで、昭和2年前の今日(1/6)は「klara m varma(晴 稍暖)」と書いてあるだけで何をしていたかというとはこの日記からはわからないが、この日は晴で稍暖かかったようだ。
 なお、前日(1/5)賢治は花巻農学校の校長中野新左久に挨拶に行っているということになるから、賢治はもう既に花巻農学校は辞めていたというのに、わざわざ松の内に中野に新年の挨拶に行っていたということになろう。ということは、一般に言われているほどには賢治は中野に対して距離を置いていなかったのではなかろうか。
 次に、明日(1/7)はわざわざ中館武左エ門が賢治の許を訪ねて来ているのだから、二人の間はそれ程険悪だったはずがない。なのにそれが、昭和7年になると、どうしてあんなにもひどい書簡(下書)<*1>、つまり、
 「御親切なる御手紙を賜り」と慇懃に始まったと思いきや、最後はなんと吃驚「呵々。妄言多謝」ということで、さぞかし賢治は中舘をこっぴどく嘲ってみたかったのだろう。おそらく、中舘からの来簡に対して賢治は腸が煮えくりかえっていたに違いないような書簡。
を賢治は書くようになったのだろうか不思議だ、
 そしてもう一つ不思議なことは、大正15年の紫波郡(内の赤石村・志和村・不動村等)は未曾有の大旱害のために、年が明けた昭和2年も『岩手日報』等は連日のようにその悲惨さを報道していたのだが、その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」という羅須地人協会員の証言は見つかっても、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」と詠んだ賢治がこの時期にその救援の為に東奔西走したという証言も裏付けも、何一つ見つからないことがだ。この時の大干魃に対しては地元はもとより仙台の女学生や、あちこちから、そして中には東京の小学生からさえも義捐の手が差し伸べられていたというのにだ。そして、もちろんあの松田甚次郎も同様にだ。

<*1:投稿者註> 〔422a〕中舘武左衛門宛書簡下書
  中舘武左衛門様                          宮沢賢治拝
     風邪臥床中鉛筆書き被下御免度候
拝復 御親切なる御手紙を賜り難有御礼申上候 承れば尊台此の度既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教御啓発の趣御本懐斯事と存じ候 但し昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亙りて憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり此等と混同せらるゝ様有之ては甚御不本意と存候儘何分の慎重なる御用意を切に奉仰候。
 次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て一昨年より昨年は漸く恢復、一肥料工場の嘱託として病後を働き居り候処昨秋再び病み今春癒え尚加養中に御座候。小生の病悩は肉体的に遺伝になき労働をなしたることにもより候へども矢張亡妹同様内容弱きに御座候。諸方の神託等によれば先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓引きたる為との事尤も存じ候。然れども再び健康を得ば父母の許しのもとに家を離れたくと存じ居り候。
 尚御心配の何か小生身辺の事別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之、御安神願奉度、却つて新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなど俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。    敬具
             <『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)525p~>
というものだ。

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