みちのくの山野草

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「千葉恭は件の楽団の一員であり、マンドリンを担当」

2024-04-18 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 それからもう一つ、宮沢賢治イーハトーブ館出版の『拡がりゆく賢治宇宙』の中に次のような記載があることも知った。それは、賢治が「下根子桜」の近所の青年たちと結成した件(くだん)の楽団のメンバーについての、

   第1ヴァイオリン  伊藤克巳(ママ)
   第2ヴァイオリン  伊藤清
   第2ヴァイオリン  高橋慶吾
   フルート      伊藤忠一
   クラリネツト    伊藤与蔵
   オルガン、セロ   宮澤賢治
 時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。

              〈『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)79p〉

という記載である。つまりこの楽団に、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです」と、推定表現ではあるものの「千葉恭」の名前がそこにあったのである。ということは、「羅須地人協会時代」に恭は時にこの楽団でマンドリンを弾いていたようだということになるから、恭が下根子桜の別宅に来ていた蓋然性が高いということをこの記載は意味している。
 なお、このことに関しての『新校本年譜』の記載は、
   しかし音楽をやる者はほかにマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり
              〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)314p〉
というように、推定の「あったようです」が「おり」と断定表現に変わっているとともに、「千葉恭」の名前だけがするりと抜け落ちている。そこで、どうして「賢治年譜」には恭だけが抜け落ちているのですかとイーハトーブ館を訪ねて関係者に訊ねたところ、「それは一人の証言しかないからです」という回答だった。もしそういうことであればそれは尤もなことである<*1>。
 ところで、そもそも「それは一人の証言しかないからです」というところの「一人」とは一体誰のことだろうかと思って調べ廻ったところ、この楽団メンバーの記述を担当した人は阿部弥之氏であることを知った。そこで同氏に、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです」となぜ記述できたのですかと同氏に問うと、
 あれですか、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という証言は、私が直接平來作本人から聞いたものです。
とその根拠を教えてもらった。よってこれで証言者が確定した。賢治の身辺にいた教え子の平來作であったのだ。
 そこで次に私はその裏付けを取ってみようと思っていたので、実はそのためもあって、先に述べた平成22年12月15日に恭の三男滿夫氏に会いに行った。そして、同氏に「お父さんはマンドリンを持っていませんでしたか」と訊ねてみたところ、「はい持っていましたよ」という回答であった。さらに長男益夫氏からは、そのマンドリンに関する面白いエピソードまで教えてもらった。したがって二人の子息の証言から、前掲の「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という記載はほぼ事実であったと言えるだろう。それは、当時岩手でマンドリンを持っていた人は珍しかったはずだからなおさらにである。
 これで、「恭は件の楽団の一員であり、マンドリンを担当していた」ということについてのかなり確度の高い裏付けも私は取れた。よって、「当時身辺にいた」教え子の平來作が、「恭は「羅須地人協会時代」に下根子桜の別宅に来ていた」ということを実質的に証言していたことになり、これはほぼ事実であったと判断できた。もちろん、こう判断できたのも恭の二人の子息の証言等があったからであり、これで、『拡がりゆく賢治宇宙』の「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という記載については、「それは一人の証言しかないからです」という理由によって棄却することはできなくなったし、逆にその信憑性は極めて高いものとなったと言える。
 したがって、賢治が設計したと言える前掲の3枚の〔施肥表A〕と、この平來作の証言によって、恭の下根子桜での宮澤家別宅寄寓が客観的にも裏付けられたと言えるから、前回、
 先に定立した
〈仮説1〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
の妥当性に私はますます確信を持った。
ところなので、今回のことと合わせれば、この〈仮説1〉については反例も今のところ見つかってもいないこともあり、もはや検証出来たと言える。つまり、今後この反例が見つからない限りはという限定付きではあるが、この〈仮説1〉は「事実」であるとして構わないだろう。

 そして、これで、当時身辺にいた人々が、どうして千葉氏に言及していないのか、不思議ですね」という疑問に対して、私はある程度回答が出来たと安堵した。賢治自身及び賢治の身辺にいた教え子の平来作が言及しでおりました、と。

<*1:投稿者註> とはいえ、『校本宮澤賢治全集第十四巻』等には、一つだけのもの、典拠が不確かなもの、のみならずそれさえも示されていないものも垣間見られる(具体的には、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(録繙堂出版、令和5年)等をご覧いただきたい)。

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  『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

 目次は下掲のとおりで、

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