《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)
一読して変な文章
そこで次に、この「あとがき」で挙げている関の「三冊」を、出版年を遡って澤里武治の証言に注目しながら少し調べてみた。
(1)『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年)
まず、『宮沢賢治物語』には次のようなことが書かれているが……
セロ
澤里武治氏からきいた話
どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(投稿者略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(投稿者略)…その十一月のびしよびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
「澤里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三カ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
【「セロ 澤里武治氏からきいた話」】澤里武治氏からきいた話
どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(投稿者略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(投稿者略)…その十一月のびしよびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
「澤里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三カ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
〈『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)217p〉
一読して変な文章であり、意味がすんなりと通じにくい。
(2)『續 宮澤賢治素描』(昭和23年)
では次に、『續 宮澤賢治素描』においてはどうかというと、
澤里武治氏聞書
確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三カ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。驛の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふことは私としてはどうしてもしのびなかつた。また先生と音樂について樣々の話をし合ふことは私としては大変樂しい事でありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三カ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)60p~〉確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三カ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。驛の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふことは私としてはどうしてもしのびなかつた。また先生と音樂について樣々の話をし合ふことは私としては大変樂しい事でありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三カ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
となっていて、前者と似た内容ではあるが、こちらであれば意味はすんなりと通ずる。
しかも後者の冒頭では「確か」という措辞がなされているから、『賢治は「昭和二年十一月頃」の霙の降る日に私一人に見送られながらチェロを持って上京した、ということはまず間違いない』という意味のことを、武治は相当の確信を持って言っていたことになる。その上、著者の関も同書の「序」で、
果たしてこの私の採錄が正しいかどうか、書上げた上に、一度はその物語りの人達の眼を通しては頂いたが、それでも多少の不安がないでもない。
というように慎重を期していたから、逆に同書の証言内容の信憑性はかなり高いと期待できる。最後に『宮澤賢治素描』についてだが、昭和22年版、同18年版のいずれにも武治のこの証言は載っていなかったから、同証言の初出は〝(2)『續 宮澤賢治素描』〟であったこともこれで分かった。
それから、この証言に関してとても重要なものが見つかった。それは、 『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』であり、このノートの冒頭に書かれていた件の武治の証言は次のようになっていた。
(3)『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』
三月八日
確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村(〈註一〉)に於て、農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「澤里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞険(ママ)だ少くとも三カ月は滞京する 俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
其の時花巻駅…(この部分は基本的に前項〝(2)〟と同じだったから割愛)…そして先生は三カ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
〈関登久也の『原稿ノート』(日本現代詩歌文学館所蔵)〉確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村(〈註一〉)に於て、農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「澤里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞険(ママ)だ少くとも三カ月は滞京する 俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
其の時花巻駅…(この部分は基本的に前項〝(2)〟と同じだったから割愛)…そして先生は三カ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
そして、この『原稿ノート』の表紙には〝1.續 宮澤賢治素描/昭和十九年三月八日〟と書かれていた。よって前々頁の「澤里武治氏聞書」、つまり件の武治の証言は、同ノートの場合のタイトルが「三月八日」となっていることからして、昭和19年3月8日に聴き取ったものと判断できる。
したがって、厳密にはこの『原稿ノート』の方が論考等において最も尊重されねばならないはずの一次情報となるのであろうが、これは簡単には閲覧出来ないし、『原稿ノート』とその出版物の中身は基本的には違いがなかったから、同証言の現実的な初出は、出版物の〝(2)『續 宮澤賢治素描』〟においてであり、これがこの場合の一次情報であると私は位置づけることにした。
言い方を変えれば、石井洋二郎氏が鳴す警鐘『必ず一次情報に立ち返って』としてはこの場合、〝(2)『續 宮澤賢治素描』〟に立ち返ることであると私には判断が出来た。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
であり、その目次は下掲のとおりである。
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