みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

農繁期の稲作指導(『宮澤賢治論』(境著)より)

2016-07-11 09:00:00 | 賢治の稲作指導
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 それでは今回は、「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために奔走したということと関連しそうな記述を『宮澤賢治論』(境忠一著、桜楓社)から探してみたい。
 
《『宮澤賢治論』》(境忠一著、桜楓社、昭和50年11月)
 ・「『春と修羅』と『銅鑼』」には、
 このなかで、特に第三集の終わりの部分をみると、「心象スケッチ」がどのような形で終わったかがよくわかるが、たとえば農村活動にはいって、第二年目にあたる昭和二年の九月までは、毎月継続的にスケッチされているが、九月以降、昭和三年四月まで、作品が途切れてしまう。そして、昭和三年四月は「台地」一篇、七月は「停留所にてスヰトンを喫す」「穂孕期」の二篇のわずか三篇で終わってしまうのである。…(投稿者略)…
 『春と修羅』は日付のない第四集が、没後全集の編集者によって編集されているが、その中には、たとえば「(澱った光の澱の底)」のように昭和三年と推定されるものがあるし、「三原三部」や「東京」といった組詩もこの年に成っているので、賢治が三篇しか書かなかったということにはならないが、少なくとも、毎月、日付をつけて書きつづけてきた心象スケッチが、七年目の昭和三年になって、ふっつり切れていることはいえる。それは、この年が彼の農村活動の三年目にあたっていて、ますます多忙であったこと、特にこの年は天候不順で、八月に倒れるまで走りまわり、彼の関心が文学から農村活動にうつっていったことを示すものであろうが、心象スケッチ『春と修羅』が大正十一年にはじまり、昭和三年に終わっていることに、その思想と作品の必然性が出ていると考えられる。昭和三年といえば、いうまでもなく『戦旗』についで『詩と詩論』が創刊され、いわゆる現代詩がはじまった年であった
              <173p~>
とあったので、まずは以前に作成した【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】を下掲してみる。

             <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
基本的にはこの図表は境の述べていることと一致している。ちなみに、私の場合のカウント
    昭和3年6月:創作数7篇
の仕方は、
    <高架線> <三原三部>の3篇 <浮世絵展覧会印象> <丸善階上喫煙室小景> <神田の夜>
の計7篇である。

 問題はこのことから何が言えるかということだろう。境は、この年が彼の農村活動の三年目にあたっていて、
 (1)ますます多忙であったこと
 (2)特にこの年は天候不順で
 (3)八月に倒れるまで走りまわり
という三項目を根拠にして、
 (4)彼の関心が文学から農村活動にうつっていったことを示すものであろう
と推論していた。もちろん私はその可能性を否定はしないが、はたしてまず(1)~(3)がどれくらい事実であったのだろうかということに私は不安を抱く。
 まず(1)に関しては、もしそうであったとするならば、わざわざとりわけ多忙な田植時の農繁期に「約三週間ほど」の上京をし、しかも「大島行」が終わってからも直ぐは帰花せずに、火急のこととは思えぬ『MEMO FLORA手帳』へのスケッチをしていたというのは何故だったのだろうか。一方で、多忙であったことが(4)を引き起こした一つの理由だというのであれば、では、農閑期の多忙でない昭和2年10月~12月の詩の創作が何故皆無であったのだろうか(このことに対しての私見は後述する)という、矛盾も解消せねばなるまい。
 次に(2)についてだが、たしかに昭和3年は7月半ば頃から40日以上もの間花巻一帯では日照りが続いたことは間違いない事実だったが、さりとてその対策の為に賢治が盛岡測候所や水沢緯度観測所を訪ねたとしても、その成果は殆ど期待できない(だから、それ程頻繁にそこへ訪問を繰り返してい訳でもなかろう)。いかな賢治といえども雨を降らすことはできないからだ。もちろんこの年は、「天候不順」といえば言えなくもないが、だからといって必ずしも不作になるとは限らない。実際、この年はそれこそ「日照りに不作なし」の諺通りで、稗貫の米の作柄は平年作以上であったと言える。このことと、6月の農繁期には約三週間ほど呑気に滞京していたと思われる賢治であったことを合わせて判断すれば、この年が天候不順だったとしても賢治がそれほど東奔西走していたとは考えにくい。
 最後に(3)についても、巷間「昭和3年8月 心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り……」と云われているようだが、そうとは言い切れないことは以前〝昭和3年の賢治の稲作指導〟において実証したところである。つまり、(3)が事実であったとは言い切れない。

 したがって誤解を恐れずに言えば、私から見ればあやかしがあるこれらの(1)~(3)を根拠にして(4)であろうとは推論できないし、可能性という点でいうのであれば、この(4)が原因だったというよりは、もはや当時の賢治は詩嚢が痩せ細ってしまっていたからだったということだった考えられる。言ってしまえば、可能性ならほぼどんなことだって言えるわけで、それよりも大事なことは、可能性ではなくてその蓋然性の高さであろう。そういう点で言えば、この時期の賢治はかつての賢治とは違ってしまってやる気が萎えていたということの蓋然性が高いことを、〔240〕〔七月初め〕 伊藤七雄宛賢治書簡下書(一)中の「こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りましたが端的に教えてくれている。あるいはまた、佐藤竜一氏が主張しているようにこの時の6月の上京は逃避行だったという見方も確かにできる。そこでこれらのことからは、「彼の関心が文学から農村活動にうつっていった」というよりは、「彼の関心が従前のような下根子桜での活動や文学から薄れてしまっていた」という見方の方が私には妥当だと見える。だから、この頃の賢治に関しては、
    何もかもやる気が萎えていた→詩嚢も痩せ細ってしまった→「作品が途切れてしまう
という図式が成り立っていたと私は考えているし、少なくともこちらの方の蓋然性が高いのではなかろうか。
 
 そしてまだ述べておきたいことがある。それは、「ふっつり切れている」というのであれば、それは「農村活動の三年目」においてだけではなくて、その二年目の10月からもう既に始まっているのだから、この「作品が途切れてしまう」切っ掛けは昭和3年のことを考察しても見出しにくかろう。それ故、境にはこの二年目の10月頃に何があったかを考察してもらいたかった。そして私ならば、次の3点
 (1) 高瀬露が下根子桜の出入りを遠慮し出したのは昭和2年の秋頃からという意味のことを露本人が証言していること。
 (2) 伊藤ちゑが賢治との見合いの為に花巻を訪れたのは昭和2年の10月である蓋然性が極めて高いこと。
 (3) 賢治は「昭和二年十一月頃」、『澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる』と澤里武治に言い伝えて上京したこと。
を挙げて考察すれば、これらの三つがその「切っ掛け」としては十分に成り立ちうると判断できそうだ。

 それから最後に、境は折角
 心象スケッチ『春と修羅』が大正十一年にはじまり、昭和三年に終わっていることに、その思想と作品の必然性が出ていると考えられる。昭和三年といえば、いうまでもなく『戦旗』についで『詩と詩論』が創刊され、いわゆる現代詩がはじまった年であった
と思想面や時代背景に関しても論じているのだから、これをもっと敷衍して、昭和3年に岩手で凄まじい「アカ狩り」があったことに気付き、それが昭和3年の賢治に決定的な影響を及ぼしたことにも、そしてその「必然性」にもそれぞれ言及してほしかった。

 とまれ、同書からは「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のため東奔西走したということの確たる裏付けとなるものは、今回もまた私には見つけられなかった。

 続きへ
前へ 
 “『「羅須地人協会時代」の賢治の農繁期の稲作指導』の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大森山(7/8、花) | トップ | 五葉山石楠花満開(速報、7/11) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治の稲作指導」カテゴリの最新記事