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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
冤罪とも言える〈悪女 高瀬露〉
今から約10年前、私はどうやらパンドラの箱を開けてしまったようだということに気付き、ここまで賢治のことを調べ続けてきた。そして結果的には、いくつかの「賢治神話」等を検証したことになり、そこにはあやかしもあったということを明らかにできたり、新たな「真実」等も明らかにできたりしたと思っている。
そして、これらの一つ一つが恩師岩田教授が嘆いたあの「いろいろなこと」に当たっていたのだろうと私は得心し、幾ばくかは恩師に恩返しができたものと思って今は安堵している。
一方私自身は、自然科学者の端くれとして真実を識りたいという一念だったから、「仮説検証型研究」によっていくつかの仮説を検証できたりして個人的には充分に満足している。しかも、それらについてこうしてここまで公に述べることができたのだから、思い残すことはある一つの事柄を除いてはもうほぼない。
ではその思い残すこととは何か。それは一連の検証作業を通じて、高瀬露が客観的な根拠もなく〈悪女〉にでっち上げられたことも実証できたのだが、この捏造された〈悪女・高瀬露〉が流布している現状についてだけは他のこととは異って人権問題だから、このことを識った以上は、冤罪とも言えるこの理不尽を周りに訴え続けてゆかねばならないということだ。
そこでこのことについて、以下に少し詳しく述べてみたい。
「一九二七年の秋の日」下根子桜訪問はあやかし
まずは、『新校本年譜』には次のようなことが述べられているのだがこれもまたおかしいということを論じてみたい。それはまず、『新校本年譜』の昭和2年の項に、
秋〔推定〕森佐一(森荘已池)「追憶記」によると、「一九二八年の秋の日」村の住居を訪ね、途中、林の中で、昂奮に真っ赤に上気し、ぎらぎらと光る目をした女性(高瀬露のこと:筆者註)に会った。家へつくと「今途中で会つたでせう、女臭くていかんですよ……」と窓をあけ放していて…(筆者略)…
翌朝、…(筆者略)…赤い実をとってたべた。「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
という記述がであり、その最後の「本年に置く」という判断の仕方がおかしいのである。
なぜならば、この
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
という記述に従えば、同年譜は「一九二八年の秋の日」を「一九二七年の秋の日」と読み変え、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと判断していることになるわけだが、このような判断の仕方は安直であり、論理的でもないからだ。そもそも肝心の、大前提となるそのような「村の住居(下根子桜の宮澤家別宅)」訪問自体がたしかにあったという保証は何ら示せていないではないか。
しかも実際問題、上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡」中に、「露の下根子桜訪問期間は大正15年秋~昭和2年夏であった」という意味の露本人の証言が紹介されている(〈註一〉)から、「一九二七年(昭和2年)の秋」に森が下根子桜の宮沢家別宅を訪問したとしても、その途中で露とすれ違うことはできないということになるのでその保証が必要だろう。
しかもよくよく調べてみたならば、賢治が亡くなった翌年の
・昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』でも、
一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。途中、林の中で、昂奮に真つ赤に上氣し、ぎらぎらと光る目をした女性に會つた。家へつくと宮澤さんはしきりに窓をあけ放してゐるところだつた。
――今途中で會つたでせう、女臭くていかんですよ……
<『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年)、33p>
・『宮澤賢治研究』(昭14)でも、
一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。途中、林の中で昂奮に真つ赤に上氣し、ぎらぎらと光る目をした女性に會つた。家へつくと宮澤さんはしきりに窓をあけ放してゐるところだつた。
――今途中で會つたでせう、女臭くていかんですよ……
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年9月)、346p「追憶記」>
・『宮澤賢治と三人の女性』(昭24)でも、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。國道から田圃路に入って行くと稲田のつきるところから、やがて左手に薮、右手に杉と雑木の混有林に入る。静かな日差しのなかに木の枯れ葉が匂い、堰の水音がした。
ふと向こうから人のくる気配だった。私がそれと気づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。(湿った道と、そのひとのはいているフェルトの草履が音をたてなかったのだ。)私は目を真直ぐにあげて、そのひとを見た。二十二三才の女の人で和服だった。派手ではなかったが、上品な柄の着物だった。私はその顔を見て、異常だと直感した。目がきらきらと輝いていた。そして丸顔の両頬がかっかっと燃えるように赤かった。全部の顔いろが小麦いろゆえ、燃える頬はりんごのように健康な色だった。かなりの精神の昂奮でないと、ひとはこんなにからだ全体で上気するものではなかった。
歓喜とか、そういう単純なものを超えて、からだの中で焔が燃えさかっているような感じだった。
私はそれまで、この女の人についての知識はひとかけらも持ち合わせていなかった。――が、宮沢さんのところを訪ねて帰ってきたんだなと直感した。私は半身、斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振り返らなかった。
畑のそばのみちを通り過ぎ、前方に家が見えてきた。二階に音がした。しきりにガラス窓をあけている賢治を見た。彼は私に氣がつくと、ニコニコツと笑つた。明るい、いつもの顔だつた。私達は縁側に座を占めた。彼はじつと私の心の底をのぞきこむようにして
「いま、とちゆうで会つたでしょう?」
といきなりきいた。
「ハア――――」
と私が答え、あとは何もいわなかつた。少しの沈黙があつた――――。
「おんな臭くて、いかんですよ。」
彼はそういうと、すつぱいように笑つた。彼女が残して行つた。((ママ))烈しい感情と香料と体臭とを北上川から吹き上げる風が吹き払つて行つた。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、
昭和24年)、74p~>
・そして『宮沢賢治の肖像』(昭49)でも、
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。国道から田圃路に入って行くと稲田のつきるところから、やがて左手に薮、右手に杉と雑木の混有林に入る。静かな日射しのなかに木の枯れ葉が匂い、堰の水音がした。
ふと向こうから人のくる気配だった。私はそれと気づいたときは、そのひとは、もはや三四間向こうにきていた。
<『宮沢賢治の肖像』(津軽書房、昭和49年10月)、159p>
というように、皆、その下根子桜訪問の時期を森は「一九二八年の秋」としていて、決して「一九二七年の秋」とはしていなかった。こういうことであれば、常識的には「一九二七年の秋」に森は下根子桜を訪問していなかったと判断するのが普通だろう。
そんな時にふと思い出したのが、この『宮澤賢治と三人の女性』では西暦が殆ど使われていなかったはずだということだ。そこでそのことを調べてみたならば案の定、全体で和暦が38ヶ所もあったのに西暦は1ヶ所しかなく、それがまさにこの「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の個所だけだった。しかも、同じ年を表す和暦の「昭和三年」を他の5ヶ所で使っているというのに、だ。
ということであれば常識的に考えて、もはやこれはケアレスミスなどでは決してなく、彼にはその訪問の年を「一九二七年」とはどうしても書けない何らかの「理由」が存在していたという蓋然性が高いと言えるし、そこでは「昭和三年」も使っていないということから、よからぬ企てがそこにあったと彼は疑われても致し方がなかろう。
したがって今まで調べてきたことも併せて考えれば、件の「下根子桜訪問」の年を森は決して「一九二七年」と書くわけにはいかなかったと、おのずから、同年の秋の日に森はそのような訪問もしていなかったと判断せざるを得なくなりそうだ。今までの「大前提」が崩れ去り、この訪問自体が実は虚構だったということがいよいよ現実味を帯びてきた。
更に事態はもっと深刻だ。「その時(昭和3年)に賢治は病臥中なので本年(同2年)に置く」という『新校本年譜』の論理ならば、それと同様に、これとは相容れない「その時(同2年)に森は病臥中なので本年(同2年)には置けない」という論理も実は同時に存在しているからだ。
というのは、『森荘已池年譜』(浦田敬三編)等によれば、森は
・大正15年11月25日頃、心臓脚気と結核性肋膜炎を患って帰郷。
その後盛岡で長い療養生活。
・昭和2年3月 盛岡病院に入院。
・昭和3年6月 病気快癒、岩手日報入社。
ということだから、このような重病の森が「一九二七年(昭和2年)の秋の日」に下根子桜を訪問することは実際上困難だったろうから、「その時(同2年)に森は病臥中なので本年(同2年)には置けない」というこも成り立ち得るから尚のこと、森のそのような「下根子桜訪問」自体があったという裏付けを同年譜は取らなければなかったはずだ。
一方私がいくら探してみても、「一九二七年の秋」に森のそのような訪問があったということを裏付ける資料や証言は見つからない。また、もともと「一九二八年の秋」にその訪問があったということはもちろんあり得ない。その秋には既に賢治は実家に戻っていたからだ。したがって、どちらの年にしても森の件の訪問はなかったということにならざるを得ない。おのずから、その際に森が露とすれ違ったということも、そして先に引用したように、森荘已池は『宮澤賢治と三人の女性』で、
二階に音がした。しきりにガラス窓をあけている賢治を見た。……
「おんな臭くて、いかんですよ。」
彼はそういうと、すつぱいように笑つた。彼女が残して行つた。((ママ))烈しい感情と香料と体臭とを北上川から吹き上げる風が吹き払つて行つた。
と記述しているわけだが、これもほぼ単なる創作であったと言わざるを得ないだろう。しかも、森自身が同書でかたる「下根子桜訪問」については、後述するが他にもあやかしが多々見つかる。したがって、『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述は捏造であったと言った方が適確な表現になるかもしれない。
つまるところ、
森荘已池の「一九二八年の秋の日」の下根子桜訪問も、「一九二七年の秋の日」の下根子桜訪問も、その時に森が高瀬露とすれ違ったということも、その時に露が賢治の許を訪ねていたということもいずれも皆裏付けがあったり検証されたりしたものではなく、常識的に判断すれば、森の単なる創作であったと言われても致し方なかろう。当然、「「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く」という処理の仕方はやはり安直だと言わざるを得ないし、論理的でもなかったということである。所詮、「一九二七年の秋の日」の森の下根子桜訪問はあやかしにすぎない。
とならざるを得ないのではなかろうか。
<註一> 上田哲の論文「「宮澤賢治伝」の再検証㈡」の10pに、下根子桜を訪ねていた期間を直接露から聞いたという菊池映一氏の次の証言がある。
露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。露さんは賢治の名を出すときは必ず先生と敬称を付け、敬愛の心が顔に表われているのが感じられた。
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
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を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
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