みちのくの山野草

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㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について

2023-12-09 08:00:00 | 本統の賢治と本当の露
《『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ社)

 典拠だという「関『随聞』二一五頁の記述」自体が反例になっているという杜撰さ。





































********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 ㈡「羅須地人協会時代」の上京について
 どうやら賢治は東京が大好きだったようで、大正15年に花巻農学校を辞して「下根子桜」に住まっていた時代、いわゆる「羅須地人協会時代」の約二年四ヶ月の間にも何度か東京へ行っていたという。比較的はっきり分かっているものとしては、大正15年12月2日からの約一ヶ月間の滞京と、昭和3年6月の18日間ほどのそれがあろう。
 ところが今まで誰一人として公的には指摘していないし、なおかつ基本に忠実に調べれば容易に気付けることだと私は思っているのだが、前者の典拠がかなり危ういということを実証できた。さらには、これらの他にもこの時代に約三ヶ月間に亘る長期間の滞京を賢治がしていた蓋然性が極めて高いということも示すことができた。それはとりわけ、去る平成28年10月17日、「父はこれを書く際に相当悩んでいた」と付言しながら子息の裕氏が私に見せてくれた、澤里武治が74歳頃に書いたという自筆の三枚の資料(この資料はこれまで公になっていないはずだ)によってだ。
 もう少し具体的に言うと、その中の一枚〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟には、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり   (傍点筆者)
という記述があり、年は「大正十五年」と書いてあったものの、その月が定説の「12月」ではなくて「11月」のままだったからである。さらに、もう一枚の〝(その三)「附記」〟の方には、
 関徳弥氏(歌集寒峡の著者)の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載されその中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
と書かれていて、実は「大正15年12月12日付澤里武治宛賢治書簡」があったのだがこれが行方不明になっているという。しかも、この書簡内容も、その存在自体すらも公には知られていないことだ。ならば、同時代の上京に関して再検証をせねばならないと私は思ったのだった。そこで以下にその検証をしてみる。
 まず、いわゆる『新校本年譜』の大正15年12月2日の項についてである。そこには、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた(*)。
〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)325p〉
と記載されていて、賢治がこのような上京をした霙の降る寒い日は「大正15年12月2日」であったというのが定説となっている。
 ところが、この〝*65〟の註釈について同年譜は、
関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と、その変更の根拠も明示せずに、「…ものと見られる」とか「…のことと改めることになっている」と、まるで思考停止したかの如き、あるいは他人事のような註釈をしていたので私は吃驚した。
 そこで次に、〝関『随聞』二一五頁〟を実際に確認してみると、
 沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。             (傍点筆者)
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
となっていて、私は今度は愕然とした。
 それはまず、本来の武治の証言は「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」だったのだが、故意か過失かは判らぬが、同年譜の引用文では「少なくとも三か月は滞在する」の部分が綺麗さっぱりと抜け落ちていたからである。その上、この武治の証言の中で、「賢治が武治一人に見送られながらチェロを持って上京した日」が「大正15年12月2日」であったということも、「大正15年12月」であったということも、「大正15年」であったということも、「12月」であったことさえも、何一つ語られていなかったからである。
 その挙げ句、「先生は三か月間……帰郷なさいました」というところの「三か月間の滞京」を同年譜の大正15年12月2日以降に当て嵌めようとしても、次頁の《表2『現 宮澤賢治年譜(抜粋)』》から明らかなように、それができないという致命的欠陥があるからである。そしてこの致命的欠陥は次のことを逆に教えてくれる。典拠となっている「ものと見られる」というところの、〝関『随聞』二一五頁〟自体が実は同年譜の「大正15年12月2日」の記載内容の反例になっているということ、それゆえこの記載内容の少なくとも
一部は事実と言えないということ、延いては典拠が危ういということをである。
 一方で、武治の証言通りにこの「三か月間の滞京」を『新校本年譜』の昭和2年11月~同3年2月の間に当て嵌めようとようとすれば、次頁の《表3『現 宮澤賢治年譜(抜粋)』》から明らかなように、すんなりと当て嵌められる「三か月間」の空白があることが直ぐ判る。 したがって、まさにこの〝関『随聞』二一五頁〟が、
〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る
日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
が定立できるということを否応なく教えてくれている。
 さらに、『賢治随聞』には次のような問題点があることも知った。それは、昭和45年出版の同書の著者名が「関登久也」となってはいるものの、実は関自身が出版したものではなかったという問題点がである。関は疾うの昔の昭和32年に亡くなっていたからだ。
 ではなぜこのような不自然なことが為されたのか。そのことについては、森荘已池が書いた同書の次のような「あとがき」が教えてくれている。
 宗教者としては、法華経を通じて賢治の同信・同行、親戚としても深い縁にあった関登久也が、生前に、賢治について、三冊の主な著作をのこした。『宮沢賢治素描』と『続宮沢賢治素描』そして『宮沢賢治物語』である。…(筆者略)…
 さて、直接この本についてのことを書こう。
 『宮沢賢治素描』正・続の二冊は、聞きがきと口述筆記が主なものとなっていた。そのため重複するものがあったので、これを整理、配列を変えた。明らかな二、三の重要なあやまりは、これを正した。…(筆者略)…
 なお以上のような諸点の改稿は、すべて私の独断によって行ったものではなく、賢治令弟の清六氏との数回の懇談を得て、両人の考えが一致したことを付記する。
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川書店、昭和45年)277p~〉
つまり、宮澤清六と懇談の上で、森荘已池が関の既刊の著作を改稿して出版したのが〝関登久也著『賢治随聞』〟であったというのである。しかもこれに続けて森は、
 多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
という懇願まで述べているのだが、なんとも奇妙なことだ。関登久也に対してあまりにも失礼であり不遜な謂(いい)だ。そしてこの懇願を受けたかの如くに、『新校本年譜』はまさに「本書によって」(後に34pで述べるが、これは初出でも一次情報でもないというのにも拘らずである)いることが、先の〝*65〟の註釈から判る。
 そこで次に、この「あとがき」で挙げている関の「三冊」を、出版年を遡って澤里武治の証言に注目しながら少し調べてみた。 
(1)『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年)
 まず、『宮沢賢治物語』には次のようなことが書かれているが、
   沢里武治氏からきいた話
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(筆者略)…言語問題につき語る。」
 と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(筆者略)…その十一月のびしよびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。     (傍点筆者)〈『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)217p〉
というわけで、一読して変な文章であり、意味がすんなりと通じにくい。
(2)『續 宮澤賢治素描』(昭和23年) 
 では次に、『續 宮澤賢治素描』においてはどうかというと、
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。驛の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふことは私としてはどうしてもしのびなかつた。また先生と音樂について樣々の話をし合ふことは私としては大変樂しい事でありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)60p~〉
となっていて、こちらならば意味はすんなりと通ずる。
 しかもこの冒頭では「確か」という措辞がなされているから、『賢治は「昭和二年十一月頃」の霙の降る日に私一人に見送られながらチェロを持って上京した、ということはまず間違いない』という意味のことを、武治は相当の確信を持って言っていたことになる。その上、著者の関も同書の「序」で、
 果たしてこの私の採錄が正しいかどうか、書上げた上に、一度はその物語りの人達の眼を通しては頂いたが、それでも多少の不安がないでもない。
というように慎重を期していたから、逆に同書の証言内容の信憑性はかなり高いと期待できる。
 最後に『宮澤賢治素描』についてだが、昭和22年版、同18年版のいずれにも武治のこの証言は載っていなかったから、同証言の初出は〝(2)『續 宮澤賢治素描』〟であったこともこれで分かった。

 それから、この証言に関してとても重要なものが見つかった。それは論考等において最も尊重されねばならないはずの一次情報とも言える『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』であり、このノートの冒頭にに書かれていた件の武治の証言は次のようになっていた。
(3)『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』
        三月八日
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村(〈註一〉)に於て、農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞険(ママ)だ少くとも三ヶ月は滞京する 俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
 其の時花巻駅…(この部分は基本的に前項〝(2)〟と同じだったから割愛)…そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
〈関登久也の『原稿ノート』(日本現代詩歌文学館所蔵)〉
 そして、この『原稿ノート』の表紙には〝1.續 宮澤賢治素描/昭和十九年三月八日〟と書かれていた。よって前々頁の「澤里武治氏聞書」、つまり件の武治の証言は、同ノートの場合のタイトルが「三月八日」となっていることからして、昭和19年3月8日に聴き取ったものと判断できる。
 一方で、一読して変な文章の〝(1)『宮沢賢治物語』〟とは、同書の出版以前に『岩手日報』紙上に連載された関登久也の「宮澤賢治物語」を単行本化したものであり、件の武治の証言は新聞連載の場合には次のようになっていたことも知った。
(4) 「宮澤賢治物語」(昭和31年『岩手日報』連載)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには…(筆者略)…
 その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
 『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』…(筆者略)…
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
                      (傍点筆者)〈昭和31年2月22日付『岩手日報』掲載〉
 そこで〝(1)〟と〝(4)〟の両者を見比べてみたところ、一箇所だけ決定的に違っている箇所があった。それは、
  単行本の〝(1)『宮沢賢治物語』〟の場合における
  ・昭和二年には上京して花巻にはおりません。…………①
  新聞連載の〝(4)「宮澤賢治物語」〟の場合における
  ・昭和二年には先生は上京しておりません。 …………④
の部分だ。この両者の違いは決定的である。①ならば賢治は上京していることになるし、④ならば上京していないということになるからだ。そして、新聞連載の方の④は関存命中のもので、①は歿後のものだから、④の方が当然本来の記述であるはずだ。
 ということは、新聞連載の「宮澤賢治物語」を単行本化して『宮沢賢治物語』として出版する際に、関以外の人物がたまたま間違えたか、あるいは、わざとある意図の下に改竄したかのいずれかになるだろう。さて、それではどちらの方が起こっていたのか。
 まず、他の箇所は基本的には違っていないのにも拘わらず唯一この箇所だけが違っていることが確認できた。なおかつ、①と④とでは全く逆の意味になってしまう。それも重要な意味を持っている一文だ。したがって、たまたま間違えたわけではなくて意図的に改竄が行われていたと判断せざるを得ない(それゆえに、〝(4)「宮澤賢治物語」〟ならばすんなりと文章の意味が通じるが、〝(1)『宮沢賢治物語』〟の方は一読して変な文章だったということか)。
 では、なぜこのような「改竄」が可能だったのか。それについては、〝(1)『宮沢賢治物語』〟の次のような「後がき」が教えてくれる。
 単行本にまとめる企画を進めていたのが、まことに突然、三十二年二月十五日、関氏は死去されたのである。
 不幸中の幸として、生前から関氏は、整理は古館勝一氏に依頼したいということを明らかにしていた。監修は賢治の令弟宮沢清六氏にお願いし序文は草野心平氏に書いていたゞいた。
つまり、新聞連載を単行本化して出版する直前に関は亡くなってしまったので、最後の段階では関以外の人物が携わっていたからだと言えるだろう。
さてこうなってしまうと、賢治に関する論考等において使える件の武治の証言としては、『賢治随聞』や〝(1)『宮沢賢治物語』〟に所収されているものは著者である関以外の人物の手が加わっている蓋然性が高いということが判ったから除外されるべきだ。逆に、最もふさわしいのは一次情報とも言える〝(3)〟に、次にふさわしいのが初出の〝(2)〟に所収されているものとなろう。
 そこで、この〝(3)『原稿ノート』〟及び初出の〝(2)〟に所収されている件の武治の証言と〈仮説2〉(29p)を照らし合わせてみれば、この仮説そのものをズバリ裏付けてくれていることが直ぐ判るから、「羅須地人協会時代」の賢治の上京に関する〈仮説2〉の妥当性がまずは示された。
 しかも、このことに関しては次のような他の証言等、
 (a) 柳原昌悦の証言
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。    〈菊池忠二氏による柳原昌悦からの聞き取り〉
 (b) 伊藤清の証言
地人協会時代に、上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました。 
 〈『宮沢賢治物語』(昭和32)268p〉
 (c) K(高橋慶吾)とM(伊藤克己)の証言
K 先生の御病氣は昭和二年の秋頃から惡くなつたと思ふが――。
M よく記憶にないが東京へ行つてからだと思ふ。東京ではエス語、セロ、オルガンなど練習されたといふ話だつた。               〈『宮澤賢治素描』(関登久也著、協榮出版、昭和18)254p〉
 (d) 昭和3年1月16日付『詩人時代』編集部宛の賢治書簡
 病気も先の見透しがついて参りましたし、きつと心身を整へて、今一度何かにご一所いたしますから。
〈『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41)184p~〉
 (e) かつてのおしなべての「賢治年譜」の次のような記載
   昭和三年 一月……漸次身体衰弱す。
もあるから、先の〈仮説2〉(29p)の妥当性をさらに裏付けてくれる。
 つまり、まず(a)からは、この「あのとき」とは、「澤里一人に見送られて」と巷間言われている大正15年12月2日の上京の時のことをもちろん指しているはずで、その際は澤里だけでなく自分も一緒に賢治を見送ったと、職場の同僚だった賢治研究家菊池忠二氏に対して柳原が証言していたことが分かるからだ。
 次に(b)からは、「そして冬に」と言っているわけだから、賢治が花巻を出立した時期は当然「冬」ではなく、なおかつ、賢治が帰花したのは「冬」であるということになるので、〈仮説2〉のような上京であればピッタリと合うし、しかもこの他に、「羅須地人協会時代」のこのような上京は知られてはいないからだ。
 そして(c)については、羅須地人協会員のK(高橋慶吾)は賢治が「昭和二年の秋頃」から「御病気」が悪くなったと記憶していたことに対して、同じく協会員のM(伊藤克己)はそれは「東京へ行つてからだと思ふ」と話していたわけだから、その頃に上京した賢治は病気が悪くなったということになるので、先の仮説の妥当性をやはり傍証しているからだ。
 では(d)についてだが、これはそのものずばりで、昭和3年1月16日頃の賢治は病気であり、やっとその快復の見通しが立ってきたという意味のことを自分自身で語っていたからである。
 最後に(e)だが、これも前項と同様で、昭和3年1月頃の賢治は「漸次身体衰弱す」ということで、もちろん先の仮説を裏付けてくれるからである。

 ただし、問題が一つあった。それはこの仮説に対する反例となり得るかもしれないものが見つかったからだ。具体的には、
 花巻駅までチェロをかついで見送った沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(筆者略)…「昭和二年十一月頃」だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。 …………★
〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社、平成10)68p〉
という、武治が自説の修正をしたともとられる〝★〟が見つかったからだ。それ故、この〈仮説2〉(29p)には反例が全くないと言えるのかという指摘がなされ得る、という弱点があった。そこでこれまでの私は、この〈仮説2〉には反例が全くないとは実は言い切れずにいた。
 ところが、先に26pで掲げたように、澤里武治(79歳歿)は、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
(傍点筆者)
と晩年(74歳頃)でも書いていたことをこの度私は知ったし、こちらは〝★〟とは違っていて、「大正十五年」ではなくて「大正十五年十一月末日」だった。つまり、チェロを持って上京する賢治を武治一人が見送ったという月は、定説の「12月」ではなくて晩年でも「11月」のままだった。武治は終始一貫して「11月」であると主張していたことになる。したがって、彼は修正していたとまでは言えないと私には判断できた。
 なぜならば、もし武治が本心から自説の間違いを認めて修正したということであれば、定説ではその上京の日は「大正15年12月2日」となっているので、「大正十五年十一月末日」であってはそうならないからである。一方で、武治が「大正十五年」と書いていたのは、不本意ながらもやむを得ず「定説」と折り合い(〈註二〉)を付けて妥協するしかなかった(あるいは逆に、「11月」は彼の矜恃だった)ということも充分にあり得るからだ。
 だから『新校本年譜』の担当者がまず為さねばならなかったことは、件の「三か月間の滞京」が、定説となっている「大正15年12月2日、チェロを持って上京する賢治を武治一人が見送った」の反例になっているということに気付くことであり、次に、この「定説」には反例があったのだからそれを棄却(〈註三〉)することであった。しかし現実には、前者も後者も為されなかった。それは逆に言えば、武治は万やむを得ず折り合いを付けたという蓋然性が極めて高いということであり、おのずから〝★〟は〈仮説2〉の反例とまでは言えない。よって、この仮説の反例は今のところ見つからないからその検証が完了したので、今後この反例が見つからない限りはという限定付きで、〈仮説2〉は「真実」となる。
 さて、ここまでの「仮説検証型研究」によって、賢治が大正15年12月2日に武治一人に見送られながらチェロを持って上京したということは事実であったとは言えないということを、一方で、賢治には昭和2年11月頃からの三ヶ月間に亘るチェロ猛勉強のための長期滞京があったという、新たな真実を明らかにできた。同時に、「三ヶ月間の滞京」期間もこれで問題なく同年譜にすんなりと当て嵌まるので、先の致命的欠陥もこれであっさりと解消できた。
 したがって、この〈仮説2〉に対する反例が今後提示されない限り、最初の《表1の1~4「修訂 宮澤賢治年譜」》にも掲げたように、本当のところは、
・大正15年12月2日:〔柳原、〕澤里に見送られながら上京(この時に「セロを持ち」という保証はない)。
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三ヶ月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
であったとなる。つまり、新たな真実が明らかとなったので、現「賢治年譜」はその修訂が迫られている。
 最後に、武治宛賢治書簡は本来は約17通程残っていたのだが、どういうわけか「大正15年12月12日付」の一通については現在行方不明であるということだから、この書簡が発見されることを願ってこの節〝㈡〟を終えたい。それが発見されれば、一連の顚末の真相がさらにはっきりするであろうからだ。
(詳細は拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』を参照されたい)

 なお、この節の私の主張は、いわば「賢治の昭和二年上京説」は、拙ブログ『みちのくの山野草』においてかつて投稿した「賢治の10回目の上京の可能性」に当たる。その投稿の最終回において入沢康夫氏から、
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09「賢治の十回目の上京の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを頂いた。しかもご自身のツイッター上で、
入沢康夫 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知った。そこで私は、同氏からこの〈仮説2〉に、そしておのずから、チェロ猛勉強のための「賢治の昭和二年上京説」に強力な支持を得ているものと認識している。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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