みちのくの山野草

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㈠ 「独居自炊」とは言い切れない

2023-12-06 16:00:00 | 本統の賢治と本当の露
《『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ社)






































********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 2.「賢治神話」検証七点
 それでは、常識的に考えればこれはおかしいと思われ、しかも検証してみたところやはりおかしかったものの中から、主だったもの七点を以下にそれぞれ取り上げてみたい。

 ㈠「独居自炊」とは言い切れない
 私が最初におかしいと思ったのは「旧校本年譜」の大正15年7月25日の項の次の記述、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。 〈『校本全集第十四巻』〉
だった。えっ、ということは違っていたんだ。私は軽いショックを覚えた。「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったと巷間言われているはずだが、そこに「寝泊まりしていた千葉恭」とあるから、少なくとも「下根子桜」に移り住んだその年の夏に、ある人物が賢治と一緒に暮らし続けていたということになる。となれば、「独居自炊」という通説が危ぶまれるからだ。
 そして、そもそもこの千葉恭とは如何なる人物だったのだろうか? そんな人物が下根子桜の宮澤家別宅に寄寓していたことなど全く知らなかった私の頭の中はしばし混乱した。そこで、千葉恭なる人物のことをもっと知りたいと思ったのだが、いつ頃からいつ頃まで賢治のところに寝泊りしていたのかも、その出身地さえも含めて、恭自身のことに関してはあの膨大な『校本宮澤賢治全集』のどの巻にも殆ど何も書かれていなかった。となれば自分で調べるしかない。
 するとそれとは逆に、賢治関連の論考の中で、恭自身が行った講演内容や彼の著した追想等が資料として沢山使われていることを知った。例えば恭の講演「羅須地人協会時代の賢治」では、
 文学に関しては、私は何も知ることはありませんが、私が賢治と一しよに生活してまいりましたのは私自身百姓に生れ純粹に百姓としての一つの道を生きようと思つたからでした。そんな意味で直接賢治の指導をうけたのは或は私一人であるかもしれません。
〈『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会、昭和30年)〉
と述べていたという。しかしながらそれらのどの資料の中にも、恭が下根子桜の宮澤家の別宅でいつ頃から暮らし始めたのかも、いつまで賢治と一緒に暮らしていたのかというその期間についても、ずばり直ぐに確定できるものは一つも見つからなかった。そして、その論考の中にも同様にだ。
 一方、恭の出身地については唯一、ある方が「気仙郡(現大船渡市)盛町の出身」と書いてあったので、私は大船渡市へ向かった。そして市立図書館、地元の新聞社『東海新聞社』、「盛町の生き字引といわれている古老」等を訊ね回ってみたが、恭のことを知っている人は一人もなく、恭の生家どころか本籍地さえも知ることはできなかった。恭は地元ではあまり知られた存在ではないのか、と私はごちた。
 そこで次に、タウン誌『ふるさとケセン67号』(平成14年3月発行)所収の佐藤成氏の論考「賢治と千葉恭のこと」の中に、恭は大正13年3月に水沢農学校(現水沢農業高等学校)を卒業したと書いてあったので、水沢農業高等学校に電話をして、
 御校の同窓生の千葉恭さんは宮澤賢治と約半年、羅須地人協会で一緒に生活をしたといわれている人で、賢治に関わる人物としてはかなり重要な人物だと思います。つきましては図書館等にある同窓会関連や千葉恭関連の資料を見せて貰えないでしょうか。
とお願いしたのだが、個人情報の保護という時代のせいだろう、お見せできませんと断られた。
 そこで思い出したのが、私の叔父の一人に同校の卒業生がいたということだ。早速、『水沢農業高校同窓会名簿』を見せてもらった。するとある頁に、
   第21回(大正13年3月卒業)52名
という項があるので、五十音順に並べてある氏名を指で順に辿って行くと、確かに「千葉 恭」という名前があった。しかし喜んだのも束の間、直ぐ落胆に変わった。恭に関して記載されてあるのはその氏名だけで、本籍地も職業も勤務先も一切載っていなかったからだ。
 ならばということで訪ねて行ったのが、実証的宮澤賢治研究家の菊池忠二氏であった。すると同氏は、
 私も千葉恭のことは気になっていて、恭が食糧管理事務所盛岡支所長時代に直接本人を事務所に訪ね、取材を試みようとしたことがある。ところが訪ねた時間帯が悪かったせいか体よく恭に取材を断られてしまった。
ということを打ち明けてくれた。また、羅須地人協会の建物の西隣に住んでいて、同協会の会員でもあった伊藤忠一に恭のことを訊ねてみようとしたこともあったが、忠一からは言下に、
   そんな人は知らない。
と言われてしまったということも同氏は教えてくれた。
 もはやこうなると私には為す術もない。すっかり途方に暮れてしまった私はそのことを先輩の安藤勝夫氏にぼやいた。すると同氏は、あの人ならば恭に関して知っているかもしれないと言って牛崎敏哉氏を紹介して下さった。そして牛崎氏を介して、千葉恭の三男である滿夫氏に私はとうとう会うことができ(平成22年12月15日)て、例えば、
・父の出身地は水沢の真城折居である。
・穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと父は言っていた。
・父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
・賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかったとも父は言っていた。
・昭和8年当時父は宮守で勤めていて、賢治が亡くなった時に電報をもらったのだが弔問に行けなかったと父は言っていた。
・父はマンドリンを持っていた。
・父宛賢治書簡等は昭和20年の久慈大火の際に焼失してしまったと言っていた。
ということなどを滿夫氏から教えてもらった(というわけで、恭の出身地は「気仙郡盛町」ではなかったのである。「恭は地元ではあまり知られた存在ではない」ということは当然のことだったのだ。もちろん、恭の出身地をこれで明らかにできたし、それは私が初めてだろうからということで結構満足できた)。
 それから、恭の長男益夫氏にも後に会うことができて、次のような証言等を得た(平成23年6月16日)。
・父は上司との折り合いが悪くて穀物検査所を辞めた。
・父はマンドリンを持っていた。
・父はトマトがとても嫌いだった。
そして益夫氏夫人がこのトマトのエピソードを受けて、
・美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出しても、どういうわけかお義父さん(恭)は全然食べなかった。その理由が後で分かった。お義父さんが宮澤賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがない時に朝から晩までトマトだけを食わされたことがあったからだった、ということでした。
・お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
ということなども教えてくれた。
 しかしながら、下根子桜の別宅で恭が賢治と一緒に生活していた期間等は二人の子息の証言によっては明らかにできなかった。ところがあることが切っ掛けで、確かなルートから、恭が穀物検査所を一旦辞めた日、そして正式に復職した日等があっけなく判明した。それはそれぞれ、
大正15年6月22日 穀物検査所花巻出張所辞職
昭和7年3月31日  〃 宮守派出所に正式に復職
というものであった。
 一方、年次の「昭和四年」には問題があるものの恭は、
 昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサ〳〵してとう〳〵役所を去ることになりました。                    〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会)9p〉
とか、
 その中に賢治は何を思つたか知りませんが、学校を止めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難となつて来たのでしよう。私のところに『君もこないか』という誘いがまいり、それから一しよに自炊生活を始めるようになりました。 
〈『イーハトーヴォ復刊2号』、宮澤賢治の会)〉
と述べていたし、前掲したように三男の滿夫氏は、
・穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと父は言っていた。
・父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
と教えてくれたから、宮澤家別宅寄寓の始まりは穀物検査所を辞めた大正15年6月22日頃であったとほぼ判断できるだろう。そして、冒頭の大正15年7月25日の記載事項、「下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭」はそのことを傍証してくれる。
 また一方で、その寄寓期間についてだが、恭自身は、
 賢治は、当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮たきをし約半年生活をともにした。一番困つたのは、毎日々々、その日食うだけの米を町に買いにやらされた事だつた。  
〈『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の會)〉
と述べていたり、先に少し引用したように、
 先生との親交も一ヶ年にして一應終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサ〳〵してとう〳〵役所を去ることになりました。私は役人はだめだ! 自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会)9p〉
ということだったり、さらには、前掲したように益夫氏夫人も、
   お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
と言っていていずれにも違いがあるが、恭のの宮澤家別宅寄寓期間は長くとも一年以内であろう。
 するとこの時に思い出すのが、
 詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな靑年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。                          〈『四次元7号』(宮澤賢治友の会)8p〉
とか、
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。しかしどやされたけれども、普通の人からのとは別に親しみのあるどやされ方であつた。しかも〝こらつ〟の一かつの声が私からはなれず、その声が社会をみていく場合つねに私を叱咤するようになつてまいりました。
〈『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)〉
という、いずれも松田甚次郎に関する恭の証言である。よって、恭は甚次郎を下根子桜の別宅内で目の当たりにしていたとほぼ判断できそうである。
 一方で、甚次郎は周知のように昭和2年3月8日に賢治の許を訪れ、
 先生は「君達はどんな心構へで歸鄕し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「學校で學んだ學術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。…(筆者略)…
 眞人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たることだ。小作人となつて粗衣粗食、過勞と更に加わる社會的經濟的壓迫を體驗することが出來たら、必ず人間の眞面目が顯現される。默って十年間、誰が何と言はうと、實行し續けてくれ。そして十年後に、宮澤が言つた事が眞理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、實行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覺の師、宮澤先生をたゞ〳〵信じ切つた。
〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)2p~〉
ということだし、同年8月8日に賢治の許を再度訪れた甚次郎は、この時のことに関して、
 何だか脚本として物足りなくて仕樣がないので困つてしまつた。「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許に走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の處には篝火を加へて下さつた。この時こそ、私と先生の最後の別離の一日であつたのだ。餘りに有難い貴い一日であつた。やがて『水涸れ』の脚本が出來上がり、毎夜練習の日が續いた。              〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)28p〉
と述べていることも周知のとおりである。
 しかも、甚次郎の日記(『新庄ふるさと歴史センター』所蔵)によって、彼が賢治の許を訪れたのはこの2回しかなかったということが調べてみたならば判った。したがって、「松田甚次郎も大きな声でどやされた」という様子を恭が目の当たりにしたのは前者の昭和2年3月8日であったと判断できる(甚次郎の日記等から、後者の場合は怒られていないが、前者の場合の賢治の口調は「どやされた」と言えるからだ)。つまり、少なくとも恭は2年3月8日までは「下根子桜」で寄寓していたと判断できるのではなかろうか。
 そこで今まで述べてきた事柄から、宮澤家別宅寄寓期間について次のような、
〈仮説1〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
が定立できるし、その反例もないことが確認できたから検証できたことになる。ただし、恭は一方で、
 先生が大櫻にをられた頃には私は二、三日宿つては家に歸り、また家を手傳つてはまた出かけるといつた風に、頻りとこの羅須地人協會を訪ねたものです。      〈『四次元7号』(宮澤賢治友の會)16p〉
とも語っているから、毎日いつも下根子桜の別宅に泊まっていたという寄寓の仕方ではなく、「二、三日宿つては家に歸り」という寄寓の仕方での少なくとも「8ヶ月間余」という意味でだが。また一方で恭は、
   私が炊事を手傳ひましたが
とか、
   私は寢食を共にしながらこの開墾に從事しましたが  〈共に『四次元7号』(宮澤賢治友の會)15p~〉
とはっきり述べていた。
 したがって、本当のところは、「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れないということになりそうだ。そして、どうやら千葉恭の宮澤家別宅寄寓等ついては、一部意識的に隠されてきた蓋然性が高いし、新たな事実も幾つか明らかにできたので、これらのことに関して実証的かつ詳細に論じた拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』を平成23年に自費出版した。

 拙著出版後、同書を宮澤賢治研究の第一人者のお一人A氏に謹呈したところ、
 これまでほとんど無視されていた千葉恭氏に、御著によって、初めて光が当たりました。伝記研究上で、画期的な業績と存じます。それにしても、貴兄もお書きになっておりますが、当時身辺にいた人々が、どうして千葉氏に言及していないのか、不思議ですね。     (傍点筆者)
というご返事を頂いた。まさにA氏の指摘どおりで、なぜ言及していないのか私も不思議に思っていた。
 なお、確かにそのとおり不思議なのだが、同時に次のことも私にはとても不思議だった。それは、千葉恭の著した追想の中身等が賢治に関する論考等においてしばしば資料として引用されているというのに、恭自身のことが全くといっていいほど調べられていないということがだ。それは裏返せば、賢治に関する論考においては、本来は必須であるはずの裏付けを取ることや、検証することもないままに「賢治研究」等がなされてきた虞があるということである。一方で、基本に忠実に研究しようという姿勢があればそれはかなりのことが可能だったはずだ。例えば、恭は当時鎌田旅館に下宿していたと言っている(『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房発行(昭和33年版)257p)わけだし、澤里武治もそこに下宿したと言っている(『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)61p)わけだから、武治に聞き取りをすれば恭の言動等を裏付けることができたはずだが、どうして賢治研究家はそのようなことをしてこなかったのだろうか。
 話を元に戻す。A氏の指摘のとおりかなり不思議だ。私も今まで恭のことを調べてきて知ったのだが、恭自身が書き残している賢治関連の資料は結構残っているというのに、恭と賢治との関係に言及している恭以外の人物が書き残している資料等はなさそうだからだ。恭は賢治と少なくとも8ヶ月間余を「下根子桜」で一緒に暮らしていたはずなのに、また二人の付き合いは大正13年~昭和3年頃までの足掛け5年の長期間に亘っていたと考えられるのに、さらには、賢治が亡くなった際には電報を貰っていたというのに(恭の三男滿夫氏によれば、賢治から父に宛てた書簡等もあったそうだが昭和20年の久慈大火の際に焼失してしまったと恭は言っていたそうだから、それはやむを得ないにしても)、である。
 いや、しかし絶対未だ明らかになっていない資料が必ずあるはずだ。そう思っていた矢先、ある資料が私の目に留まった。それは『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』掲載の17枚の〔施肥表A〕を眺めていた時のことである。私は吃驚し、次に抃舞した。それは、〔施肥表A〕〔一一〕の中に、
   場処 真城村 町下
   反別 8反0畝
という記載があったからだ。そう、〝真城村〟といえば他でもない千葉恭の出身地ではないか。そして閃いた、この〝真城村 町下〟とは彼の実家の田圃のあった場所ではなかろうかと。それは、彼が実家には田圃が8反あると、何かで述べていたことを私は思い出したからだ。早速確認してみると、「宮澤先生を追つて(二)」(『四次元5号』所収)の中で恭は、
 鋤を空高く振り上げる力の心よさ! 水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した樣な氣がされました。  〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会、昭和25年3月)9p〉
と述べていた。確かに実家の田圃は8反であった。したがって恭の実家では当時真城村の〝町下〟という所に8反の田圃を持っていたと推理できる。        
 そしてもしこの推理が正しければ、この施肥表は恭以外の人物、それも何と、当の賢治自身が書き残した、賢治と恭の関係を示す客観的資料である。しかも初めて明らかになったそれと言える。私は思わぬ発見に嬉しくなった。その喜びに浸りつつ『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の続きの頁を捲っていったところさらに確信が深まっていった。というのは、この施肥表〔一一〕の他に同書には同〔一五〕と〔一六〕が載っておりそれぞれの〝場処〟が、
  〔一五〕の場処は 真城村中林下
  〔一六〕  〃   真城村堤沢
となっていたからである。すなわちこれら3枚の〔施肥表A〕の〝場処〟はいずれも恭の出身地である真城村のものだった。
 さらに、これらの3枚の左上隅には
  〔一一〕の場合〝D〟
  〔一五〕  〃 〝E〟
  〔一六〕  〃 〝C〟
の記載がある。ところがこの『校本全集』に所収されている17枚の〔施肥表A〕のうち、これら3枚以外にはそんなアルファベットの記載はない。ということは、これら3枚はワンセットのものであり、同時期にまとめて賢治が設計した施肥表に違いないはず。それもC、D、Eの3枚があるということは少なくともA~Eの5枚はあったはずであろう。どうやら、これだけの枚数を、花巻から遠く離れた真城村の人たちが賢治からわざわざ肥料設計をしてもらったということになりそうだ。なぜだったのだろうか。
 実は、前頁で引用した追想「宮澤先生を追つて(二)」の中に、真城村の実家に戻って帰農した恭は地元の仲間32名を誘って「研郷會」を組織して、羅須地人協会と似たような取り組みをしたということも述べている。そして、その後も恭はしばしば下根子桜の賢治の許を訪れては指導を受けていたということで、
 農業に從事する一方時々先生をお訪ねしては農業經濟・土壤・肥料等の問題を教つて歸るのでした。…(筆者略)…私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたかとか? またどういうふうにやつたか? 寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか? そして花の手入はどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就ては種々の御示教をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の靑年達に授けては實行に移して行くのでした。そして研鄕會の集りにはみんなにも聞かせ、其後の成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
〈『四次元5号』(宮澤賢治友の会)10p〉
ということも述べていたから、そのような指導の一環として賢治から施肥の指導も受けていたのであろう。その具体的な事例がこれらの施肥表であり、これらの3枚は恭及び「研鄕會」の他の会員分2枚を恭が取りまとめて「下根子桜」に持参し、賢治に肥料設計を依頼したものに違いない。
 なお、これら計17枚の〔施肥表A〕のうちの何枚かにはそれぞれの提供者名のメモがあると『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の〝校異〟にはただし書きがある。したがって、これら3枚の〔施肥表A〕についても提供者名の記載があればことは簡単に解決するはずなのだが、残念ながらこの3枚の施肥表にはその記載がなかったようだ。

 こうなれば、恭の長男の益夫氏に会ってその田圃の場所を確認をし、恭の実家の近くには〝町下〟だけでなく〝中林下〟及び〝堤沢〟という地名があるか否かも確認したくなった。もしこれらの地名がその辺りにあれば、これらの〔施肥表A〕は100%、賢治が恭に頼まれて設計してやったものだろうと断定できると思ったからである。実は、このこともあって益夫氏の許を訪ねたのが、先に述べた平成23年6月16日その日であったのだった。そして、『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』掲載の件の3枚の〔施肥表A〕のコピーをお見せしながら、
 お父さんが真城のご自宅に戻って農業をしていた頃、〝町下〟に8反の田圃があったでしょうか。
と訊ねると、嬉しいことに、
 確かに真城の実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました。その広さから言っても実家の田圃に間違いない。
という予想どおりの答が返ってきた。そして、
 そもそも水沢の〝真城折居〟は、かつては〝真城村町(まち)〟と呼ばれていて、〝折居〟は以前は〝町〟という呼称だった。
ということも教えてもらった。これで、〔施肥表A〕の〔一一〕に記されていた
   場処 真城村 町下
   反別 8反0畝
は、まさしく当時の千葉恭の実家の田圃のことであり、
〔施肥表A〕〔一一〕は恭の実家の水田に対して賢治が設計した施肥表である。
と、もう断言してもいいだろう。
 また〝中林下〟及び〝堤沢〟という地名が〝町下〟の近くにあるということも知った。もっと正確に言うと、〝中林下〟及び〝堤ヶ沢〟という地名が真城村の〝町下〟の近くにあることが判った。おそらくこの〝堤沢〟は〝堤ヶ沢〟のことだろうから、
   町下、中林下、堤沢
という地名のいずれもが、当時の真城村の〝町下〟の周辺に存在していたとしてもいいだろう。よって、これら3枚の〔施肥表A〕のそれぞれに記された場処、
   〔一一〕の〝町下〟、〔一五〕の〝中林下〟、〔一六〕の〝堤(ヶ)沢〟
は全て〝真城村 町下〟周辺に実在していた地名であり、
〔施肥表A〕の〔一一〕〔一五〕〔一六〕の3枚はいずれも恭に頼まれて賢治がわざわざ設計した、花巻から遠く離れている真城村の田圃に対する施肥表である。
と言い切っていいだろう。
 これでやっと、今まで千葉恭が残した幾つかの資料から一方的に賢治を見てきたが、初めて逆方向からも見ることができた。つまり今までの流れの図式は、
  ・千葉恭→賢治
というものであったが、これで
  ・賢治→千葉恭
という逆の流れも初めて見つかったので、両方向の流れができた。それゆえ、先に定立した
〈仮説1〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
の妥当性に私はますます確信を持った。

 それからもう一つ、『拡がりゆく賢治宇宙』の中に次のような記載があることも知った。それは、賢治が「下根子桜」の近所の青年たちと結成した楽団のメンバーについての、
   第1ヴァイオリン  伊藤克巳(ママ)
   第2ヴァイオリン  伊藤清
   第2ヴァイオリン  高橋慶吾
   フルート      伊藤忠一
   クラリネツト    伊藤与蔵
   オルガン、セロ   宮澤賢治
 時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
〈『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)79p〉
という記載である。つまりこの楽団に、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです」と、推定表現ではあるものの「千葉恭」の名前がそこにあったのである。ということは、「羅須地人協会時代」に恭は時にこの楽団でマンドリンを弾いていたようだということになるから、恭が下根子桜の別宅に来ていた蓋然性が高いということをこの記載は意味している。
 なお、このことに関しての『新校本年譜』の記載は、
   しかし音楽をやる者はほかにマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり
〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)314p〉
というように、推定の「あったようです」が「おり」と断定表現に変わっているとともに、「千葉恭」の名前だけがするりと抜け落ちている。そこで、どうして「賢治年譜」には恭だけが抜け落ちているのですかとイーハトーブ館を訪ねて関係者に訊ねたところ、「それは一人の証言しかないからです」という回答だった。もしそういうことであればそれは尤もなことである。
 ところで、そもそも「それは一人の証言しかないからです」というところの「一人」とは一体誰のことだろうかと思って調べ回ったところ、この楽団メンバーの記述を担当した人は阿部弥之氏であることを知った。そこで同氏に、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです」となぜ記述できたのかと問うと、
 あれですか、「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という証言は、私が直接平來作本人から聞いたものです。
とその根拠を教えてもらった。よってこれで証言者が確定した。賢治の身辺にいた教え子平來作であった。
 そこで次に私はその裏付けを取ってみようと思っていたので、実はそのためもあって、先に述べた平成22年12月15日に恭の三男滿夫氏に会いに行ったのであった。そして、同氏に「お父さんはマンドリンを持っていませんでしたか」と訊ねてみたところ、「はい持っていましたよ」という回答であった。さらに長男益夫氏からは、そのマンドリンに関する面白いエピソードまで教えてもらった。したがって二人の子息の証言から、前掲の「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という記載はほぼ事実であったと言えるだろう。それは、当時岩手でマンドリンを持っていた人は珍しかったはずだからなおさらにである。
 これで、「恭は件の楽団の一員であり、マンドリンを担当していた」ということについてのかなり確度の高い裏付けを私は取れた。つまり、「当時身辺にいた」(16p)教え子の平來作が、「恭は「羅須地人協会時代」に下根子桜の別宅に来ていた」ということを実質的に証言していたことになり、これはほぼ事実であったと判断できた。もちろん、こう判断できたのも恭の二人の子息の証言等があったからであり、これで、『拡がりゆく賢治宇宙』の「時に、マンドリン・平来作、千葉恭」という記載については、「それは一人の証言しかないからです」という理由によって棄却することはできなくなったし、逆にその信憑性は極めて高いものとなったと言える。したがって、賢治が設計したと言える前掲の3枚の〔施肥表A〕と、この平來作の証言によって、恭の下根子桜での宮澤家別宅寄寓が客観的にも裏付けられたと言えるだろう。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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