みちのくの山野草

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昭和10年代半ば頃のある賢治評(前編)

2019-08-19 14:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》

 ちょっとある必要があって、久し振りに吉田コトの『月夜の蓄音機』を読み返していた。すると、次のようなことをコトは赤坂憲雄との対談で述べていて、私はハッとした(以前はそんなことはなかったのだが)。
赤坂 農民救済者としての賢治についてはどう?
吉田 ないない。あとからみんなが本で書いたんだと思う。「農民を救うんだ」みたいなことは言っていたんだけど、実際に救われた人はいないんだよ(笑)。だってね、賢治が野菜をこういう具合に作ったらいい、新しい農業はこうでなくっちゃて勉強して「みんなでやろう!」なんつたって、あんた、種もなきゃ、第一、肥料がない。あの頃岩手県は東北で一番貧乏だったのよ。アワを食べてたんだもの。そんなところで夢みたいな新しい農業を語ってもねえ。
赤坂 花巻は山形よりひどかったの。
吉田 もちろんですよ。山形でアワを食べているっていったらよっぽど底の人だもの。賢治の『雨ニモマケズ』に一日にお米を四合ばかり食ってなんとかってあるでしょう。あの米が食えない時代に、…投稿者略…お米を一日に四合も食べていたなんて、バカ言うなって。米四合なんて一家族でも食えない時代だったのよ。
             〈『月夜の蓄音機』(吉田コト聞き書き/滝沢真喜子、荒蝦夷)〉
 さてこの本を私が初めて読んだのはいつ頃だったのだろうか、と思って振り返ってみれば約10年前だ。そしてその時には、吉田コトは結構思い切ったことをズバズバ言う人なんだと感じ、多少反感を感じた記憶がある。賢治のことを、ためらうことなくクサしていたからだ。しかも、語っていることが果たして事実に基づいているのだろうか、という不安も私は抱いたのだった。
 ところがそれから約10年が経って読み返してみると、コトの「ないない。あとからみんなが本で書いたんだと思う」という一言は私の胸に突き刺さる。それは、赤坂氏の「農民救済者としての賢治についてはどう?」という問いは、『宮澤賢治名作選』が出版された頃のそれはどうでしたかという意味の問いであり、
    その当時(昭和10年代半ば頃)、「農民救済者としての賢治については」どうでしたか?
とコトに訊いたことになる。ところがそれに対してコトは、
    賢治にそんな評価は全然為されていなかった。後々の人が、賢治は農民救済者であったと本に書いただけのことだと思う。
と応えたということになる。しかもコトは、「実際に救われた人はいないんだよ」と笑いながら、ダメを押していたとも言える。

 もちろん10年前の私であれば、そんなことはないはずだと思っていたから、失礼なと、舌打ちしながら私は読み流していた気がする。しかしその後、「羅須地人協会時代の賢治」のことなどを約10年検証してきた私は、この度この「くだり」を読み直して、昭和13年11月13日以降、吉田コトはしばしば花巻豊沢の宮澤家を訪ねていいて、とりわけ『宮澤賢治名作選』の出版に関わったことも知っていたので、吉田コトが言い放ったこの発言は案外真実を含んでいるかもしれないと直感して、ハッとしたのだった。そして吉田コトのこの発言は、吉本隆明や伊藤忠一そして千葉恭の発言の、さらには賢治自身のあの詫の信憑性を裏付けていそうだということにも気付いたから、なおさらにだ。

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