みちのくの山野草

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いよいよ出京

2021-02-18 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)〉

 ではそろそろ賢治の最後の上京についてこれから少しく考えて見よう。
 そこでまず、昭和6年9月の賢治の動向を以下に確認してみる。


       <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より拾い上げた>
 したがって賢治は、出京直前には「肥料展覧会」がありそのための準備と、13日~17日の「肥料展覧会」期間中は宣伝説明を行っていたということになろう。そのことについて、佐藤通雅氏は次のように語っている。
 十五日に展覧会は終わり、十六日にはかたづけをすませた。そして十七日に上京する予定だったが、盛岡で発送した荷物がつかなかった。出品した見本をもっていくつもりだったので、到着をまつことになった。
 十八日にはときどき、大トランクにつめる。この日は旅程が半端になるため、家にとどまった。森荘已池『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)は、でかけるときのもようを、

 母は、
 「重いものは持たないで、赤帽に持たせるんだんちゃ。」といったが、虫が知らせるのか、とめたくてしょうがなかった。いよいよ家を出るとき、行かないでくれるようにと口に出していうとお父さんにきこえて𠮟られるので、母は店の片かげにかくれるようにして、そしておがむように手を合わせてあたまをさげ、「行かないでくれ、やめてくれ」といった。

と描いている。なかなか臨場感のある描写だが、小笠原露のときと同様、事実というわけにはいかない。
             〈『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)164p>

 ところでここでびっくりしたのが他でもない、「なかなか臨場感のある描写だが…事実というわけにはいかない」という佐藤通雅氏の鋭い指摘であり、結構辛辣である。しかし、「小笠原露のときと同様、事実というわけにはいかない」とあるように、『宮沢賢治の肖像』の例の「カレー事件」について同氏は、
 このカレー事件の描写は、あたかもその場にいあわせ、二階のみならず階下へまで目をくばっているような臨場感がある。しかしいうまでもなく、両方に臨場することは不可能だ。…投稿者略…見聞や想像を駆使してつくりあげた創作であることは、すぐにもわかる。
             〈『宮澤賢治東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)83p〉
と指摘しているし、私も虚構あるいは創作がありそうだと思っているところ(『本統の賢治と本当の露』の「3.「ライスカレー事件」」参照)だから、今回のこの引用文についても同様のことが懸念される。
 そこで私には、そういえばこの出京時の賢治はかなり疲労が蓄積していたというのが通説だと思っていたが、もしかするとそうではなかったのかもしれないという疑問も湧いてきた。
 ちなみに、佐藤竜一氏はその時の賢治について
 賢治の疲労は極限に達していた。それでも、賢治は予定どおり、上京した。
             〈『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書)157p>
と、その典拠は明示していないが、断定している。また佐藤通雅氏自身も、その典拠はやはり明示していないが、前掲書において
 十日夕に出品のかざりつけを終わる。しかし、ほとんど独力での奔走に、ほとほと疲れはててしまった。
             〈『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)164p>
と述べている。
 一方このことに関して『新校本年譜』は、昭和6年9月11日の欄に、
 本日から展覧会がはじまったが疲労のため出かけなかった、と推測。
というように記述してあるだけであり、当時の賢治の疲労蓄積等に関しては明らかな根拠があったわけでもなく、単なる「推測」にしか過ぎなかったようだということを私はこの度初めて知った。
 となれば、この出京の際に「賢治の疲労は極限に達していた」ということを裏付ける客観的な資料や証言があったわけではなさそうだ。せいぜい、私の知る限りではそれを傍証する次の賢治のメモがあるに過ぎないということになろう。そしてそのメモとは、次の『兄妹像手帳』の体温の記載である。
【『兄妹像手帳』の一四七、一四八頁】

             〈『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)134pより>
たしかにこのメモによれば、少なくともこの時の賢治には微熱があったことは事実だったであろう。

地質学者加藤謙次郎の証言
 ならばなぜ賢治は体調不良を押して無理矢理出京したのだろうか。もともとこの上京の最大の目的は壁材料等の宣伝・営業のためだったはずだからそれはそれほど火急のことではなく、もし体調が不良であったならばそれが改善されるまで待ち、万全の状態になってから出京するのが普通だろう。まして、そのときのトランクの重さは40㌔だったと言われているが、この出京時に賢治は壁材料等の他にレコードや春本も持参している<*1>からかなりの総重量になっていたことは確かであろうから、それらを携えて体調不良な賢治が上京するということは土台無茶な話である。
 ちなみに、「トランクは40㌔」については伊藤良治氏も前掲書で指摘していておそらく20㌔程度であったであろうと推測<*2>しているが、それにしたってかなりの重さである。一般に賢治にまつわることで、普通に考えておかしいと思ったことはやはりおかしいということを私は何度か経験しているが、この件もまたしかりである。どうやら、「賢治の疲労は極限に達していた」ということを鵜呑みにはできないと直感した。
 それは実は、佐藤通雅氏はこの時の出京について、
 十九日の朝、一番の汽車で花巻をたった。まず小牛田に下車し、肥料会社と農業館をたずねる。つぎに仙台におり、農務課へいく。さらに東一番丁の古本屋文化堂をたずね、そこで偶然にも盛岡中学校の先輩加藤謙次郎に会って、家に案内されたことが知られている。
 二十日の早朝、仙台をたつ。森荘已池によると車中でねむり、耳が寒いと思って目をさました、座席の向こうに乗った人が、まどをあけたままおりたという。
             〈『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)164p~より>
と述べているが、その加藤謙次郎が次のように証言していたからでもある。
   「賢治と私(三)」
 第二回目は昭和六年九月十九日仙台でつた。実をいうと日時など忘れていたが、賢治の年譜伝記から推すとそういうことになる。陽のかんかんと照る暑い日の午後であつた。東一番丁の文化堂という懇意にしている古本屋に立ち寄つたところ、賢つあんが来ていて浮世絵の話をしていた。話の様子では彼も亦顧客の一人であることが察せられる。
 その日の夕方私は彼を自宅に案内して夕食を共にし、夜遅くまで話し込んだ。彼は当時東北石灰工場で働いていること、石灰粉は胸の病氣によいこと。石灰搗粉は土壌改良に有効なこと等を話て居た。又石灰粉の需要は時季的に不同性があるので、閑期には石粉を配合した化粧煉瓦を造つて売る計画を説明し、その試作品を携えて名古屋方面迄売込宣伝に行つて来ると張り切りつて居り、胸が悪る(ママ)い様子は全然感ぜられなかつた。色々な試作見本を取り出して示された、石粉といつても、この場合はそんなに細かい粉末ではなく角礫砕砂であり、色彩大理石の屑や古生層に特有な濃い赤褐色や青紫色の輝緑凝灰岩、蛇紋岩等の砕屑をセメントで固めたタイル様の物であつた。今で言えば人造大理石、小型テラゾーというところであろうか。表面は磨かず、古典的な渋味もあつて、洋風建築の外装に張り付ければ面白そうであつた。彼はその色味に応じて北欧風とか独逸風などと説明し、「これなんか教会にいいぢやごわせんか」などと一人で喜んでいた。見本には一々銘を付けていたようだつたが私は忘れた。
             〈『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著、刊行会出版)315p~>
 ところでまずこの人物についてだが、『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞岩手支局)によれば
 加藤は紫波町日詰の出身で、盛岡中学卒業後、東北大学理学部に進み、当時、東京帝大とそこにしかなかった地質学科を選んだ。卒業後研究室に残り、のちに東北大学理学部教授を務めたという。そして、戦後岩手県内をくまなく歩き回り、資源調査をしたうえで、精密な地質図を作成したということである。
             〈『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞岩手支局)76p~>
という地質学者であり、おのずからこの証言内容の信憑性は高いものとなろう。その加藤が、
    ・9月19日、賢治は古本屋に立ち寄って浮世絵の話をしていた。
とか
    ・9月19日、賢治は加藤の家に行って夜遅くまで話し込んだ。
さらには、
    ・9月19日、賢治は「張り切りつて居り、胸が悪い様子は全然感ぜられなかつた」。
ということを証言していて、しかもこの時の賢治の話しっぷりからして、花巻を発った9月19日の賢治が「疲労の極み」にあったとは普通は考えにくい、と誰しもが思うであろう。

<*1:投稿者註> 菊池武雄が『宮澤賢治研究』所収の「賢治さんを想ひ出す」の中でこう語っている。
 その後去年の春突然駿河臺のある旅館から電話で「宮澤さんといふ方が上京していま風邪を引いて休んで居られる」と知らせてくれたので行つて見たら、いつものニコニコした顔で床に就いて居られたが私は容易でないことを直感しました。その時「お土産に持つて來たのだけれども形見になるかも知れぬ」といつて私にレコード(死と永生)二枚と○本などをくれました。私は何とかして健康回復のために力になり度いと願つたけれど、一つは賢治さんの性質も解つてゐるからそれも尊重したいし、私も微力と生まれつきの不親切者故、なにもして上げられませんでした。
             〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325p~>
 あるいは、深沢紅子は随筆「一ぱいの水-賢治との出会い」の中で次のように述べている。
   「一ぱいの水-賢治との出会い」
 それはそれは暑い日の真昼のことでした。昭和六年、当時武蔵野の吉祥寺に住んでいた私の家に、つめ衿の白い麻の服を着た人が訪ねて来ました。
「宮沢ですが、お隣の菊池さんが留守ですから、これを預かってください」
 新聞紙にくるんで細いひもを十文字にかけた平たい包みを二箇、さし出されました。それが、この本を書いた宮澤賢治だったのです。
 お隣の菊池武雄さんというのは、賢治と同じ岩手県出身の画家で、賢治とは早くから親しく…投稿者略…その菊池さんとは、私達夫婦も非常に親しい仲なので隣り同士に住んでいました。その日の宮沢さんの頬は少し赤く見えました。私は暑さの為だろうと思い、またその頃の吉祥寺は東京市街から一時間以上もかかる所で、家にもあいにく誰もいませんでしたが、お上がりになって少しお休みください――と申しましたが、宮沢さんは、「ここで水をいただければ結構です」と言われ、玄関に立たれたままでした。
 ものの十分、私が宮沢賢治に直接会ったのは、この時ただ一回切りですが、このあと間もなく何度目かの発病で、神田の下宿先で倒れられ、二年後に亡くなってしまわれました。
 そして、夕方帰宅された菊池さんは、残念がりながら、いったい何をおいて行ったんだろうと、早速二つの包みを開いて見る事になりました。小さい方の包みからは、江戸時代の絵草紙はが出て来ました。もう一つの方は大盤のレコードでした。菊池さんは「何で俺にこんなものくれたべなあ」とお国なまりの独り言を言いながら、とも角そのレコードを聴く事になりました。どこの国かは忘れましたが、日本製ではない、ベートーベンの第九交響曲だった事を覚えています。
             〈『追憶の詩人たち』(深沢紅子著、教育出版センター)124p~>
 もちろん、
     「○本」=「和とぢ」=「春本」
である。
<*2:投稿者註> 『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)170pより。

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