みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(116~119p)

2021-01-03 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた。
〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)89p〉
という記述だ。あのように崇敬の念を抱きながら亡き賢治を偲ぶ歌を詠むような女性が、このような厚かましいことをしたのだろうかという素朴な疑問が湧いたからだ。
 早速私は、露は当時鍋倉の寶閑小学校に勤めていたというから、鍋倉に向かった。幸い、露の当時の教え子鎌田豊佐氏に会うことができて、露は「西野中の高橋重太郎」方(「鍋倉ふれあい交流センター」の近く)に当時下宿していたということを教わった。さらに、その下宿の隣家の高橋カヨ氏からは、
 寶閑小学校は街から遠いので、先生方は皆「西野中の高橋さん」のお家に下宿していました。ただしその下宿では賄いがつかなかったから縁側にコンロを出して皆さん自炊しておりましたよ。
ということも教わった。
 となれば、その下宿は賄いがつかなかったから寝具のみならず炊事用具一式も必要だったであろう。そこでそれを知った口さがない人たちが露のこのような下宿の仕方を、「もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、云々」というような噂話に仕立てて面白おかしく吹聴したという蓋然性が高い。当時、賢治と露とのことはある程度世間に噂されていたというからだ。
 そして森は、裏付けを取ることなどもせずに、そのような噂話を元にして活字にしてしまった可能性があると考えられる。このように、露が下宿していたことや下宿の仕方等がその頃から90年近くも経ってしまった今でさえも分かるのだから、森が当時そうしようとすればこれらのことはもっと容易に分かったはずだ。ところが森はそのことについて同書で何ら触れていない。よって、先に引用した森の記述内容は風聞か虚構の可能性が生じてきたということである。
 こうなると同様に不安になってくるのが、やはり前掲書の中の、
 彼女の思慕と恋情とは焰のように燃えつのつて、そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた。     〈同73p〉
という森の記述であり、当時の交通事情に鑑みればそれはほぼ無理だと思われるからだ。
 そこで、精確を期すために露の生家がどこにあったかをまずは確かめようとした。それが「向小路」であったことだけは知られていたのだが、賢治関連のどの著作にもそこが具体的にどこであったのかは明らかにされていなかったからだ。
 だが分かったことは唯一、上田の前掲論文等に載っていた生家の住所名、
    岩手県稗貫郡花巻町向小路二十七番地
だけだった。しかも、向小路一帯をあちこちいくら探し廻っても、高瀬という姓の家がないだけでなく、その番地がどこかを特定できる人にさえも出会えなかった。当時とは家並みも一帯の番地名も変わってしまったからだろうか。私は途方に暮れてしまった。
 そんな折、地元出身で東京在住の伊藤博美氏から私が頂いた『花巻市文化財調査報告書第一集』(花巻市教育委員会)に「大正期の同心屋敷地割」という地図が載っていた。そしてその地図から、「向小路二十七番地」とは、あの賢治の詩〔同心町の夜あけがた〕に詠まれている「向こふの坂の下り口」(向小路の北端)だったということを幸い知ることができた。
 次に当時の寶閑小学校のあった場所だが、これは案外簡単に判った。花巻市立図書館所蔵の『寶閑小学校創立九十一年』(寶閑小学校)により、「山居公民館」の直ぐ近くにあったことを知った。
 よって、「露の下宿→宮澤家別宅」へと最短時間で行くとなれば、当時の『花巻電鉄鉛線 列車時刻表』(花巻温泉電氣鉄道、大正15年8月15日発行)等により、
露の下宿~約15分~寶閑小学校~約45分~二ッ堰駅~鉛線約25分~
                     西公園駅~約20分~露生家~約15分~「下根子桜」
となるから、往復で最低でも約4時間はかかっただろう。当然、「一日に三回もやってきた」ということは勤務日にはほぼあり得ない。もちろん、露が週末に生家に戻っていた際であればそれは可能であっただろうが、それでは「遠いところをやってきた」ということにはならない。露の生家と下根子桜の別宅との間は約1㎞、直ぐ近くと言ってよい距離だからだ。したがって、露が「一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた」という記述もまた、風聞か虚構であった可能性が生じてきた。

 3.「ライスカレー事件」
 では、いわゆる「ライスカレー事件」はどうであったのだろうか。このことに関しては、高橋慶吾の次のような二通りの証言が残っているから、それらを先に見てみる。まず「賢治先生」という追想では、
 或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、臺所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依賴に數人の百姓たちが來て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか彈くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、晝はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。      〈『イーハトーヴォ創刊号』(宮澤賢治の會、昭14)所収〉
と「事件」のことを述べている。また、座談会「宮澤賢治先生を語る會」(『續宮澤賢治素描』所収)では、
K 何時だつたか、西の村の人達が二三人來た時、先生は二階にゐたし、女の人は臺所で何かこそこそ働いてゐた、そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。その時先生は村の人達に具合惡がつて、この人は某村の小學校の先生ですと、紹介してゐた、餘つぽど困つて了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身たべないものだから女の人は隨分失望した樣子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの邊の人は晝間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。

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           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
                      電話 0198-24-9813
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