《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈〈高瀬露悪女伝説〉は重大な人権問題だ〉
〈〈高瀬露悪女伝説〉は重大な人権問題だ〉
どうやら、賢治はたっぷりと皮肉を連ねてはいるものの、内心怒り心頭だったようだ。そして、この時の賢治の激昂振りと〝「賢治氏を中傷的に言ふ」女の人〟における「曾て賢治氏になかつた事」とはそっくりだ、と私は感じた。
先に引用したように、この中舘と賢治との間のやりとりに関して山内修氏は、「普通こうした中傷めいたことは、一笑に付して黙殺するはずだが」と疑問を呈している。確かに、もし自分に非がなかったのであれば、賢治も当時既に30代半ばだったのだからそこまでムキになる必要もなかっただろう。まして中舘は盛岡中学の四年も先輩だ。その中舘に対して賢治が「呵々。妄言多謝」と述べているわけだが、とりわけ上下関係の厳しかったであろう旧制中学であったということを考えれば、当時とすればあまりにも失礼な言動だったであろう。
しかし現実にはそのようなことが起こっていたわけだから、それは、賢治からすれば相当痛いところを厳しくズバリと中舘から指摘されたということの裏返しだろう。大人の分別をもって「黙殺」すればいいのに、そうしなかったのだから、賢治は余程腹に据えかねていたということになろう。
では一体その時どんなことを賢治は中舘から言われたのかというと、残念ながらその内容については従前知られていなかった。ところがある時私は、
露本人が次女に、『(〔昭和7年〕に)賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たとことがある』と言った。
という証言を教わって<*1>直感が働いた。まさしくこの賢治の行為ならばその「内容」にピッタリと当て嵌まるぞと。
そもそも、小笠原家に嫁いだばかりの露の許にわざわざ賢治が訪ねて行ったのだから、露は立場がなくなるし、もしこれが夫の小笠原牧夫や小笠原家の人々に知れてしまったならば、当時のことだからただでは済まされない。なにしろ、小笠原家は士族の中でも遠野南部の最上位の家柄なのだからだ。したがってこの訪問が事実であったとするならば、「(昭和7年に)、結婚したばかり高瀬露の所へ賢治が訪ねた」というような噂がたちどころに広まったであろう。そこで、このことを踏まえて以下に思考実験をやり直してみる。
おそらく流れは、
露は昭和7年に遠野の小笠原牧夫と結婚したわけだが、その露の許を賢治が訪ねた。
そこで、「あろうことか、結婚したばかり高瀬露の所へ賢治が訪ねた」という噂がたった。
そして、「遠野の小笠原家に嫁いだばかりの露のところに、何と賢治が訪ねて行った」というような「噂話」が花巻にも伝わってきた。
それを聞きつけた、賢治と親しいMは病床の賢治に知らせたところ、賢治はそれを真に受けて大層興奮して関登久也の家に、病臥中の身にもかかわらず出かけて行き、露を遠野に訪ねた事についていろいろと弁解して行った。
佐藤勝治は、その時はそんなにむきになって弁解したという賢治を一寸おかしいと思ったが、実はそうではなかったということが後でわかった。それは、他人の原稿を無断でラジオ放送に利用するようないい加減な男Mのことだから、告げ口の常套である誇張と悪意を以て病床の賢治にこの「噂話」をしたに違いないし、しかも賢治は人の告げ口を信じやすいタイプだからそれを真に受けてしまったと判断できる。それゆえ、賢治は翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行て、露との事についていろいろと弁解して行ったのだった。
そして、そのむきになって弁解している賢治の姿は、日頃から賢治のことをよく知っている関からすれば、「私は違つた場合を見た様な感じを受けました」と見えた。
ということになるのだろう。そこで、「あろうことか、結婚したばかり高瀬露の所へ賢治が訪ねた」という噂がたった。
そして、「遠野の小笠原家に嫁いだばかりの露のところに、何と賢治が訪ねて行った」というような「噂話」が花巻にも伝わってきた。
それを聞きつけた、賢治と親しいMは病床の賢治に知らせたところ、賢治はそれを真に受けて大層興奮して関登久也の家に、病臥中の身にもかかわらず出かけて行き、露を遠野に訪ねた事についていろいろと弁解して行った。
佐藤勝治は、その時はそんなにむきになって弁解したという賢治を一寸おかしいと思ったが、実はそうではなかったということが後でわかった。それは、他人の原稿を無断でラジオ放送に利用するようないい加減な男Mのことだから、告げ口の常套である誇張と悪意を以て病床の賢治にこの「噂話」をしたに違いないし、しかも賢治は人の告げ口を信じやすいタイプだからそれを真に受けてしまったと判断できる。それゆえ、賢治は翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行て、露との事についていろいろと弁解して行ったのだった。
そして、そのむきになって弁解している賢治の姿は、日頃から賢治のことをよく知っている関からすれば、「私は違つた場合を見た様な感じを受けました」と見えた。
なお、どうして「関登久也の家に」だったのかというと、素直に考えれば、
賢治に訪ねてこられた露としては彼のその行為は迷惑この上ないことだったから、そのことを花巻高等女学校の級友でもあった関登久也の妻のナヲに『賢治さんが私のところに訪ねてきたので困っている』と相談した。
というあたりだろう。というのは、それ以前にも、露が賢治から貰った本を返却しようとした際に露はナヲにそれを頼んでいたから、その可能性は充分にあり得るからだ。しかも、その本の返却の件を夫の登久也が日記に書いているくらいだから、この「噂話」の場合もナヲは夫の登久也に話したであろう。そしてそれが登久也からMにも伝わっていったのであろう。
そうすると、以前〝「賢治氏を中傷的に言ふ」女の人〟で話題にした関登久也の「面影」の一節、
……亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
他人の言に對してその經緯(イキサツ)を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
<『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)4pより>他人の言に對してその經緯(イキサツ)を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
についても、
賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ→「(昭和7年に)賢治は結婚したばかりの露を遠野に訪ねた」というような「風聞」がある
というように置換すれば、すんなりと経緯が合理的に説明できる。
一瞥すると、この「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」そのものからは、いかにもその「女の人」の側の行為にこそ問題がありそうな印象を受けるが、もしこの「女の人」が実際「賢治氏を中傷的に言ふ」たのであれば、それが露であるということの蓋然性は極めて低い。そのようなことをする時間的余裕がない、遠距離であるという地理的困難さもあるが、そもそも結婚したばかりの露が賢治を中傷する必然性がない等々、少なからずその理由は挙げられるからだ。
それと比べれば、実質的には昭和7年に、「賢治は遠野に露に会いに来た」という意味の露の証言があるのだから、賢治のこのような行為があったという蓋然性の方が遙かに高かろう。こちらならばその中身が具体的にわかっているわけだが、一方の「賢治氏を中傷的に言ふ」たについてはその中身が何かもわかっていないのが実態だから、なおさらにだ。
以上で思考実験は終えるが、この実験を通じて得られることは何か。それは、これだけ合理的に説明できるということからは、少なくとも、
・賢治は昭和7年に、結婚したばかりの露の許を訪れていた。
・その噂は花巻にも伝わった。
ということの蓋然性はかなり高い、ということだ。・その噂は花巻にも伝わった。
つまり、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」は実は事実ではなく、その真相は、「昭和7年、賢治は結婚したばかりの露を遠野に訪ねた」というような「風聞」が広まっていた、であった蓋然性がかなり高い、ということだ。
<*1:註> 平成26年のことだが、遠野市在住の菊池忠一郎氏が拙宅を訪ねて来られたのだが私は不在だったため会えなかったということがあった。そこで同氏は拙宅の郵便受けに、「露先生の教え子です」というメモを書いたご自分の名刺を入れて帰られた。もちろん、私は押っ取り刀で遠野市の同氏宅を訪問した(平成26年7月14日)。
すると同氏からは、
恩師のあの優しい露先生が「悪女扱い」されていることを最近になって初めて知り、今はびっくりしている。決してそのような先生ではないのでそのことを知ってもらいたく、先日鈴木さんお訪ねしたのです。
と言われた。そして、・同氏の家と露先生の家は近かったから、露先生はしばしば同氏の家に来ていた。
・同氏の妹と露先生の次女は同級生で仲良しだった。
・同氏の妹に露先生の次女が、
母が、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たとことがある』と言っていた。
ということを話したことがある。
ということなどを教わった。・同氏の妹と露先生の次女は同級生で仲良しだった。
・同氏の妹に露先生の次女が、
母が、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たとことがある』と言っていた。
ということを話したことがある。
続きへ。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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