みちのくの山野草

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こうして全てが皆繋がった

2019-10-13 10:00:00 | 子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない
《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈高瀬露悪女伝説〉は重大な人権問題だ

 ではそろそろこの思考実験を終えることにしたい。ついてはこの思考実験を、次の仮定、
    「昭和7年に賢治が遠野の露の許に会いに来た」という「噂話」が花巻にも伝わってきた。……④
以外の推測部分は極力排除してまとめてみよう。大体こういうことになる。

 昭和7年のことであるが、
(1) 賢治は結婚したばかりの高瀬露を遠野に訪ねた、という意味の露の次女の証言がある。その訪問は賢治からすれば「神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として」という程度の認識ではあったが、世間一般からすれば常識的にはあり得ない訪問だったのでそれは良からぬ「風聞」となって遠野にたちまち広がってしまったであろう。
(2) もちろん訪問された露としてもその「風聞」はとても困ったことだったので、それまでも何くれと相談に乗ってくれていた花巻高等女学校時代の級友ナヲに相談したと思われる。そこで、ナヲはそのことを夫の関登久也にも報告し、登久也から友人でもあるMにもそのことが伝わったのであろう。
(3) 次に、Mがそれを賢治に知らせたところ、これはまずいことになってしまったと焦った賢治は関登久也の家に行って弁解した。
(4) 中舘宛書簡下書〔422a〕で賢治が書いている「若しや旧名高瀬女史の件」とは、中舘がその前に賢治に宛てた書簡で伝えたものであり、それに対して賢治は「終始普通の訪客として遇したるのみ」ととぼけると共に「呵々。妄言多謝」と辛辣な言葉を用いて強く反撃した。

 ところが、先に考察してみたように、関登久也の「面影」<*1>の中の、
(5) 亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
と佐藤勝治の「賢治二題」の中の、
(6) 病床の彼にその後のT女の行為について話したら、翌日大層興奮してその著者である彼の友人の家にわざわざ出かけて来て、T女との事についていろいろと弁明して行つたと、直接聞いたのである。
という二つののエピソードは実は同一のものであったことが実証できているから、今まではこれらそれぞれ別個のものだとばかり思い込んでいたが、皆すんなりと繋がる。

 要は、事の起こりは「〔昭和7年、〕遠野の名家小笠原家に嫁いで行った露の許に、あろうことか賢治がわざわざ会いに来た」ことにあり、しかも、「若しや旧名高瀬女史の件」とは先の仮定〈④〉のことだったとすれば、全てがすんなりと皆繋がり、しかも合理的に説明できることに気付く。そこで、先ほどのまとめを修正し直すと、

 昭和7年のことである、
(1) 賢治は結婚したばかりの高瀬露を遠野に訪ねた、という意味の露の次女の証言がある。その訪問は賢治からすれば「神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として」という程度の認識ではあったが、世間一般からすれば常識的にはあり得ない訪問だった。そこで当然、それは良からぬ「風聞」となって遠野にたちまち広がってしまったであろう。
(1′) この「賢治が遠野の露の許に会いに来た」という「噂話」は時を置かず花巻にも伝わってきたはずで、これが、「若しや旧名高瀬女史の件」に当たる。 
(2) もちろん訪問された露としてもその「風聞」はとても困ったことだったので、それまでも何くれと相談に乗ってくれていた花巻高等女学校時代の級友ナヲに相談したしたと思われる。そこで、ナヲはそのことを夫の関登久也にも報告し、登久也から友人でもあるMにもそのことが伝わったのであろう(これらが、前掲の(5)や(6)に当たる)。
(3) 次に、Mがそれを賢治に知らせたところ、これはまずいことになってしまったと焦った賢治は関登久也の家に行って弁解した(これらが、前掲の(5)や(6)に当たる)。
(4) 中舘宛書簡下書〔422a〕で賢治が書いている「若しや旧名高瀬女史の件」とは「賢治が遠野の露の許に会いに来た」ことに関するよからぬ風聞のことであった蓋然性がかなり高く、中舘がそれを賢治宛往簡で伝えたのであろう。それに対して賢治は「終始普通の訪客として遇したるのみ」ととぼけると共に「呵々。妄言多謝」と辛辣な言葉を用いて強く反撃した。

というように、全てが皆すんなりと繋がった。
 逆の言い方をすれば、これだけ合理的に説明できたわけだから、先の仮定〈④〉もほぼ現実に起こっていたであろうと言える。そして、関登久也の「面影」、佐藤勝治の「賢治二題」、中舘宛書簡下書〔422a〕も、そして露本人は『(〔昭和7年〕に)賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たとことがあるというように、皆このことに関連していると判断できる証言を残しているから、賢治は昭和7年に、遠野に露に会いに行っていたということはほぼ事実であり、そしてそれは一大スキャンダルとなったということもかなり蓋然性が高いということになったしまった。

 さて、ではこの3つの資料
   ・関登久也の「面影」
   ・佐藤勝治の「賢治二題」
   ・中舘宛書簡下書〔422a〕
における、「昭和7年」のことと思われる露に関する記述内容が、〈仮説:高瀬露は悪女とは言えない〉の反例となるかというと、ある一つを除いてはあり得ないだろうということがここまでの考察によってわかった。そしてその「ある一つ」とは、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」のことだ。同時に、今回の件に関わって賢治がその非を問われることはこの「3つの資料」の中に幾つかあるということがわかった。
 しかも、実はそもそも果たしてこの肝心の「賢治氏知人の女の人」 が露その人であるかどうかもはっきりしていないし、はたまた露がそのようなことをしたという何らかの裏付けがあるというわけでもない。しかも、中傷的に言ったというその中身も全くわかっていないのだから、所詮これは「あやかし」に過ぎない。
 のみならず、この「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」の部分は嘘であり、この部分は実は正しくは、「「賢治が遠野に露に会いに来た」という風聞が広まっていた」という蓋然性が、また、「「賢治が遠野に露に会いに来た」ということ自体もその蓋然性が極めて高いということも共に知り得た。どうやら真相は、
    「風聞」=「噂話」=「昭和7年、遠野の小笠原家に嫁いだばかりの露のところに賢治が訪ねて行った」
であったという可能性が極めて高いということだ。

 とまれ、これらの3つの資料のいずれによっても〈仮説:高瀬露は悪女とは言えない〉が棄却されるということはもはやあり得ない。それは、この「ある一つ」がそもそも「あやかし」であり、そのようなもので検証などはできないからだ。検証以前の話である。
 また、この中舘宛書簡下書〔422a〕によって、露が〈悪女〉にされるとするならば、この書簡によれば賢治にもかなり責められる点があるわけだから、露独りだけがそうされるのはアンフェアなこと。というよりは、この時の賢治は関が「了解を得ると云ふ様な事は曾て賢治氏にはなかつた事ですから、私は違つた場合を見た様な感じを受けましたが」と伝えているように、「曾てはなかつた」「賢治氏」がそこにいたことになるから、まずは問題にされるのは賢治の方だからだ。がしかしそのような現実はなく、一方で露独りだけが悪し様に言われて〈悪女〉にされているという実態がある。当然これは不公平極まりないかことだからなおさらに、露がそうされるのは許されない。

 畢竟するに、〈仮説:高瀬露は悪女とは言えない〉の反例はこれまで調べてきた限りではやはり何一つ存在していない、ということであり、この仮説は、やはり「真実」だということだ。今後反例が見つからない限りはという限定付きの。
 そう、高瀬露は〈悪女〉などではなく、客観的な根拠が何一つないのにも拘わらず〈悪女〉の濡れ衣を着せられたのだったのだ、ということがこれで確定した、と言える

<*1:註> 追想「面影」の中には、
 ……亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯を語り、了解を得ると云ふ様な事は曾て賢治氏にはなかつた事ですから、私は違つた場合を見た様な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
            <『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)4pより>
とあるが、このエピソードは、関登久也の他の著書ではそれぞれ以下のとおりである。
(1)『宮澤賢治素描』(関登久也著、協営榮社、昭和18年、148p~)
(2)『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和22年、160p~)
においてはともに、
 ……亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治の知合の女の人が、賢治を中傷的に言ふのでそのことについて賢治は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯を語り、了解を得る様な事は曾て賢治になかつた事ですから、私は違つた場合を見たやうな感じを受けましたが、それだけ賢治が普通人に近く見え、何時よりも一層親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたといふ私の賢治を説明する常套語とは反對の普通の親しみを多く感じました。
とある。
(3)『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年) には所収されず。
(4)『賢治随聞』(関登久也著、角川書店、昭和45年、34p~)においては、
 ……亡くなられる一年ぐらい前、病気がひとまずよくなっておられたころ、私の家をたずねて来られました。それは賢治の知り合の女の人が、賢治を中傷的にいうのでそのことについて賢治は私にいちおう了解を求めに来たのでした。
 他人の言に対してその経緯を語り、了解を得るようなことは、かつて賢治になかったことですから、私は違った場合を見たような感じを受けましたが、それだけ賢治が普通人に近く見え、いつよりもいっそう親しさを覚えたものです。そのときの態度、面ざしは、凛としたという私の賢治を説明する常套語とは反対の普通のしたしみを多く感じました。
とある。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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