みちのくの山野草

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『本統の賢治と本当の露』(152~155p)

2021-01-12 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり。
ということなどが、〝(その三)「附記」〟には、
 関徳弥氏の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載されその中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
ということなどが書かれている。   〈以上〉

  資料三 あまり世に知られていない証言等
・賢治が花巻農学校を辞めた際に、退任式等が行われたことを裏付ける資料や証言は何一つ見つからない。
・賢治は大正15年6月7日頃、五百二十円もの退職金を支給された。〈平成11年11月1日付『岩手日報』〉
・賢治、宮澤安太郎(賢治の従兄弟)、佐伯慎一(郁郎)、深沢省三、石川準十郎は皆「(東京)啄木会」の会員であった。〈『新校本全集第十六巻(下)補遺・伝記資料篇』〉
・佐伯郁郎は宮澤安太郎を介して賢治から『春と修羅』を贈られた。〈昭和7年6月24日付『岩手毎日新聞』〉なお同書は現在『人首文庫』に所蔵されている。
・石川準十郎は、賢治さんは「私が夏休みで帰盛するとときどきヒョッコリと私を油町のきたない家にたずねてくれた」とか「牧民会に出入りしていた」と証言している。〈昭和44年8月21日付『岩手日報』〉
・千葉恭は下根子桜での寄寓解消後、真城村折居の実家に戻って帰農し、地元の青年32名を誘って「研郷會」を組織した。甚次郎の「最上共働村塾」と似たようものであり、農村の隆盛と農業技術の向上により理想の農村を創ろうとした。甚次郎同様、「賢治精神」を実践しようと腐心したといえる。〈「宮澤先生を追つて㈡」〉
・あの「ライスカレー事件」が起こった時期は昭和2年の「雪消えた五月初めのころ」のことだという。〈『賢治研究6号』(宮沢賢治研究会)27pの高橋慶舟の証言)〉
・伊藤ちゑは大正13年から、スラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動をしていた『二葉保育園』に勤めていた。〈『二葉保育園八十五年史』〉
・ちゑは賢治との見合いについて、「私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ」と深沢紅子等に漏らしていたという。
・ある年の10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡が存在していて、そこには賢治と結びつけられることを拒絶するちゑの懇願も書かれている。
・『イーハトーヴォ第四號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)に載ってる、「賢治先生の靈に捧ぐ」と題した、
*君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
*ポラーノの廣場に咲けるつめくさの早池の峯に吾は求めむ
*粉々のこの日雪を身に浴びつ君が德の香によひて居り
等を含む五首の作者「露草」は高瀬露であると判断できる。
・『校本全集第十四巻』は「新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので」と断定的に、しかもさらりと述べている。ところが、それは「新発見」ということではなく、露の帰天を待ってしたことだというようなことを、堀尾青史や天沢退二郎氏が後に話している(本文132p参照)。
・菊池忠二著『私の賢治散歩 下巻』によれば次の通り。
 私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤(忠一)さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
 同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という。
 これと似たようなことは千葉恭も追想していて、「自分も徹底的にいじめられた」「松田甚次郎も大きな声でどやされた」〈『イーハトーヴォ』復刊2号〉ということだから、賢治は怒りっぽい面もあったと言えそうだ。
・賢治の教え子小原忠は、昭和2年の6月頃賢治の許を訪れた際に、「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない」と賢治が語ったと言っている。〈『賢治研究』39号〉
・昭和7年6月1日付〔森佐一宛〕書簡下書によれば、「羅須地人協会時代」の賢治は「玄米食」ではなかったことが判る。
・中舘武左エ門は佐藤金治(賢治小学校時代の担任八木英三のクラスの三人の秀才「三治」のうちの一人で、その中で一番成績のよかった級長)ととても親しかったと言っている。〈大正15年8月22日付『岩手日報』〉
・昭和3年夏に賢治が実家に戻った時になって、政次郎は賢治がチェロを持っていることを初めて知った。〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽の友社)〉
・賢治歿後に遺稿浄書、「宮沢賢治蔵書目録」作成、『歌と随筆』(賢治の『圖書館幻想』掲載)を発行した飛田三郎は、かつて高瀬露が勤務した寶閑小学校の教頭を勤めたことがある。〈『寶閑小学校創立九十一年』〉
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『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作鳥山敏子等)によれば以下の通り。
《朝倉六朗》(大正12年入学)の証言
 教科書以外の授業を10分間ぐらい時たまやる先生だった。あれ、余ってるんじゃなかったと思うんですよ。計画的に先生がそういうことをやったと思うんですよ。必ず本を読み出すと、その本の感想なんかを始終、こういう本の中にこういうことがあったということを、よく言われる人だったんですよ。
 これに対して鳥山が「覚えているのがありますか」と訊くと朝倉は、
 はっきり覚えてはいないけど、よくレーニンの話をしたんです。レーニンはこう言った。本当のレーニンの思想は今スターリンに引き継いでいないと。レーニンを尊敬したようなことを言って、本当はスターリンというのはレーニンの思想を本当に引き継いでいないというようなことを、あとちょっと聞いた気がしますね。だからあの頃の私にとっては、ずいぶん過激な話をするものだなと。
と答えていた。
《長坂俊雄》(大正11年入学)の証言
 ざまあみろ、というのは日本で一番悪いところ。人の不幸を喜ぶという。それを賢治は、社会主義者賢治がストップしてるもの。
というように、長坂はわざわざ「社会主義者賢治が」と言い直して、賢治が「社会主義者」と唐突に言っていた。
 したがって、教え子二人が似たような事を言っているし、しかも早坂の仕事は警察畑または検察畑だったから、この時強調した「社会主義者賢治が」については重く受け止めねばならないだろうし、信憑性が高いと推断できる。賢治本人がどうだったかはさて措き、賢治は周りの一部から、熱心で過激な「社会主義思想の持ち主」だと見られていたと言える。
《高橋謙一》(寶閑小学校、昭和3年3月卒)の証言
 1時から農事講演会をやるかって、この人が先に立ってやっても、田舎のことだからほれ、1時だってぱっとみんな集まらなかったんだもの。
 そこで小学校の教師だった高瀬露さんが時間がもったいないからと、宮澤先生にお願いして子どもたちにお話しを語ってもらうことにしました。
 花巻から来て、したらね、高瀬露先生、ほれ宮

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 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
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           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
                      電話 0198-24-9813
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