みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『本統の賢治と本当の露』(148~151p)

2021-01-11 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




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*父は上司との折り合いが悪くて穀物検査所を辞めた。
*父はマンドリンを持っていた。
*父はトマトがとても嫌いだった。
*真城の実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました。その広さ(8反)から言っても実家の田圃に間違いない。
・千葉恭の長男益夫氏の夫人が次のようなことを証言している。
*美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出してもどういうわけかお義父さん(恭)は全然食べなかった。その理由が後で分かった。お義父さんが宮澤賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがない時に朝から晩までトマトだけを食わされたことがあったからだった、ということでした。
*お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
・阿部弥之氏が直接平來作本人に取材した際に、千葉恭も一緒にあの楽団でたまにマンドリンを弾いていた、と平は証言した。
・阿部晁の『家政日誌』からは「羅須地人協会時代」等の花巻の天気や気温等を知ることができる。例えば、
*昭和3年7月5日:本日ヨリ暫ク天気快晴
*同年9月18日:七月十八日以来六十日有二日間殆ント雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ 今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ 稲作モ畑作モ大弱リ
・高瀬露の生家のあった場所は〔同心町の夜あけがた〕に詠まれている「向ふの坂の下り口」(向小路の北端)だった。
・露が当時勤務していた旧寶閑小学校は、現「山居公民館」の東側にあった。
・寶閑小学校勤務当時の露は、交通事情が悪かったので現『鍋倉ふれあい交流センター』の近くに下宿。それも、賄いがつかなかったので自炊の下宿だった。
・当時の鉛電鉄の時刻表等によれば、露の下宿から下根子桜の宮澤家別宅まで行くための往復所要時間は最短でも約4時間だった。
・森荘已池が「下根子桜」を訪ねた際に露とすれ違ったのは「通説では昭和2年の秋」となっているが、森本人はそんなことは言ってはおらず、『宮澤賢治追悼』『宮澤賢治研究』『宮澤賢治と三人の女性』『宮沢賢治の肖像』『宮沢賢治 ふれあいの人々』のいずれにおいても昭和2年以外の年としている。
・『宮澤賢治と三人の女性』の中で、森が露とすれ違ったのは「一九二八年の秋の日、私は下根子…」となっているが、同書で西暦が使われているのはこの個所だけで、その他の38個所は皆和暦である。
・最近、伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が独り歩きし始めているがそれはほぼ間違いで、正しくは昭和2年の秋10月であることが、ある著名な賢治研究家が直接訊いた清六の証言及び藤原嘉藤治宛ちゑ書簡から判断できる。奇しくもそれは、ちょうど露が「下根子桜」訪問を遠慮し出したという昭和2年夏の直後のことになる。
・二葉保育園の責任者の一人が、「基本的には当時の本園の保母はクリスチャンでしたから、伊藤ちゑもそうだったと思います」と証言(平成28年10月22日筆者聞き取り)。
・昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡(243)中の、「演習が終るころはまた根子へ戻って…」の「演習」とは同年10月に岩手県で行われた「陸軍大演習」のことである。
・昭和3年10月4日付『岩手日報』によれば、同年10月に花巻でも行われたこの「陸軍大演習」の際に、第三旅団長が賢治の母の実家「宮善」に泊まっていた。
・「ある時、「下ノ畑」の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった」という証言があり、この「鍛冶町のけんじ」とは八重樫賢師のことであると判断できる。
・賢師に関してはその他に、
*昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館に奔った。
*函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなった。
*花巻農学校の傍で生徒みたいなこともしていた。
*頭も良くて、人間的にも立派だった。
*賢治の使い走りのようなことをさせられていた。
*昭和3年当時、賢師の家の周りを特務機関の方がウロウロしていたということを賢師の隣人が言っていた。
などという縁者の証言がある(なお、賢師はあの『岩手国民高等学校』の聴講生でもあったという)。
・『岩手日報』に連載された関登久也の「宮澤賢治物語(49)セロ(一)」における澤里の証言が、それが単行本化された(昭和32年、つまり関登久也及び父政次郎が亡くなった頃)際に著者以外の何者かによってある改竄がなされた。
・同じ昭和32年頃を境にして、かつての「宮澤賢治年譜」におしなべてあった、
*昭和2年:九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
*昭和3年:一月 この頃より、過勞と自炊に依る榮養不足にて漸次身體衰弱す。
という記述が年譜からなぜか突如消え去ってしまった。
・高瀬露が次女に対して「〔昭和7年に〕賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある」と言っていたと、その次女が露の教え子の妹に話している。
・高瀬露の上郷小学校の勤務形態は
  昭和7年3月31日 上郷高等尋常高等小学校訓導
  昭和8年3月31日 休職
  昭和9年3月31日 復職
  昭和9年3月31日 達曽部尋常高等小学校訓導
であり、露の上郷小学校勤務は昭和8年~9年の2年間だが、昭和8年度は休職しているし、昭和9年度には復職しているが同日に達曽部小学校に異動しているから、実質的な勤務は一年間だけだった。おのずからこの頃に分校勤務をしたこともないと判断できる。
・平成15年に発見されたという関徳弥の『昭和五年 短歌日記』には露に関する記述があるが、その当該日付欄の「曜日」が何者かによって消されている。
 なお、この『短歌日記』の所蔵者(静岡県沼津在住)から私はその閲覧許可をもらって当地に向かっていたならば、本日は都合が悪いという電話が入ってドタキャンされた。
 四ヶ月後再度沼津を訪ねたならば、今度は、同日記は何処にしまったか現在不明で見つからないということだった(因みにこの『短歌日記』は三桁以上の値段で売られたものである)。
・関登久也の「澤里武治氏聞書」や「女人」の生原稿等が日本現代詩歌文学館に所蔵されている。
・平成27年10月11日、私は盛岡でのとある会合で賢治血縁の方と同席できたので、「賢治の出した手紙はお父さん(政次郎)宛を含め、下書まで公になっているのに、賢治に来た書簡は一切公になっていない。賢治研究の発展のために、しかも来年は賢治生誕百二十年でもあり、そろそろ公にしていただきい」とお願いしたところ、
 来簡は焼けてしまったが、全くないわけではない。例えば、最後の手紙となった柳原昌悦宛書簡に対応する柳原からの書簡はございます。
という返事だった。やはり、賢治宛来簡はないわけではなかった。
・澤里武治が74歳頃に書いた自筆の資料の中の〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟には、

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           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
                      電話 0198-24-9813
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