みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『本統の賢治と本当の露』(72~75p)

2020-12-23 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




********************************************** 以下はテキストタイプ*********************************************************

と呆れられる程の石灰を撒いたことがあった、と追想している。すると気になるのが本節の冒頭(69p)で述べた、水稲にとって最適な土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなく、弱酸性~微酸性(pH5.5~6.5)であるということである。
 と言うのは、私は地元花巻に住んでいるので、「賢治の言うとおりにやったならば稲が皆倒れてしまった、と語っている人も少なくない」ということを仄聞していたから、もしかするとそれは石灰のやり過ぎが原因の一つだったのではなかろうかとつい疑うようになってしまったからだ。つまり、高橋のように石灰を撒きすぎて最適なpH値を越えてしまったせいで倒伏してしまったこともあったのではなかろうか、と。ちなみに、「いまに磐になるぞ」と言われるほど撒いたということは、高橋は石灰を撒けば撒くほどよいと認識していたからだと解釈できる。だから逆に、賢治は水稲の最適なpH値を教えていなかったのではとか、はたして適性なpH値を知っていたのかとか、その土壌のpHを測った上で石灰を施用していたのだろうかという疑問が次々に湧いてくる。
 それは、花巻農学校で賢治の同僚でもあった阿部繁が、
 科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもなし人間ですから、時代と技術を越えることはできません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほんとうなのです。
〈『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)82p~〉
という冷静で厳しい評価をしていたからなおさらにだ。もちろん、賢治と雖も時代を超えることはできない(もしかすると、土壌の最適なpHは5.5~6.5であることが当時は未だ知られていなかったかもしれない)。
 実際、今約89才(昭和3年生まれ)だが現役バリバリの篤農家岩渕信男氏(この方を見かけるのは殆どいつでも田圃を見廻っている姿であり、稲作について研究熱心な方である)から、平成29年10月5日、
   水田に石灰を撒くことはかつても、今でもない。また、畑に撒くと土が硬くなるので施用しない。
ということを教わった。つまり、経験豊富なこの篤農家は水田に石灰を施用していなかったのである。したがって、賢治の石灰施用についての高い評価が妥当か否かは、私には判断できなくなってしまった。
 よってここまでの考察によれば、先に述べた従前の私の認識〝①〟(69p)は正しいとは言えず、「貧しい農民たちに対する稲作指導のために風雨の中を徹宵東奔西走し」た賢治であったとは少なくとも断定できないので、どうやら、
 「羅須地人協会時代」の賢治の稲作指導法には始めから限界があり、当時の大半を占めた貧しい農民たちにとってはふさわしいものではなかったので、彼等のために献身できたとは言えない。
ということをそろそろ私は受け容れるべきかなと思い始めた。

 それにしても、私はこれまで同時代の賢治の稲作指導を高く評価してきたのは何故だったのか。それは、巷間流布している「賢治年譜」や賢治像を素直に信じてきたからだ。そして私のかつての賢治像は、まさに谷川徹三が昭和19年9月20日に東京女子大で行った講演で、
 賢治は大正十五年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農学校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊をしながら、附近を開墾して半農耕生活を始めたのでありますが、やがてその地方一帯の農家のために数箇所の肥料設計事務所を設け、無料で相談に応じ、手弁当で農村を廻っては、稲作の実地指導をしていたのであります。昭和二年六月までに肥料設計書の枚数は二千枚に達していたそうで、その後もときに断続はありましたけれども、死ぬまで引続いてやつていたのであります。しかもそういう指導に当っては、自らその田畑の土を取って舐め、時に肥料も舐めた。昭和三年肺炎で倒れたのも、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走したための風邪がもとだったのでありまして、その農民のための仕事を竟に死の床まで持ちこんだのであります。
〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局、昭和45年)16p~〉
と聴衆に熱く語った、まるで農聖のようなこの賢治像だった。
 しかしその実態は、ここ10年間程の私の検証結果によれば、同時代の賢治は農民たちに対して幾何かの熱心な稲作指導を確かにしたがそれは教え子等の限定された、比較的裕福な農家に対してのものであり、しかも、それ程徹底していたものでもなければ継続的なものでもなかった。まして貧しい農民たちに対してのものではあり得なかった。
 また、このことに関しては私が言うまでもなく、既に10年前(平成19年)に佐々木多喜雄氏が『北農』誌上で、6回に亘った論考『「宮沢賢治小私考―賢治「農聖伝説」考―』において徹底して検証しており、同氏は、
 1926年(大15)4月に羅須地人協会発足以来、農閑期に賢治の専門分野の土壌・肥料関係を中心とした農業講座…(筆者略)…。しかし、集まった人と言えば、主に農学校の教え子と近村の篤農家と言われる一部農民で、地域的には極く限られた人々のみであった。地域の生産協同体から程遠い内容のもので、周りからは趣味同好会と見られたのも当然であった。  〈『北農 第75巻第2号』(北農会2008.4)76p~〉
と評していた。あるいは、賢治には、
 農民へのそして農民からの汎い愛もなく、それ故に、農民の心の深奥に入って行けず、農村そのものにも深く入り込めず、賢治は農村・農民指導者たりえなかったと判断される。 
〈『北農 第75巻第4号』(北農会2008.10)73p〉
と論じていた。私の抱いていたかつての賢治像であったならば猛反発したであろうが、ここ10年間程の私の検証作業を通じて、佐々木氏のこの言説は肯うことがあっても反論できないことを私は知っている。
 さらに同氏は、同論考の最後の方で、
 賢治の「農聖」の呼称は全く根拠のない賢治の伝説化、神格化、神話化の一環からくる結果としての「農聖伝説」であって、賢治は「農聖」とは言えないと結論される。
〈『北農 第76巻第1号』(北農会2009.1)101p〉
と断定していた。同氏の論考は、徹底的に先行研究や資料等を調べ尽くした上での、しかも元北海道立上川農業試験場長でもあるが故に農業の専門家だから、専門的見地から論じているので、その説得力は圧倒的だ。まして、このようなことを冷静かつ客観的に論じた農業の専門家はかつていなかったはずだからなおさらにである。

***************************『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)の販売案内*************************
 
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,650円(本体価格1,500円+税150円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
                      電話 0198-24-9813
 続きへ
前へ 
 “『本統の賢治と本当の露』の目次”へ。
 “〝鈴木守著作集〟の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バッハゼーへ2(7/1)(回想) | トップ | バッハゼーへ3(7/1)(回想) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本統の賢治と本当の露」カテゴリの最新記事