宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

168 『宮澤賢治名作選』出来

2009年07月25日 | Weblog
   <『宮澤賢治名作選』(「松田甚次郎編、羽田書店)>

1『宮澤賢治名作選』出来
 もちろん、『宮澤賢治全集』は”宮澤賢治の年譜について(その2)”で触れたように、宮澤賢治没後直ぐに
 昭和9年には
  十月二十九日、文圃堂より「全集第三巻童話編」出版。
 昭和10年には
  七月二十五日 全集第一巻、「詩」(春と修羅)文圃堂より発行。
  九月二十日 全集第二巻(詩、文語詩稿)を文圃堂より発行。
という形で出版・発行されたのだが、実はこれらはそれほど売れたわけではなくて一部の人に読まれたに過ぎなかったようだし、残念なことにこれらは程なく絶版となったようだ。
 そのこともあって、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』(羽田書店)の後記に
  『亡き師に捧ぐ(後記)』
 茲に僭越ながら恩師宮澤先生の名作選を世におくるのは、各方面の方々に先生の遺作を見て戴き、考へて戴いて、芸術家たり宗教家たり科学的聖農たりし著者を通じて、芸術も宗教も農業も見直していたゞきたいためである。
 大正十五年に、三十一歳の恩師宮澤先生は、「農民芸術概論」を草してその一部を当時の生徒と農村の青年に後述したきり、その大量の作品と共に未発表のまゝ、筺底深くこれを蔵し死後に至って生前の知己、高村光太郎氏、草野心平氏、藤原嘉藤治氏、菊池武夫氏等の御盡力と、横光利一氏の御助力によつて、はじめて「全集」として出版せられたのであつた。
 けれどもこの本は間もなく絶版となり、いづれも少数の愛好家の手に止まつたきりで、如何程探しても入手できぬこととなつた。

  ……おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい
    われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である……
 これは、「農民芸術概論」の冒頭の言葉であるが、何と我々の勇気を鼓舞する言葉であらう。
  ……われらに要るものは
    銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……
 その結論を読むときに、何と我々は希望と力を与へられることか。
         (以下略)
 昭和十四年早春
                          山形・鳥越邑「土に叫ぶ館」にて
                               松 田 甚 次 郎

と出版の意図を認めているのだろう。
 こうして発行された『宮澤賢治名作選』はその
【Fig.1『宮澤賢治名作選』の奥付】

が示すように定価が三圓の”四六版”で598頁のハードカバー、箱入りの立派なつくりの大作である。
 この当時は戦時下であり、しかもかなり高価だったわけだがこの本はかなり売れたという。実際、この本の奥付には
    昭和十七年十一月二十日第十一刷発行
と印刷されており、戦時下にもかかわらず初版発行から4年も経たないうちに第十一刷まで印刷されていることからもそのことが裏付けられると思う。
 したがって、この『宮澤賢治名作選』こそが初めて宮澤賢治の名を全国に知らしめたといってもよく、その役割は計り知れなかったのではなかろうか。
 因みに、『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房 昭和33年版)の「宮澤賢治研究の回顧」の中で小倉 豊文も次のように語っている。
…この全集に先んじて「宮澤賢治名作選」(羽田書店)の刊行されたことも忘れてはならない。この選集は度々版を重ねて賢治作品の普及に頗る大きかつた。… 
と。
 
2『宮澤賢治名作選』の検印紙
 では、『宮澤賢治名作選』の奥付の検印紙部分を拡大してみる。
【Fig.2『宮澤賢治名作選』の検印紙】

が興味深い。検印紙の左には『印章は著者の自刻遺愛のもの』とあることから、この印章は宮澤賢治が自分で彫って作った印章ということになる。この本はかなり売れたというから、後々にはこの印鑑はかなり磨り減ってしまったことだろう。
 そういえば、『宮澤賢治 ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部)で森荘已池が「ハンコ賢さん石コ賢コ」というタイトルで次のようなことを言っている。 
 宮澤賢治の幼・少年時代の「仇名」が二つあったことは、今では広く知られている。ひとつは、「ハンコ賢さん」、もう一つは「石コ賢コ」というものである。 (中略)  実際に彫ったハンコも、どこか「キマジメ」といったような、彫るときの少年賢治の顔が見えるようである。
と。賢治はハンコを彫るのが得意だったようだ。

 さてこうして出版された『宮澤賢治名作選』は、中身が素晴らしいということだけではなく、ベストセラー作家松田甚次郎の編集ということが功を奏したためなのだろうか、発行日が昭和14年3月7日であるというのに、殆ど時を経ることのない約3ヶ月後の6月9日には文部省推薦図書になったという。いかに賢治の評価が一気に高まったかがこのことからも推測できると思う。
 実際、私が持っている本は昭和17年11月20日の第11刷発行のものであるが、その本の末尾には
【Fig.3 文部省推薦図書】

という宣伝の頁もあり、松田甚次郎編集の『宮澤賢治名作選』が『土に叫ぶ』とともに文部省の推薦も受けていたことが判るし、『風の又三郎』も併せて推薦を受けていることも判る(因みに、この羽田書店版『風の又三郎』は昭和15年3月15に文部省推薦を受けた)。このことによりさぞかし宮澤賢治の評価はさらに高まっただろうし、これらの本も大いに売れたことであろう。

3『宮澤賢治名作選』の中身
 ところで、宮澤清六と吉田コト氏(以下敬称略)はどのようなものを行李の中から選び出したのだろうか。つまり、松田甚次郎編集の『宮澤賢治名作選』の中身はどのようなものだったのだろうか。その目次を見てみたい。
扉 (写真)面影 手帖
序*1
 (写真)詩碑
セロ弾きのゴーシュ
やまなし
ざしき童子のはなし
よだかの星
朝についての童話的構図
 (写真)岩手山
くらかけ山の雪
春と修羅
岩手山
高原
原体剣舞連
永訣の朝
松の針
無声慟哭
青森挽歌
 (写真)注文の多い料理店
注文の多い料理店
烏の北斗七星
祭の晩
貝の火
オツペルと象
雁の童子
 (写真)羅須地人協会
五輪峠
早春独白
花鳥図譜七月
 (写真)イギリス海岸
牧歌(譜入)
精神歌(譜入)
イギリス海岸の歌(譜入)
飢餓陣営
 (写真)バナナン大将*2
種山ヶ原の夜
植物医師
ポランの広場
 (写真)ポランの広場*2

稲作挿話
野の師父
和風は河谷いっぱいに咲く
 (写真)風の又三郎*2
風の又三郎
岩手公園
橋場線七つ森下を過ぐ
烏百態
干害地帯
月天上穹
早春
選挙
老農
北守将軍と三人兄弟の医者
グスコーブドリの伝記
農民芸術概論綱要
 (写真)筆跡
雨ニモマケズ
手紙一
手紙二
(短歌*3)
宮澤賢治略歴
後記

<*1:『注文の多い料理店』新刊案内を使用している>
<*2:それぞれの劇の一場面>
<*3:目次には書いていないが 辞世>

 ところで、前回の”4『宮澤賢治名作選』出版の経緯
”で触れたように行李の中身は「いい」原稿、「よくわからない」原稿、「ダメ」な原稿の三つに分けたと吉田コトは言っているが、この「ダメ」な原稿について残念なことがある。それは、コトは『月夜の蓄音機』(吉田コト著、滝沢真喜子聞き書き、荒蝦夷)で次のような内容のことを言っているからである。
 「ダメ」な原稿については弟清六が「これ、もういらねハー」と言ったならば、父政次郎がコトに「あんた、持ってってけろ」というのでコトが貰ったのだそうだ。それらの中には葉書、手紙、賢治直筆の原稿そして書きなぐりの反古などが沢山あったのだそうだ。ところが、戦時中コトが東京から山形に引っ越す際に頼んだ運送屋さんがそれらをほとんどどっかにやってしまったのだそうだ(ということは少しは残ったものもあるということ?)。返す返すも残念なことをしてしまったものだ。

4『雨ニモマケズ』の不思議
 当初、『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店)は単行本形式であったが、昭和21年5月20日発行のそれは上・中・下の3分冊に分割されて出版されている。
 そのうちの
【Fig.4『宮澤賢治名作選』上と下の表紙】

である。昭和17年発行の第11刷の単行本のときは箱入り・ハードカバーの装丁だったのに、この昭和21年発行の方は紙の質も悪いしソフトカバーで箱なしである。それは終戦直後だから当然といえば当然であろうが、それ以上に気になるのがこの21年発行の”上”の裁断の仕方である。上の写真で見て判るようにこの本の形状は長方形というよりは台形状に裁断されている。因みに上底は13㎝あるが、下底は12㎝しかなく、1㎝もの差がある。それはつくりが杜撰というよりは、いかにその当時人々が活字に飢えていたかということであろう。本の裁断の仕方などは二の次で、人々は良質の本をむさぼるように読みたくて争って手に入れたかったのだろう。

 さて、この3分冊の場合のそれぞれの中身を目次で見てみると
『宮澤賢治名作選上』
  扉 (写真)面影
  序
  セロ弾きのゴーシュ
  やまなし
  ざしき童子のはなし
  よだかの星
  朝についての童話的構図
  くらかけ山の雪
  春と修羅
  岩手山
  高原
  原体剣舞連
  永訣の朝
  松の針
  無声慟哭
  青森挽歌
  注文の多い料理店
  烏の北斗七星
  祭の晩
  貝の火
  オツペルと象
  雁の童子

<『宮澤賢治名作選中』は所有していないので推測>
  五輪峠
  早春独白
  花鳥図譜七月
  牧歌(譜入)
  精神歌(譜入)
  イギリス海岸の歌(譜入)
  飢餓陣営
  種山ヶ原の夜
  植物医師
  ポランの広場
  春
  稲作挿話
  野の師父
  和風は河谷いっぱいに咲く
  風の又三郎
『宮澤賢治名作選下』
  詩八篇
  北守将軍と三人兄弟の医者
  グスコーブドリの伝記
  農民芸術概論綱要
  手帖より
  手紙一
  手紙二
  宮澤賢治略歴
  後記

【Fig.5『宮澤賢治名作選下』の目次】

   <『宮澤賢治名作選下』(松田甚次郎編、羽田書店)より>  
となっている。

 ここで気になることが一つある。それは
【Fig.6 単行本『宮澤賢治名作選』の目次】

  <『宮澤賢治名作選(昭和17年第11刷)』(松田甚次郎編、羽田書店)の目次より>
と3分冊になったときのそれとを比べてみると少なくとも赤字部分2ヶ所が異なっている。
詩八篇の部分は単行本の場合は
  岩手公園
  橋場線七つ森下を過ぐ
  烏百態
  干害地帯
  月天上穹
  早春
  選挙
  老農
となっていたところであり、それらの8編の詩を言い換えただけだからあまり気にならない。ところが、
手帖よりの部分の方は単行本では
    雨ニモマケズ
となっていた部分である。既に巷間知れ渡っていたはずの詩『雨ニモマケズ』のタイトルがこの『宮澤賢治名作選下』の目次では”手帖より”と言い換えられて、顕わに書かれていないことが不思議であり、気になるのである。

5『土に叫ぶ』への反響など 
 さて、松田甚次郎が編集したという形にして出版した『宮澤賢治名作選』は戦後も売れ続けたであろうことが”4『雨ニモマケズ』の不思議”で触れたことがらから容易に推測できると思う。
 以前、『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)の目次は次のように
   目次
 序
 一 恩師宮澤賢治先生
 二 郷土・鳥越
 三 村芝居
 四 隣保館
 五 婦人愛護運動
 六 精神鍛錬の実習
 七 我家と私
 八 私の農業経営主義と実績
 九 最上共働村塾
一〇 日本協働奉仕団の結成
一一 農村啓蒙行脚
一二 来訪者を語る
一三 善き父と善き友を語る
一四 農村最近の動向と時局

なっていたということは既に触れた。つまり、ベストセラー『土に叫ぶ』の出だしが”一 恩師宮澤賢治先生”というものだったから、『宮澤賢治名作選』が出版される以前から既に、このベストセラーを読んで感銘を受けた読者の中には「宮澤賢治とは一体何者ぞ」と訝しみ、興味・関心を抱いた人がさぞかし多かったことであろう。
 そのような状況下で出版された『宮澤賢治名作選』だから、定価三圓とその当時とすれば高価なはずだが、『土に叫ぶ』の多くの読者を始めとして多くの人々が満を持していたかの如く購入したことだろう。
 したがって、松田甚次郎の『土に叫ぶ』の出版こそが宮澤賢治の存在と彼の作品のすごさを全国に知らしめる最大の切っ掛けとなったのではなかろうかと私は考えている。その当時一部の人に評価されてはいたものの、岩手の一隅にまだ埋もれていただけだったといっていい宝石箱(宮澤賢治の作品)を全国に開けて見せてくれたのが松田甚次郎と言えるのではなかろうか。
 ところでこの『土に叫ぶ』への売れ行き・反響の凄さは、「出版から三ヶ月もたたないうちに新国劇でとりあげるところと」なったということでも知れるが、実際私がいま持っている
【Fig.7『土に叫ぶ』(昭和13年8月25日第3刷)の箱】


 ”果然!! 新国劇上演”
などと銘打っていることからもそれが解る。

 なお、このベストセラー
【Fig.8『土に叫ぶ』の奥付】

を見て判るように、”松田”の検印紙は貼られておらず、版権所有の蘭には”羽田”の押印がある。したがって、吉田コトが言うようにこのベストセラーの印税は松田甚次郎には全然入らず、羽田武嗣郎が丸儲け?したということになるのだろう。だから、羽田書店主の武嗣郎がその済まなさから松田甚次郎にプレゼントをしたかったというのは当然のことだったろうし、蓄音機とレコードをもらっただけの甚次郎は奥床しい男だったことが知れる。

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2 コメント

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昭和24年版の名作選 (井村治樹)
2014-01-27 01:13:32
昭和24年版の名作選では上下2巻本になります。下は春から上はポランの広場まで。しかも目次に手帳よりではなくちゃんと雨ニモマケズとタイトルが書かれています。面白いですね。
返信する
ありがとうございます (鈴木 守)
2014-01-27 07:59:11
井村治樹 様
 お早うございます。
 ご訪問いただき有り難うございます。

 さて、この度は「昭和24年版の名作選」の件ご教示いただきましたこと、御礼申し上げます。
 そういたししますと、
  ・戦中:雨ニモマケズ
  ・戦後直後(昭和21年頃):手帖より
  ・戦後稍後(昭和24年頃):雨ニモマケズ
というタイトルの変遷があったということになりますから、戦前の「雨ニモマケズ」の位置づけ(戦意昂揚のために使われた)がやはりこのことによって傍証されるのかなと思いました。つまり、戦中巷間流布していた「雨ニモマケズ」を、戦後直後においてはそのままのタイトルで使うことが憚られたからタイトルを変えたのではないでしょうか。
 ちなみに、『中等国語 一(1)』(昭和22年2月発行)
http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/4511c7663925e04abe32415cabd7c96c
には「玄米三合」と書き替えられた
  雨にもまけず
が、『中等新国語 文学編 二上』(昭和26年10月10日発行)   http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/586c5877e052fbf0ab70b590fb7ffc99
では元に戻されて「玄米四合」になった
   雨ニモマケズ
が載っておりました。
 そのような時代の変わり方に沿って、再び24年版では元に戻されたのかなと解釈してみました。
 そこで興味が湧いたのが、『昭和24年版の名作選』に載っている「雨ニモマケズ」の場合には、
   玄米四合なのだろうか
それとも
   玄米三合なのだろうか
ということです。
                                             鈴木 守
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