《『批評空間 Ⅱ 14』(太田出版)の表紙》
この討議においてはこんなことも語り合っていた。まず、柄谷氏が、
日本の文脈では、宮澤賢治を使えば、何でも正当化できる。
〈『批評空間 Ⅱ 14』(太田出版)19p〉と言ったことに対して、関井氏は、
それは宮澤賢治のテクストが主体を無化しているからだと思う。一見すると美しい言葉で書かれている。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という「農民芸術概論綱要」の言葉はその代表みたいなものです。この言葉の裏にあるのは、不惜身命、主体を消去することです。これは全体主義の論理ですね。それを宮澤賢治の謎だと言ったりする。きちっと読めばわかるのに。
〈同〉と応じた。するとすかさず、吉田氏が「読んでみれば一目瞭然なんだよ」とダメ押しをしていた。すると関井氏は、
それがわからないから、法華経を信仰したとか、法華文学を書いたというあざとい物語をつくる。國柱会の講師高知尾智耀に法華文学を奨められたという話が神格化するのも、それがわからないから生まれる。
〈同〉と断定して決めつけていた。それも、「あざとい」という表現を用いてだ。
そこで、「それがわからない」私は、「國柱会の講師高知尾智耀に法華文学を奨められたという話」は知っていても、それが「神格化」されたものだということまでは知らなかったので戸惑った。そのあげく、「それがわからないから生まれる」と言われてしまったので私はうろたえた。そして、そういえば関井氏は「國柱会や田中智学の研究者」だったということで、私はついにノックダウンを喰らった。
最早そうなってしまった私は、関井氏の以下の続きについては違和感を感じたものの、ここは先ずは聞き置き、ゆくゆく自分自身で検証をせねばならないことのようだと認識した。
高知尾智耀もそういう言い方はしていないと書いている。高知尾智耀が言ったのは、文芸の霊化、田中智学の奨励した「國性芸術」のことです。賢治は「法華文学」にすりかえたんです。
〈同〉つまり、賢治の文学がはたして「法華文学」なのかどうかをいずれ自分なりに調べてみる必要がありそうだ。
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