みちのくの山野草

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3693 昭和2年3月の賢治

2013-12-16 09:00:00 | 涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 では昭和2年3月の場合はどうだったであろうか、賢治はいよいよ隣の郡内の義捐活動に乗り出したのであろうか。
 そのことを探るために、昭和2年3月の賢治の営為等を「賢治年譜」から抜き出してみる。
3月 4日 <〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕>
      2月27日付案内による「春ノ集リ」が開かれたと見られる。
 湯口村の高橋末治の日記によると「組内の人六人宮澤先生に行き地人協会を始めたり 我等も会員と相成る」。
3月 8日 松田甚次郎初めて賢治の許を訪れる。
3月15日 <〔暗い月あかりの雪のなかに〕><〔こんやは暖かなので〕>
3月16日 <〔たんぼの中の稲かぶが八列ばかり〕><〔赤い尾をしたレオポルドめが〕><〔いろいろな反感とふゞきの中で〕><〔土も堀るだらう〕>
      菊池信一宛書簡〔227〕
3月19日 <運転手><〔火がかゞやいて〕><〔ひるすぎになってから〕> 
3月20日 羅須地人協会集会。「エスペラント」か、あるいは「地人芸術概論」か。
3月21日 <〔野原はわくわく白い偏光〕><〔甲助 今朝まだくらぁに〕><〔洪積世が了って〕>
3月23日 <〔山の向ふは濁ってくらく〕><〔わたくしの汲みあげるバケツが〕>
3月26日 <〔黒つちからたつ〕>
3月27日 <〔日が照ってゐて〕><開墾>
3月28日 <〔黒と白との細胞のあらゆる順列をつくり〕><〔遠くなだれる灰いろのそらと〕><札幌市><〔労働を嫌忌するこの人たちが〕><〔あそこにレオノレ星座が出てる〕>
3月31日 <〔いくつの 天末の白びかりする環を〕>
           <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>
 したがって、やはり3月の場合も「1月10以降の講義予定表」通りに羅須地人協会では講義が行われてはいたようだが、少なくとも「賢治年譜」による限りにおいては、詩の創作数が急激に増えてはいることはすぐ判るが、残念ながらそれらの詩の中にこのときの大旱魃に関連して触れたものは通読してみた限りにおいてはなさそうだし、相変わらずそれに対する義捐活動を行ったということも窺い知ることは出来ない。
 よって、大正15年の旱魃による凶歉に際して、
   実は、賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」
と結論せざるを得ないし、必ずや、
   賢治はこの年の「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」ことを後々まで悔いていた。
に違いないということの確信を私はした。

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『賢治が一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』   


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