みちのくの山野草

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チェロの学習(後編)

2019-04-02 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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〈承前〉
 『ウエルナーの教則本』の可能性
 となれば、同じようなことが『ウエルナーの教則本』に対しても可能かどうかを調べる必要がある。
 その『ウエルナーの教則本』だが、それと全く同じものかどうかはしかとわからないが、基本的には酷似しているであろう『ウエルナーチェロ教則本』(企画編集室編著、東京楽譜出版社)を手に入れた。
 さてその中身である。まず同書の1p~10pには、
 チェロの調弦、同名称、同持ち方、指の位置、弓の持ち方弾き方、各種記号等
が載っている。そして11pから本格的な練習が始まり、そこからは最終頁までがすべて楽譜から成り立っている。ちなみにその最初の頁は、
    【11p  開放弦の練習、手くび首の練習
になっていて、その一部分は上段が学習者、下段が教授者となっている楽譜もある。
 さて、はたして賢治はこの教則本を用いて「セロ一週一頁」ずつ独習でマスターしていったのだろうか。たしかに、賢治は大正15年(昭和元年)末に大津三郎から「三日間のチェロの特訓」を受けた際、ボーイングについては少なくとも指導を既に受けていた訳だし、この頁なら開放弦の練習だからチェロ初心者でも何とかなりそうだ。
 しかし、次の頁を捲ると、
    【12p~13p 第一の位置 各指の位置
となっていて、実質的な練習が始まったばかりの2頁目だというのにもう「指の位置」とあるから、早速左手の練習ということになるのではなかろうか。したがって、もし賢治がこの教則本を用いて「セロ一週一頁」ずつマスターしようとしたのであれば、賢治がかなり苦労したであろうことは想像に難くない。
 そして次は、
    【14p~15p 第一の位置
となっていて、この頁の楽譜はすべて上段(学習者)と下段(教授者)とに分かれている。
 これに関連しては、藤原嘉藤治が井上敏夫との対談で次のようなことを後年語っている。
井上 どんな練習をしたんですか。
藤原 その当時はチェロの教科書があまりなかったので、バイオリンの教則本、ホーマンのⅠを使って、弟子は上の方のメロディーを弾き、先生が下の方を弾くんですが、それを二人でやりました。
井上 どちらが下の方をやったのですか。
藤原 僕が下をやりました。低音ですからね、弾いていると腹の底からグーグー響いてきて、それが愉快でした。宮沢君は、チェロはほんの初歩でした。
<『宮沢賢治第5号』(洋々社)24pより>
 この対談は昭和48年10月に行われたものであるから、時に藤原嘉藤治77歳であり、ここで語られていることはかなり昔の話になるので中には記憶のずれ等もあるかもしれない。
 とはいえ、少なくとも賢治と嘉藤治は二人でチェロの練習をしたことがあるということは間違いなかろう。当然チェロに関しては初歩であった賢治が上段を弾き、既にチェロをやっていた嘉藤治が下段を弾いたこともこの証言どおりだろう。
 そこで、賢治が常にこのようにして嘉藤治から指導を受けられたのであればそうでもなかったかもしれないが、嘉藤治は花巻高等女学校の教師だからそれは叶わなかったであろうから、もし『ウエルナーの教則本』を用いて賢治がチェロの独習をしていたとすればかなり難渋したであろう。
 やはり『ヴィオロン・セロ科』では
 ところで、『ウエルナーの教則本』の最終頁は76pであった。ということは、同教則本には練習用のページ数だけでも、
   76-11+1=66頁
あり、もし「セロ一週一頁」の割合で真面目に練習すると、
   66×7=462日
すなわち、
   1年と97日
を要することになる。とても一年内には終わりそうにない。
 一方『ヴィオロン・セロ科』の方であれば、それがもし『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)に「資料」として載っているとおりのものだったとするならばそれは40頁分ある。また、この『ヴィオロン・セロ科』を賢治が筆写した「チェロ学習ノート」となる訳だが、先ほど心に留めておきたいと言ったようにこのノートの「頁数」も「四十頁」であった。この二つの頁数が一致していることは、やはり用いたのは『ヴィオロン・セロ科』の方なのかもしれないと思わせる。
 もし、「セロ一週一頁」用としてこちらを用いていれば、
   40×7日=280日
となるなので、数字上からは「本年中セロ一週一頁」は達成できそうだ。また、瞥見した限りにおいても『ウエルナーチェロ教則本』と比較して『ヴィオロン・セロ科』の方が達成しやすそうな気がする(まあ所詮私の素人判断ではあるが)。
 こうやってここまで調べて来てみた結果、賢治が「セロ一週一頁」ずつマスターしようとしたのはどうやら大津三郎から貰った『ウエルナーの教則本』ではなくて『ヴィオロン・セロ科』の方だったのではなかろうか、と私は判断したくなってきた。
 もしこちらの『ヴィオロン・セロ科』の方を用いていたとすれば、例の一年の計「本年中セロ一週一頁」の具体的な中身は、この『ヴィオロン・セロ科』を一週一頁ずつ筆写しながら学習していくというものであったとなろうし、その結果出来上がったのがもちろん「チェロ学習ノート」であったということになろう。
 『ヴィオロン・セロ科』の借覧先
 さて、『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』によれば、件の「チェロ学習ノート」は賢治の筆跡から判断して大正14年~昭和2年頃のものだという。それではその際に賢治はその原本(『西洋音楽講座』所収の平井保三著『ヴィオロン・セロ科』)をどこから借覧したかというと、それは国会図書館でもないし、藤原嘉藤治や澤里でもないともいう(『校本宮澤賢治全集第十二巻下)』(筑摩書房)598pより)。
 では一体どこからそれを賢治は借りたのだろうかであるが、もしかすると町内の木村兄弟の家から借覧したのではなかろうかと私は直感した。木村家は資産家であったようだし、芸術にも造詣が深かったと聞くからである。
 当時の木村家については、高橋文彦(松田十刻)氏によれば父木村寿は花巻市坂本町の開業医で、子供は全部で七人だという。長男の圭一も医師であり、またアイヌ語研究家でもあったという(「賢治を慕った女性たち」(『宮沢賢治第5号』(洋々社)所収)112pより)。この圭一は藤原嘉藤治や妹らとレコード鑑賞やコンサート活動を続ける(『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)94pより)ということで賢治とは親交があったようだし、『啄木 賢治 光太郎』によれば圭一は当時花巻にあったカルテットのメンバーであり「のち岩手医大の教授になったセロの木村圭一」とある(『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞盛岡支局)156p)。圭一はチェロも弾いたようである。
 一方、『西洋音楽講座』の中身はどのような内容であったかというと、横田氏の前掲書(28p)によれば、
  音楽通論、楽典、和声学、音楽史、ピアノ科、声楽科等
ということだから、木村兄弟の中の特に木村杲子であれば、上野音楽学校(東京芸術大学前身)に入学して声楽とピアノを専攻しているということだし、杲子は藤原嘉藤治の教え子でピアノのレッスンなども嘉藤治から受けている(『宮沢賢治5号』(洋々社)114pより)という。
 したがって木村家では『西洋音楽講座』を購読していた可能性が大であり、圭一あるいは嘉藤治のルートでそのことを知った賢治がそれを借りた可能性があるのではなかろうか。かなり想像を逞しくした話ではあるが。
 順調な滑り出し
 さて、昭和2年の賢治は「一年の計」の一つとして「本年中セロ一週一頁」を立て、「チェロ練習ノート」を作りながら、チェロをマスターしていこうという意気込みに溢れていたといえる。
 それも、チェロの独習のみならず、例の毎週火曜日に行われていたという近所の若者達からなる楽団の練習も続けられ、そして、これもまた計画的に行われたであろうと思われるのが例の講義である。
 ちなみに「新校本年譜」によれば、
1月10日 〔講義案内〕による羅須地人協会講義が行われたと見られる。午前一〇時より午後三時まで。
1月20日 羅須地人協会講義。参会者に「土壌要務一覧」のプリントを配布し、図解を示ししつつ土壌学要綱を講じる。
1月30日 羅須地人協会講義。「植物生理学要綱」上部。午前一〇時より午後三時まで。
<「新校本年譜」(筑摩書房)より>
とあり、〔講義案内〕どおりに実施したようだ。
 また、賢治のチェロはまだまだ習いたてだから楽団でチェロを弾きこなすことができなかったことは自明だろうが、井上ひさしによれば『楽器練習会で最初に取り上げた曲は「太湖船」だったという証言がある』(『ちくま日本文学全集 宮沢賢治』(筑摩書房)460p)ということだから、この曲だけは賢治もチェロを弾きながら若者達と一緒に合奏を楽しんだことであろう。
 ちなみに、横田庄一郎氏によればこの「太湖船」という曲はチェロの開放弦だけで弾けてしまう曲(『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)35pより)であるというし、板谷栄城氏も『賢治小景』において次のように言っているからである。、
  『太湖船』唯一の曲 楽譜は自筆
 羅須地人協会時代の賢治はオーケストラを作ることを夢見て、集まってくる青年たちと練習しました。
 しかし、バイオリンの初心者用『ホーマン』という教科書さえ手にはおえません。
 ですからレパートリーはただ一つ、『太湖船』だけでした。
  …(中略)…
 ところで賢治自筆のガリ版刷りの『太湖船』楽譜がのこっていますが、それはハ長調で書かれています。
 となると低音部はCとGだけでも何とかなりますので、チェロの開放弦だけで弾けますから、賢治の腕をもってしても何とかなったと思われます。
<『賢治小景』(板谷栄城著、熊谷印刷出版部)32p~より>
 したがって、昭和2年は順調に滑り出して何もかもが賢治の思ったとおりに回り出した……

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