みちのくの山野草

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単行本『宮澤賢治物語』における証言の改竄

2022-06-07 12:00:00 | 賢治渉猟
《ヤマルリトラノオ》(真昼岳、平成30年7月19日撮影)
魑魅魍魎の世界
 ――「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」――

 そこで、「沢里武治氏聞書」に関する『岩手日報』新聞連載版と単行本版のそれぞれの当該部分とを見比べてみることにした。
 まずは、「沢里武治氏聞書」の連載は昭和31年1月1日から始まっていて、当該部分は同年2月22日付朝刊に『宮沢賢治物語(49)』として載っていて、それは下掲の通り。
【Fig.1『宮澤賢治物語(49)』「セロ(一)」】

 宮沢賢治物語(49)
  セロ(一)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。
 その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
 『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。間もなく改札が始まったので、私も先生の後についてホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
『ご苦労でした。帰つたらあったまって休んでください』
 そして、しっかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。
 汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈ったかしれません。……投稿者略…
             <昭和31年2月22日付『岩手日報』>
 なお、翌日の新聞に載った「宮澤賢治物語(50)」は次のように続く。
   セロ(二)
 この上京中の手紙は大正十五年十二月十二日付になっておるものです。
 手紙の中にセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。…投稿者略…
             <昭和31年2月23日付『岩手日報』>
 そしてまず、ここまで読み進めて感じたことは、この場合は違和感を全く感じなかったことだ。

 一方で、単行本の『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年8月発行)の当該部分は以下の通り。
【Fig.2 「セロ 沢里武治氏からきいた話」】

  セロ
    沢里武治氏からきいた話
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において知人となりしインド人ミーナ(ママ)氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。」
 と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。発たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待つておりましたが、先生は、
「風邪をひくといけないから、もう帰つて下さい。おれは一人でいいんです。」
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。
 間もなく改札が始まつたので、私も先生の後についてホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
「ご苦労でした。帰つたらあつたまつて休んでください。」
 そして、しつかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈つたかしれません。…投稿者略…
 この上京中の手紙は、大正十五年十二月十二日付になっておるものです。
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。…投稿者略…
             <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)217p~>
 もちろんこちらは相変わらず違和感を感じる。意味が通じないからだ。

 そこで落ち着いてもう一度両者を見比べてみたならば、一箇所だけ全く違っている箇所があった。それは、
   新聞連載の『宮澤賢治物語』の場合における
    ・昭和二年には先生は上京しておりません。…………①
   単行本の『宮澤賢治物語』の場合における
    ・昭和二年には上京して花巻にはおりません。…………②
の部分である。この両者の違いは文字数としてはたった一字だが、意味としては全く逆であり、決定的な違いがある。これが、違和感を感じるか否かの違いだったのだ。端的に言えば、①ならば賢治は上京していないということになるし、②ならば上京していることになるからである。
 もちろん新聞連載の方の①は関登久也存命中のものであり、この①の方が本来の沢里武治の証言であることが判る。ということは、連載『宮澤賢治物語』を単行本『宮澤賢治物語』として出版する際に、
    ・関登久也以外の人物がたまたま間違えた。
ということが起こったか、あるいは
   ・関登久也以外の人物がわざとある意図の下に書き変えた。
という行為があったと考えられる。

 さて、では実際にはどちらの方が起こっていたのか。私は、後者の方が起こっていたと見た。なぜならば、他の箇所は基本的には違っていないのにもかかわらず唯一この箇所だけが違っていて、なおかつ①と②とでは全く逆の意味になってしまうからである。それも重要な意味を持っている一文だからである。
 したがって、やはりここは改竄が行われていたと判断するしかない。そしてまた、こうまでもして改竄せねばならなかった理由は何なのか、ということを想像しただけで私はちょっと戦慄を覚え、書き変えた人の賢さ(ずる賢さ)に私は愕然とした。そしてやがて、その賢さはこんなことをするために与えられたものではなかろうにと、強い憤りに変わった。
 一方、沢里武治はこのような改竄が為されたことを知ったならばどのように思っただろうか。何度か遠野の沢里家を訪ねた際に、この新聞連載を貼り付けたスクラップブックと単行本の『宮沢賢治物語』を、武治の息子さんの沢里裕氏から私は見せてもらったことがあるから、おそらく武治は自分の証言が書き変えられたことに気づいた蓋然性が高い。そこで私は武治の気持ちを忖度してみたくなる。おそらく武治は、

 どう考えたって昭和2年の11月頃の霙の降るある日、チェロを持って上京する賢治を花巻駅でただ一人見送った。そしてそのように関登久也からの取材に対して証言した。ところがどういう訳か①の部分が②のように書き変えられ、あげく、いつの間にか「宮澤賢治年譜」ではそれは大正15年の12月2日のことであるとされてしまった。

と悲嘆に暮れていたのではなかろうか。もちろん控え目な性格の武治のはずだからそんなことはないとは思うが、もしかすると牽強付会なことだと実は苦々しく思っていたかもしれない。
 またこのような思いに駆られているのは著者としての関登久也も同様であろう。まして、改竄されていたとなればなおさらにである。さぞかし、天国で沢里と関の二人は複雑な想いと遣る瀬無さを抱いていることであろう。

 そして、石井洋二郎氏の「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」という警鐘を改めてかみしめる。たしかにそうしようとすると、おかしなところがこのように見つかって来るし、やがてその謎も解けそうだ。では、次はまさにその一次情報について論じてみたい。

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